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第7話 甘えの契約

翌日。 日比野はメッセージで送られてきた住所を頼りに、高村の部屋を訪れた。 インターホンに伸ばした指が、思わず空中で止まる。 繁忙期の残業を終え、やっと迎えた週末の休み。 それなのに、どうして自分はここに来ているのか――。 (……でも、もう来ちゃったし) 小さく息をはき、「えい」と押した。 「どうぞ」 応答と同時に玄関の扉が開き、中へ促される。 部屋は落ち着いた色合いでまとめられ、整然としていて無駄がない。 「ごめんね、わざわざ来てもらって。でも、外で話すようなことでもないし」 そう言って高村は、コーヒーを淹れたカップをテーブルに運ぶ。 座る前に、日比野はどうしても気になって口を開いた。 「……先に聞いておきたいんだけど。高村って……そっちの趣味じゃないよね?」 もしそうなら全力で断って逃げ帰るしかない。 高村は笑いながら、カップをテーブルに置いて顔を上げた。 「違うよ。でも、そういう心配が出るのもわかる。そういう意味じゃないから、安心して」 「……ならよかった」 胸を撫で下ろす日比野に、「まぁ、座って」と声をかける。 日比野はソファに腰を下ろし、湯気の立つコーヒーを一口。 その姿を見てから、高村はソファと同じ素材のオットマンに軽く腰掛ける。 日比野は、少し落ち着いてから、素直な疑問を投げかけた。 「……でも、なんで俺? 高村なら選び放題だろ」 高村は少し考えてから、言葉を選ぶように口を開いた。 「……今は、恋愛とか求めてないんだよね。年齢的に結婚を考える人も多かったり……ただ癒しが欲しいって言いづらいし、難しい」 なるほど――。 日比野は、ようやく腑に落ちる思いがした。 恋愛に発展しない、けれど互いに癒し合える関係。 そういう相手を探していたのか。 それなら、確かに自分でも条件には合っているのかもしれない。 「……モテると、大変なんだろうな」 何気なくこぼした言葉に、高村が小さく笑う。 「……そういうふうに、本当に心配してくれる人だから誘ったのかも」 「へ? なにが?」 「同じことを言われても、僻み混じりだったりするんだよ。でも日比野は違う」 「……そんなの、普通に心配するだろ」 「そうでもない人が多いんだよ」 どこか疲れのにじむ声。 それを聞いて、日比野も口を開いた。 「……俺、恋愛は苦手で。出会いもそんなにないし、そういう場に出かけるのも向いてないし。 でも……癒しが欲しいっていうのは、すごくわかる」 日比野の言葉に、高村がふっと微笑んだ。 日比野は自分の言葉に照れくささを覚え、カップを手にしてコーヒーをひと口。 いつの間にか隣に来ていた高村から、さらりと声が落ちてきた。 「……じゃあ、さっそくハグでもしてみる?」 あまりに唐突な提案に、危うく飲みかけのコーヒーを吹き出すところだった。 「は、……ぐ……?」 「お試し。やってみなきゃわからないから」 「……まぁ、そうかもしれないけど」 「じゃあ」 高村がすっと距離を詰め、日比野の隣に腰を寄せる。 両腕を広げて、柔らかな笑みを浮かべた。 「はい、どうぞ」 「…………」 (なにやってんだ、俺……) 頭の中で自分にツッコミながらも、結局、日比野は恐る恐るその胸へと身を寄せた。 すぐに、高村の腕が静かに背中に回り込む。 強すぎず、かといって頼りないわけでもない。 絶妙な加減で包まれる感覚に、最初の気恥ずかしさは次第に薄れていった。 (……なんだこれ。落ち着く……) ほどよく鍛えられた体に包まれるのは、守られているような安心感があった。 無意識に胸元へ頭をすり寄せると、自然に腕も背中へと回していた。 次の瞬間、背中をやさしく撫でられる。 春の日差しに包まれるような心地よさに、日比野は時間の感覚を忘れそうになる。 眠気すら誘われて、思わず身を委ねていた。 ハッと我に返り、慌てて顔を上げる。 「……あ、ごめん! なんか、ぼーっとしてた」 視線が合う。 高村は穏やかな笑みを浮かべて、短く言った。 「いいよ。そのままで」 気まずさと恥ずかしさに身じろぎする日比野。 そんな彼の背中を、もう一度やさしく撫でながら問う。 「……どう? 悪くない感じ?」 日比野の頬に熱が上がる。 小さな声で、ようやく答えを絞り出した。 「………もう少し、このままでいても………いいかな」 「好きなだけどうぞ」 高村は柔らかに笑い、抱きしめる腕にわずかに力を込めた。 すり、と胸に頭を擦り寄せ、すっかり落ち着いている日比野を、高村は目を細めて見つめていた。 「……気に入ってくれたなら、良かった」 その声に反応して、ひょこ、と日比野は顔を上げる。 「……高村も? 癒されるの、これ」 微笑んだ高村が、静かにうなずく。 「うん。甘えてくれるの、可愛い。恋愛とか抜きで、こうやって甘えてもらえるだけで十分癒される」 「……そうなんだ」 「日比野が嫌じゃなければ、またしたい」 言葉を受けて、日比野は視線を落とし、少し頬を赤らめる。 「……嫌じゃない。というか、俺も……癒されてる」 その答えに満足そうに笑みを深めて、高村は手を差し出した。 「じゃあ――契約成立ってことで」 差し出された手を見つめ、日比野は少しだけ迷った末に、そっと自分の手を重ねる。 「……よろしく。会社のやつらには内緒な」 「もちろん。二人だけの秘密だね」 握り合った手のぬくもりがじんわりと伝わり、 ふたりの間に安心感が広がっていく。 こうして―― 二人の関係は、静かに始まろうとしていた。

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