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第二話-2

 その次の日だったか、図工の時間に「学校の中で絵を描きましょう」という課題が出た。他のクラスの授業に迷惑がかからない場所を選んで、大きな画用紙に絵を完成させるというものだ。  地大は画版とクレヨンを手に、校庭の端を目指す。そこから見える景色が、ちょっと気に入ったからだ。  目的の場所には、先客がいた。 「久世?」 「あ、藍原くん」  名を呼ぶと、校庭脇の茂みの奥から、ぴょこんと顔が飛び出す。まともに会話らしい会話もしたことがなかったので、望が地大の顔と名前を知っていることすら知らなかった。地大は特別目立つ容姿をしていないし、他の男子同様、半袖短パン日に焼けた姿で走り回っていた。  今思えば三年生の最初から地大は担任に何度も注意されている。五十メートル走はクラスで一番速い。良くも悪くも目立っていたから憶えていても不思議ではないが、自分と同じように望は仲良くないクラスメイトのことを知らないと、当時の地大は思っていた。  望は校舎の絵を描いているようだ。空を見上げながら花壇のレンガに腰をおろす地大を見て、望はクレヨンを持つ手を止めた。 「藍原くんもここで絵、描くの?」 「うん。これ」  地大は金網の向こうに見える鉄塔を指差す。その方角は高いビルがなくて、そびえる鉄塔がよく見えた。 「でかい鉄塔、かっこいいだろ」  座るとさらに高さを増す。空の向こう──宇宙とだって交信できそうな気がしてくる。  いい画角を探して地大が細かく動いていると、望はくすくすと静かに笑った。 「なんだよ」 「藍原くんはみんなと違うなあって」  嫌味のない口調だったが、望の声は地大の胸を突いた。 「それ、悪口だろ」  どこかで自分とみんなが違うものだということはわかっていた。他のクラスメイトは、テストが終わっても席を立たないし、疑問があってもわざわざ口に出して友達に反論したりしない。  地大が苦く唸ると、望は大慌てで首を振る。 「ち、違うよ! 本当だよ!! むしろ、その、褒めてる」  次第に濁っていった言葉を聞き取れず、地大は「え、なに?」と身を乗り出す。  望は瞬きを多くして、俯いた。手の中のクレヨンがぎゅうと握られる。 「みんなと違うことしてたり、違うこと思ってたりするけど、藍原くんは自分の気持ちのままにしてて、それがすごいと思う。個性だし、才能だし、藍原くんなんだなって、見てて思うし、憧れるんだ」  望は少し早口で、言い終えるとキラキラした瞳で地大を見上げた。  その表情が、言葉が、地大の胸をぐっと掴む。先ほどの「みんなと違うなあって」と言われた時のように、心が苦しく、甘く、鳴った。  何より、それほど親しくもない同級生にそこまで褒められたのは初めてだ。偉ぶることも、受け入れることもできず、地大はむずむずと唇を動かす。 「な、なに、それ」 「それに、藍原くんはテストもしっかり終わらせるじゃない。いい加減にやらないの、えらいよ」 「そ、そりゃ、学校はちゃんとやるところだし……ヘンな奴」  親からは、学校ではきちんと授業を受けるように、先生に従うように、と言い含められている。忘れてしまったり、我慢できなかったり、理由はいろいろあるが、地大自身は親の言いつけを守ろうとは思っていた。  地大が勢いで言った呟きが聞こえたのだろう。望はハッとして輝く(かんばせ)を伏せた。 「あ、ご、ごめん。変、だよね。あはは──」  不用意に口にした言葉で傷つけた、と地大にもわかった。「ごめん」と伝えればよかったが、すぐにその謝罪が出てこなくて、望の画版を覗き込む。 「久世はどんなの描いてんの?」  画用紙には、校庭の向こうに鎮座する校舎が描かれている。望はそれを丁寧に色を重ねて写生していた。地味ではあるが、綺麗な絵だと地大は思う。 「どうして校舎?」  退屈だと思い、地大が選ばなかった風景だ。どこに良さがあるのか、率直に訊いてみたかった。  望は「んー」と首を捻り、やがて笑った。 「わかんない」 「はあ?」 「別に好きなものを描きましょうって言われてないから、なんだっていいのかなぁって」  そして、空虚な声が零れ落ちる。 「誰も僕の絵をそんなにしっかり見ないと思う」  その時の地大には口調の機微を感じ取る力はなかったが、違和感をおぼえて口を開いた。 「そうか? だって、久世の絵ってめちゃくちゃていねいじゃん。オレはこんな細かいところまで描くの、すぐ飽きちゃいそう」  根気強くクレヨンを塗り重ねた絵は、廊下に貼り出されれば多くの生徒が「うまい」「きれい」と称賛するだろう。それが、望の好きなものではないとしても、人を惹きつけるほど素晴らしいものにしたのは望だ。  地大の言葉が意外だったのか、望はぱちぱちと瞬きを繰り返している。 「それも、コセイ? とか、サイノウ? とかじゃねえの?」  望が使った大人びた単語を地大が返すと、今度は戸惑ったようにもじもじと背を丸くする。 「そ、そんな……」  あんなに地大を褒めておいて、自分は褒められたら顔を赤くして蹲る。その様子に、地大はぷはっとふきだした。 「久世ってオモシロいよな。一人で本読んでるのもったいない」  大人しくて美しいだけと思っていた同級生が、どんどん光り輝く眩いものへと変化していく。地大は眩暈がするようだった。世界がきらきらしている。宝物を発見したように、興奮で頬が熱くなった。  望は俯いたまま、ちらりと視線をよこす。 「本、好きなんだ。あと、あんまりたくさんで遊ぶの得意じゃないし」 「じゃあ、オレは?」  地大は自分を指差した。 「オレは久世と遊んでみたい」  たくさんじゃなくていい。他のクラスメイトが嫌なら、地大が断って二人だけで遊びたい。  そう告げて口元を持ち上げると、望は了承するように小さくはにかんだ。 「久世望……じゃあ、今から望な!」 「えっ!? う、うん」 「オレも地大な」 「んん!? ……ええと、地大、くん」  苗字ではなく名前で呼ぶと、一層友達だという実感がわいた。  それから、望とは学校で一番仲良くなった。 「地大くん!」  明るい声音で呼ばれると、地大はなんだか誇らしい気持ちになる。  これからもっと遊べる、もっと仲良くなれる、そう思っていた矢先、望の転校が決まった。  泣くほど悲しんだし、住所のやりとりもしたはずなのに、結局それから望に連絡することはなかった。  望からも連絡はなかった。新しい学校でうまくやれているんだ、と思うと、寂しいからと連絡することが憚られた。自分ばかりが執着して、そうでもない望の邪魔をしてしまうのではないか。  そうこうして中学校に上がった頃には、自分のことで手一杯で、連絡しようという気持ちはなくなった。  ずっと心の片隅に、『あの時』望に掴まれた感覚だけ残して。    * * *  自分の服に着替えてゲイキャバ『ガニメーデ』のオフィスへと戻る。今日はシフトが入ってない。オーナーと顔を合わせるのは嫌だったが、私物はここに置いているから仕方ない。  幸い、オフィスには誰もいなかった。  地大は荷物の中からノートパソコンを取り出し、その辺に放っていたリュックに詰める。  カタ、と小さな音がした。キャストの控え室の方からだ。 「──ぁ、ん──だめ、っん──」 「は──はぁ──大丈夫」  艶めいて甘い声は二つ。高い方はキャストの後輩のユウトだろう。低い方はオーナーだ。  薄い壁の向こうで始まる情事に、地大は自分の顔が渋く歪むのがわかる。  スニークミッションのように音を立てずにオフィスを出ると、行為に夢中になっている隙にそっと裏口から退場した。 「なーにが、関係持つの禁止だよ」  表の道路に出ると、ビルの一室でそんなことが行われているなんて嘘のように、太陽が眩しい。  悪態をついて、地大はリュックを背負った。  最初にできたのは彼女だった。恋やら愛やらよくわからないまま付き合ったけど、いざセックスしようという段階で、別に彼女に性的興奮をしないことに気付いて破局。  次に付き合った彼氏とは、セックスまでいった。興奮もしたし、好きだったとは思うけど、何かが違うと思った。結局、地大はすぐに別れた。  その後もゲイバーで出会って別れてを繰り返したけれど、どれも長く続かない。どれも、何かが違う。  何かが違う。  ずっと、その奇妙な感覚に振り回されてきた。  それなのに、今までそんなことをしたことがない望に、これだと思った。ぎゅっと心を掴まれるような、違和感がピタリと合う快感が走った。 『ごはんと服、ありがと』  逡巡した指が、送信ボタンの上を行ったり来たりする。  望にずっと抱いていた想いが、パズルのようにはまる。  それまでの苦悩が嘘のように晴れ渡り、求めていた腕に抱きしめられる幸福な気持ちに満たされた。  それを思い出すと、何も言わずに別れた方がいいと自分を戒める声が、小さくなっていく。  送信ボタンを押して、地大はすぐにSMSのアプリを閉じた。  醜く、惨めたらしく、引いてもらうための後ろ髪をなびかせてしまうのだ。

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