7 / 38
第7話 甘えの契約
翌日。
日比野はメッセージで送られてきた住所を頼りに、高村の部屋を訪れた。
インターホンに伸ばした指が、思わず空中で止まる。
繁忙期の残業を終え、やっと迎えた週末の休み。
それなのに、どうして自分はここに来ているのか――。
(……でも、もう来ちゃったし)
小さく息をはき、「えい」と押した。
「どうぞ」
応答と同時に玄関の扉が開き、中へ促される。
部屋は落ち着いた色合いでまとめられ、整然としていて無駄がない。
「ごめんね、わざわざ来てもらって。でも、外で話すようなことでもないし」
そう言って高村は、コーヒーを淹れたカップをテーブルに運ぶ。
座る前に、日比野はどうしても気になって口を開いた。
「……先に聞いておきたいんだけど。高村って……そっちの趣味じゃないよね?」
もしそうなら全力で断って逃げ帰るしかない。
高村は笑いながら、カップをテーブルに置いて顔を上げた。
「違うよ。でも、そういう心配が出るのもわかる。そういう意味じゃないから、安心して」
「……ならよかった」
胸を撫で下ろす日比野に、「まぁ、座って」と声をかける。
日比野はソファに腰を下ろし、湯気の立つコーヒーを一口。
その姿を見てから、高村はソファと同じ素材のオットマンに軽く腰掛ける。
日比野は、少し落ち着いてから、素直な疑問を投げかけた。
「……でも、なんで俺? 高村なら選び放題だろ」
高村は少し考えてから、言葉を選ぶように口を開いた。
「……今は、恋愛とか求めてないんだよね。年齢的に結婚を考える人も多かったり……ただ癒しが欲しいって言いづらいし、難しい」
なるほど――。
日比野は、ようやく腑に落ちる思いがした。
恋愛に発展しない、けれど互いに癒し合える関係。
そういう相手を探していたのか。
それなら、確かに自分でも条件には合っているのかもしれない。
「……モテると、大変なんだろうな」
何気なくこぼした言葉に、高村が小さく笑う。
「……そういうふうに、本当に心配してくれる人だから誘ったのかも」
「へ? なにが?」
「同じことを言われても、僻み混じりだったりするんだよ。でも日比野は違う」
「……そんなの、普通に心配するだろ」
「そうでもない人が多いんだよ」
どこか疲れのにじむ声。
それを聞いて、日比野も口を開いた。
「……俺、恋愛は苦手で。出会いもそんなにないし、そういう場に出かけるのも向いてないし。
でも……癒しが欲しいっていうのは、すごくわかる」
日比野の言葉に、高村がふっと微笑んだ。
日比野は自分の言葉に照れくささを覚え、カップを手にしてコーヒーをひと口。
いつの間にか隣に来ていた高村から、さらりと声が落ちてきた。
「……じゃあ、さっそくハグでもしてみる?」
あまりに唐突な提案に、危うく飲みかけのコーヒーを吹き出すところだった。
「は、……ぐ……?」
「お試し。やってみなきゃわからないから」
「……まぁ、そうかもしれないけど」
「じゃあ」
高村がすっと距離を詰め、日比野の隣に腰を寄せる。
両腕を広げて、柔らかな笑みを浮かべた。
「はい、どうぞ」
「…………」
(なにやってんだ、俺……)
頭の中で自分にツッコミながらも、結局、日比野は恐る恐るその胸へと身を寄せた。
すぐに、高村の腕が静かに背中に回り込む。
強すぎず、かといって頼りないわけでもない。
絶妙な加減で包まれる感覚に、最初の気恥ずかしさは次第に薄れていった。
(……なんだこれ。落ち着く……)
ほどよく鍛えられた体に包まれるのは、守られているような安心感があった。
無意識に胸元へ頭をすり寄せると、自然に腕も背中へと回していた。
次の瞬間、背中をやさしく撫でられる。
春の日差しに包まれるような心地よさに、日比野は時間の感覚を忘れそうになる。
眠気すら誘われて、思わず身を委ねていた。
ハッと我に返り、慌てて顔を上げる。
「……あ、ごめん! なんか、ぼーっとしてた」
視線が合う。
高村は穏やかな笑みを浮かべて、短く言った。
「いいよ。そのままで」
気まずさと恥ずかしさに身じろぎする日比野。
そんな彼の背中を、もう一度やさしく撫でながら問う。
「……どう? 悪くない感じ?」
日比野の頬に熱が上がる。
小さな声で、ようやく答えを絞り出した。
「………もう少し、このままでいても………いいかな」
「好きなだけどうぞ」
高村は柔らかに笑い、抱きしめる腕にわずかに力を込めた。
すり、と胸に頭を擦り寄せ、すっかり落ち着いている日比野を、高村は目を細めて見つめていた。
「……気に入ってくれたなら、良かった」
その声に反応して、ひょこ、と日比野は顔を上げる。
「……高村も? 癒されるの、これ」
微笑んだ高村が、静かにうなずく。
「うん。甘えてくれるの、可愛い。恋愛とか抜きで、こうやって甘えてもらえるだけで十分癒される」
「……そうなんだ」
「日比野が嫌じゃなければ、またしたい」
言葉を受けて、日比野は視線を落とし、少し頬を赤らめる。
「……嫌じゃない。というか、俺も……癒されてる」
その答えに満足そうに笑みを深めて、高村は手を差し出した。
「じゃあ――契約成立ってことで」
差し出された手を見つめ、日比野は少しだけ迷った末に、そっと自分の手を重ねる。
「……よろしく。会社のやつらには内緒な」
「もちろん。二人だけの秘密だね」
握り合った手のぬくもりがじんわりと伝わり、
ふたりの間に安心感が広がっていく。
こうして――
二人の関係は、静かに始まろうとしていた。
ともだちにシェアしよう!

