15 / 38

第15話 静かな月明かりの中で

月曜からいつもの仕事が始まり、妙にバタバタと忙しい日々。 新しいプロジェクトも動き出し、まとめるべき書類がどんどん積み上がっていく。 ⸻ 水曜日の午後、会議用の資料をコピーするためコピー機の前へ。 厚い資料の束を機械にかけて、ぼんやりしていると—— 「おつかれ」 声をかけられて顔を上げると、高村だった。 「うん、おつかれ。…じゃ」 日比野は微笑んで、コピーの終わった書類をまとめて持ち上げ、デスクに戻ろうとする。 「あ、待って。これ…」 取り残された資料に気づいた高村が、日比野の腕を軽く掴む。 その瞬間、バランスを崩してふらりと高村の肩にもたれかかった。 「!………あ、ごめん、ありがと…」 一瞬だけ目が合う。 けれど、すぐに逸らして資料を受け取り、足早にデスクへ戻った。 高村はその背中を少し眺めてから、またコピー機へと視線を戻す。 腕に、温もりが残る。 その感触を確かめるように、日比野は無意識にその場所を押さえた。 (……疲れてんなぁ。今日は早く帰ろう) ⸻ 残業を終えて、ようやく荷物をまとめて席を立つ。 暗いフロアにはほとんど人の気配がなく、静まり返っていた。 「…おつかれ」 不意に声をかけられて、びくりと振り向くと高村がいた。 「うわ、びっくりした…まだいたの?俺、マジでホラーとか苦手なんだから…」 暗い通路を歩くだけでも内心びくびくしていた日比野に、高村が小さく笑う。 「疲れたね」 「…ほんと疲れた…。帰ってシャワー浴びて寝るだけの日々だよ、今週…」 肩を落とす日比野を見て、高村がふっと表情を変え、腕を取った。 「…ちょっとこっち」 そのまま連れて行かれたのは資料室。 棚には過去の広告キャンペーン資料や古いパンフレットなどが並び、奥のほうには段ボールが積み重なり、物置のようになっている。 もちろん人の気配などまるでない。 ブラインドの隙間から、月明かりだけが細く差し込む。 暗い部屋の中で、日比野は高村の腕に捕まった。 「…なに? こわいんだけど」 「…少しだけ」 そう言うと、高村は日比野をゆっくりと抱きしめた。 会社の中――人目がないとはいえ、背徳感に思わず息を呑む。 けれど驚きながらも、日比野は自然とその背中に腕を回していた。 慣れた温もりが、疲れ切った体にじんわりと沁みていく。 「…疲れた顔してたから。お互いチャージ」 高村の声は冗談めいていたけれど、その腕の強さが本気を物語っていた。 「…うん…」 日比野もそっと強めに抱き返した。 暗いからか、会社の中だからか―― それとも欲していた高村のぬくもりのせいか。 心臓の音がやけに大きくて、理由は自分でもよくわからなかった。 少し経って、日比野はそっと高村の腕から離れ、微笑んだ。 「…ありがとう。癒された」 高村は黙ったまま日比野を見つめる。 月明かりに照らされた瞳はまっすぐで、けれど微かに揺れていて、日比野は思わず釘付けになった。 高村の手がそっと日比野の頬に触れる。 顔がそっと寄せられて、その距離の近さに胸が跳ねる。 「…また週末。楽しみにしてる」 耳元に落とされた低い声に、ぞくりと体が揺れた。 「先に出るね。おつかれ」 そう言って高村は資料室を後にする。 残された日比野は、強く鳴る心臓を押さえて深く息をついた。 ――なんだか、さっきの高村も、自分自身も、いつもと少し違う。 そんな気がして、しばらくの間その場から動けなかった。

ともだちにシェアしよう!