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第35話 動き出す、新しい案件
1か月ほどが過ぎた月曜、オフィスの空気はいつもより張り詰めていた。
大型案件の締切がいくつも重なり、誰もが少し余裕をなくしている。
そんな中、日比野は、部長に呼び出される。
「――日比野、ちょっといいか」
机の上には数枚の資料が並んでいる。
表紙には《Next Vision Project》とタイトルが印字されていた。
副題には「Z世代に届く、新しい美の定義 ― LUNARIAキャンペーン」とある。
クライアントはLUNARIA(ルナリア)…
国内大手化粧品メーカー・星雅(せいが)ホールディングスが手がける新ライン。
「ありのままの個性を輝かせる」をコンセプトに、Z世代を中心に人気を広げている。
デジタル施策やSNS展開にも積極的で、既存の美の価値観にとらわれない自由な発信が特徴だ。
「LUNARIAから新しい案件が来た。若手だけの特別チームで進めてみようと思ってる。
そのリーダーを――お前に任せたい」
「……リーダーですか?」
「そうだ。若手をまとめる経験を積ませたい。今の案件でも結果を出してるし、適任だと思うよ」
そう言われても、胸の奥が少しざわついた。
“まとめる”という言葉の重みを、日比野はこの数年で痛いほど知っていた。
それでも「ありがとうございます」とだけ答えて、資料に目を落とす。
部長が差し出したメンバー候補リスト。
名前を追っていくうちに、ふと目が止まる。
――高村 翔央
その瞬間、心の奥がわずかに波立つ。
(……この名前を、外す理由はない)
高村は同じ営業企画部で、数字にも構成にも強い。
プレゼンを組み立てるセンスがあり、資料の完成度はいつも群を抜いている。
それでいて前に出過ぎず、周囲を落ち着かせる柔らかさがある。
日比野にとって、間違いなく信頼できる相手。
「メンバーは5人だ。最終的な選定は任せる」
日比野は深く息を吸い、手元のペンを動かした。
高村の名前の横に、小さくチェックマークを入れる。
「……はい。確定させておきます」
部長室を出ると、胸の奥に小さな痛みが残った。
あのカフェ以来、挨拶程度でまともに言葉を交わしていない。
(応援したいはずなのに、なんでこんなに……
ズキズキするんだろう…)
静かな吐息が、誰もいない廊下に溶けていった。
⸻
その日の夕方。
高村は、自分のデスクに届いたメールの通知を見て、指先を止めた。
件名:《Next Vision Project メンバー決定のお知らせ》
送信者:日比野 慧
チーム一覧の二番目に、自分の名前があった。
整った眉がわずかに動く。
思わず息を飲んで、しばらく画面を見つめる。
(部長からの指示かな…それとも日比野が選んでくれたのか…)
胸の奥に、ほのかに熱が広がる。
仕事のメールが来ただけで、こんなにも意識してしまう。
離れてもなお引かない小さな炎が燻り続けているのを感じ、高村はそれを消すように軽く息をはいた。
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