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第36話 仕事の顔のまま
会議室のホワイトボードには、
《Next Vision Project – Kick Off Meeting》
の文字が書き出されていた。
昼下がりの光がガラス越しに差し込み、五人分の席にそれぞれ資料が置かれている。
日比野は少し早めに入り、資料の枚数とペンの数を確認していた。
何度か深呼吸をして、表情を整える。
(…仕事だ。何も考えるな。リーダーとして全うするだけ)
数分後、ドアが開いた。
最初に顔を出したのは、柔らかな笑みを浮かべた高村だった。
「おつかれさま。…早いね」
一歩、部屋に足を踏み入れた瞬間――空気が静かに変わる。
視線が交わるまでのわずかな間が、やけに長く感じられた。
「おつかれ。資料、そこに置いてあるから」
「ありがとう」
ごく短い会話のはずなのに、鼓動だけが妙に速かった。
他のメンバーも次々に入室してきて、席が埋まる。
ざわめきが広がり、軽い自己紹介が始まる。
日比野と高村の他は、
佐伯(マーケティング/Z世代リサーチ担当、26歳)
桐谷(デジタル広告/SNS担当、25歳)
森下(クリエイティブ/デザイン・コピー監修、29歳)
の計5人。
若手ながらそれぞれに実績を持つ顔ぶれだ。
日比野はチームの中心に座り、自然な笑顔で場を進行していく。
一見、完璧なリーダー。
けれど、隣に座る高村の存在が、どこか意識の端に張り付いて離れなかった。
「――テーマは、“Z世代に届く新しい美の定義”。
LUNARIAは、固定化された“美しさのイメージ”を少し崩したいと考えてる。
だから俺たちは、“共感”を軸に、キャンペーン全体の構成を組む」
日比野の声は落ち着いていて、的確。
メンバーたちは頷きながらメモを取っていく。
高村は、その様子を静かに見つめていた。
久しぶりにちゃんと見る、仕事モードの日比野の横顔。
真剣な眼差しに光が差す。いつも通り日比野の言葉はまっすぐで、心にストンと降りてくる。
迷いがなくて、強くてやさしい。でもどこか可愛らしい。
やっぱり――好き、なんだよな…と胸の奥が小さく疼いた。
「高村、前の案件でやってたリサーチ、活かせそうだよな?」
不意に名前を呼ばれて、少し肩が跳ねた。
「……はい。
“セルフブランディング”の調査データがまだ使えるかな。
若い層の“等身大の見せ方”について、少しまとめ直してみる」
「頼む。あと、プレゼン構成も一度共有して」
「了解」
交わしたのは、ごく普通のやり取り。
それなのに、胸の奥がじんわりと熱を持つ。
他のメンバーが話題をつなげ、会議は淡々と進んでいった。
⸻
ミーティングが終わったあと、他のメンバーが出ていく。
二人だけになった会議室に、静けさが戻る。
「……おつかれ」
日比野が片づけながら小さく声をかける。
高村は少し微笑んで、日比野を見て言った。
「おつかれさま。やっぱりリーダー、向いてる」
「…前にも言われたな、それ」
そう言いながらも、少し口元が緩んでいた。
「高村のデータ分析、頼りにしてる。俺じゃそこまでできないから」
「……褒めても何も出ないけど」
「出さなくていいよ。十分ありがたいから」
ふと目が合った。
わずかに、笑い合った――けれど、どちらもすぐに視線を外した。
(やっぱりまだ、前みたいには出来ないな…)
日比野は資料をまとめ、最後に小さく息をついた。
「……じゃあ、これからよろしく」
「うん。よろしく」
ほんの一瞬だけ、どちらも何かを言いかけた。
けれど、その続きを飲み込んで、
静かなドアの閉まる音が、二人の間に線を引いた。
ドアの向こうで足音が遠ざかっても、
まだ空気の中に、互いの名残が残っているような気がした。
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