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第17話 まだ知らない温度

1時間ほど経ってから起こされて、一緒に晩御飯を食べた後。 「泊まるでしょ? 下着とか新しいの買って置いてあるから」 高村が当然のように言うので、日比野は思わず吹き出した。 「…あのさ、帰るかもしれないだろ?」 「なんで? 明日忙しいの?」 「……いや、特には」 「じゃあ泊まろうよ。ゆっくりできるし」 にこりと笑う高村に、日比野は観念したように息をつく。 「あ、じゃあゲームやろう。先週負けたままだった」 「いいね。前と同じルールでいく?」 「うん。勝ったやつの言うこと聞く、でいい」 「了解」 そうして、いつものゲーム対戦が始まった。 「やったー! 勝ったー!」 今回は日比野の勝ち。両手を上げて大はしゃぎする。 「あー悔しい。あと少しだったのに」 残念そうに笑う高村が、「じゃあ何にするの?」と尋ねる。 日比野は困った顔をして考え込む。 「全然考えてなかったな。どうしよう……じゃあ、肩でも揉んでもらおうかな」 「あはは、そんなのでいいの? 全然やるよ」 高村は日比野が座るソファの後ろに立ち、 「では、失礼します」と軽く言ってから肩を揉み始めた。 「…思ったより硬いな」 「…きもちいい…」 強すぎず弱すぎず、絶妙な加減に、日比野は目を閉じて身を預ける。 「最近忙しかったからかな。結構凝ってる」 「来週もあるしな」 「でも、来週で一旦ピークは終わりだね」 「だな。……ありがとう。すごく気持ちよかった」 振り返って笑う日比野に、高村もふっと笑みを返す。 「…こんなんでいいの? 要求がやさしすぎる」 「だって思い浮かばなかったんだもん」 「日比野っぽいけどね、そういうとこ」 そう言いながら、高村はソファ越しに日比野をそっと後ろから抱きしめた。 「…もっと甘えたいこととか、言ってくれてもいいのに」 「…ん。でも今でも十分甘えてるし、満足してるけどな」 日比野は、自分の肩に回る高村の腕をポンポンと軽く叩く。 すると高村は腕を解き、日比野の後ろ髪をそっと撫でた。 「…ここ、ほくろあるの知ってた?」 耳の裏近く、髪に隠れた小さなほくろに指を這わせる。 「知らないよ。自分じゃ見えないもん…」 くすぐったそうに肩を震わせる日比野に、高村は小さく笑った。 「…可愛いんだよ、これ」 そう囁いて、ほくろを見つめた。 後ろ髪やうなじ、意外と細い首筋を眺めているうちに、吸い寄せられるように顔が近づいていく。 「……高村?」 静かな高村に不思議に思って日比野が振り返る。 すると、その拍子にあまりにも近い距離だった高村の唇が首の後ろに触れた。 「ひゃっ!」 びくんと肩を揺らした日比野を見て、高村はハッとしたように謝る。 「…あ、ごめん…」 首の後ろを押さえ、赤くなりながら日比野は言う。 「…いや、こっちこそごめん…。ぶつかったよな? 痛くなかった?」 高村は少し視線を逸らし、立ち上がった。 「…平気。…お風呂のお湯、入れてくる」 浴室へ向かう背中を見送りながら、日比野はまた首の後ろをそっと撫でた。 まだ、唇の感触が残っている気がして。   一番驚いたのは、それが嫌じゃなかったこと。 思い出すとまた顔が熱くなって、日比野は小さく頭を振った。 ⸻ (……危なかった……) 洗面所の扉を閉めて、高村は鏡の前でひとつ大きく息をはいた。 ほくろや細い首に目を奪われて、無意識に顔を近づけていたらしい。 たまたま触れた事故として終わってくれて、本当に助かった。 あのままもう少しぼんやりしていたら――自分から… (…キス、してたかもしれない……) 振り向いて驚いた日比野の顔が目に焼き付く。 恋愛は抜きではじめたはずなのに。 男性が好きなわけでもないのに。 気づけば日比野のことばかり考えている。 ……甘やかすだけでいい。 ただ、それだけのはず。 そう言い聞かせながら、高村は鏡の前で顔を上げた。 ⸻ 互いに風呂に入り、寝る準備を済ませる。 「…じゃあ寝よっか」 「うん」 寝室に向かう高村の背中を、日比野はなんとなく見つめていた。 前は手を繋いでくれたのにな――そう思うと少しだけ俯く。 どこか、高村が距離を置いているような気がした。 ベッドに入っても、高村は「じゃあおやすみ」と言ってすぐ目を閉じてしまった。 「……うん…」 日比野は落ち着かず、少しだけ間を置いて声をかける。 「…なぁ、高村」 「…ん? なに?」 「………手」 「…え?」 「…手! つないで」 ムスッとした顔で手を出す日比野を見て、高村は少し笑った。 「あ、ごめん。…はい、手」 手を繋ぐと、日比野は少しだけ安心したように目を閉じた。 高村もまた、そっとその手を握り返す。 しばらくの間、どちらも眠れなかったが、 温かな手のぬくもりに包まれて、やがて静かに眠りについた。 ⸻ 翌朝。 日比野が目を覚ますと、隣は空っぽだった。 (…まさか別の場所で寝てた、なんてことないよな) 胸の奥に一瞬、不安がよぎる。 そのとき、寝室の扉が開いて高村が入ってきた。 なぜか咄嗟に寝たふりをしてしまい、目を閉じたまま気配を探る。 高村はベッドに近づき、覗き込むようにして小さく笑った。 「…ふふ、可愛い」 (……こいつ、ほんっと毎回そればっか言ってんな) 顔が熱くなりそうになるのを必死で堪えていると、頭をそっと撫でられた。 「……日比野。起きてるでしょ?」 「………」 観念して目を開けると、にやけた顔の高村と視線がぶつかる。 「…なんでバレたんだよ」 「わかるって。ちょっと力入ってるし」 そう笑って、高村は「朝ごはんできたよ。起きて」と言い残して出ていった。 (……起きてるってわかってて、可愛いとか言うなよな…) ぶつぶつ文句をこぼしながら、日比野もリビングへ向かう。 テーブルには、昨日帰り道で買ったパンと、 高村が用意したスクランブルエッグとベーコン、サラダ。 昨日一緒に買ったマグカップには、湯気を立てるコーヒーが注がれている。 「…毎回ありがとな」 日比野があらためて礼を言うと、高村は照れたように笑った。 「大したことしてないよ」 二つ並んだマグカップを見つめながら、日比野はふと口にする。 「……来週は、俺んち来る?」 「いいの? 嬉しいな」 「客用布団でよけりゃ泊めてやってもいいけど」 わざと偉そうに言うと、高村は笑った。 「もちろん。ありがとう」 昨日の夜のぎこちなさは、すっかり消えていた。 そのことに、日比野はほっと胸を撫で下ろした。

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