36 / 38

第35話 動き出す、新しい案件

1か月ほどが過ぎた月曜、オフィスの空気はいつもより張り詰めていた。 大型案件の締切がいくつも重なり、誰もが少し余裕をなくしている。 そんな中、日比野は、部長に呼び出される。 「――日比野、ちょっといいか」 机の上には数枚の資料が並んでいる。 表紙には《Next Vision Project》とタイトルが印字されていた。 副題には「Z世代に届く、新しい美の定義 ― LUNARIAキャンペーン」とある。 クライアントはLUNARIA(ルナリア)… 国内大手化粧品メーカー・星雅(せいが)ホールディングスが手がける新ライン。 「ありのままの個性を輝かせる」をコンセプトに、Z世代を中心に人気を広げている。 デジタル施策やSNS展開にも積極的で、既存の美の価値観にとらわれない自由な発信が特徴だ。 「LUNARIAから新しい案件が来た。若手だけの特別チームで進めてみようと思ってる。  そのリーダーを――お前に任せたい」 「……リーダーですか?」 「そうだ。若手をまとめる経験を積ませたい。今の案件でも結果を出してるし、適任だと思うよ」 そう言われても、胸の奥が少しざわついた。 “まとめる”という言葉の重みを、日比野はこの数年で痛いほど知っていた。 それでも「ありがとうございます」とだけ答えて、資料に目を落とす。 部長が差し出したメンバー候補リスト。 名前を追っていくうちに、ふと目が止まる。 ――高村 翔央 その瞬間、心の奥がわずかに波立つ。 (……この名前を、外す理由はない) 高村は同じ営業企画部で、数字にも構成にも強い。 プレゼンを組み立てるセンスがあり、資料の完成度はいつも群を抜いている。 それでいて前に出過ぎず、周囲を落ち着かせる柔らかさがある。 日比野にとって、間違いなく信頼できる相手。 「メンバーは5人だ。最終的な選定は任せる」 日比野は深く息を吸い、手元のペンを動かした。 高村の名前の横に、小さくチェックマークを入れる。 「……はい。確定させておきます」 部長室を出ると、胸の奥に小さな痛みが残った。 あのカフェ以来、挨拶程度でまともに言葉を交わしていない。 (応援したいはずなのに、なんでこんなに…… ズキズキするんだろう…) 静かな吐息が、誰もいない廊下に溶けていった。 ⸻ その日の夕方。 高村は、自分のデスクに届いたメールの通知を見て、指先を止めた。 件名:《Next Vision Project メンバー決定のお知らせ》 送信者:日比野 慧 チーム一覧の二番目に、自分の名前があった。 整った眉がわずかに動く。 思わず息を飲んで、しばらく画面を見つめる。 (部長からの指示かな…それとも日比野が選んでくれたのか…) 胸の奥に、ほのかに熱が広がる。 仕事のメールが来ただけで、こんなにも意識してしまう。 離れてもなお引かない小さな炎が燻り続けているのを感じ、高村はそれを消すように軽く息をはいた。

ともだちにシェアしよう!