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第48話 触れない夜
土曜に会った二人の空気はいつもの穏やかなものだった。
ご飯を食べて、映画を流して、他愛もない話をして。
日比野は少し疲れていたのか、ソファに座ると高村の肩に頭を預けた。
「眠いの?」と高村が笑って聞くと、
「違う。甘えたいだけ」
と小さな声で返ってきて、ほんの少し胸が跳ねた。
甘えてくれるのは嬉しいのに、なんでもないように言われるとドキッとしてしまう。
高村は動揺を気づかれないように、日比野の髪を撫でた。
髪に触れると、日比野は安心したように目を細めて、そのままくっつく。
いつもより距離が近い。
「…今日、いつもより甘えんぼうだね」
「…だって、甘えるために来てるもん」
照れたような拗ねたような言い方に高村は笑う。けれど、心臓はずっと忙しい。
⸻
夜になり、泊まっていくのが当然の流れで、歯磨きをして、電気を落として、いつものように寝室まで一緒にくる。
薄暗い寝室に、間接照明のやわらかい光だけが落ちていた。
外のざわめきが遠くて、ここだけ世界が切り離されているみたいに静かだ。
ベッドに腰を下ろした日比野は、ぼんやりと高村の隣に寄り添った。
眠気のせいもあるが、身体も心もゆるんで、気づけば高村の肩に頭を乗せている。
「……高村」
「ん?」
「高村といると、安心する」
不意打ちの声は、暗闇の中で真っ直ぐだった。
ぽろりと零れた本音に、日比野自身も驚いた。
言った瞬間、胸の奥がじわりと熱くなる。
高村は、動きを止めた。
そのまま少しだけ日比野を見つめて──
そっと頭を撫でる。
「……そんなこと言われたらさ…」
「…ん?」
「すごく嬉しい、けど…どうしたらいいかわからなくなる」
低く落とされた声が、いつもより少しだけ揺れているような気がして、
日比野の心臓が一気に跳ねた。
「……安心してほしいのに」
高村はゆっくり息を吸って続けた。
「多分一番安全なヤツじゃない、から…」
高村の指先が、日比野の頬をそっとなぞる。
軽いのに、全身が熱くなるような触れ方だった。
ぞくん、と背筋が震えて、日比野はためらいながら高村を見る。
「…日比野」
甘さと切なさが混じった声。
名前を呼ばれただけなのに、胸の奥が震える。
視線が絡む。
動かない。
拒まない。
むしろ受け入れるみたいに日比野は静かだった。
日比野の耳や顎のラインに指を添わせて、高村の顔が近づく。
あと数センチで呼吸が触れそうな距離。
近づいてくるのをスローモーションのように感じながら、日比野は反射的に目を閉じかけ——そこで、ふっと高村が止まった。
唇と唇が触れる直前で、高村はぎりぎり留まる。
指が日比野の頬に残ったまま、高村はほんの少しだけ顔をそらした。
「………ごめん。これは良くない、ね…」
高村がわずかに息を飲む。
堪えて。
抑えて。
欲しさが溢れ出しそうで、必死に止めて。
(…こんなに好きになるなんて、思わなかった)
高村は呼吸を整えるように、ほんの少しだけ距離を取った。
(これ以上一緒にいたら、無理強いしてしまうんじゃないか…)
そんな不安がよぎって、高村は目を伏せた。
日比野は——何も言わなかった。
高村の短い呼吸一つで、どれだけ葛藤しているのか伝わる。
日比野の胸が、きゅっと痛んだ。
頬へのキスすらダメだと言った自分が、今確かに——高村を自然と受け入れていた。
高村と目が合って、そして、顔が近づいた時、嫌じゃなかった。むしろ、
(……キス、したかった…なんて、)
言えるわけない。
決して拒まれたわけじゃないのに、日比野の心に切なさが広がる。
むしろ——守られたことが苦しくすらある。
ぎりぎりのところで留まった高村の優しさは十分すぎるくらい感じていて、喉の奥が詰まって呼吸がひとつ吸えなくなる。
そんな自分を知られたくなくて、日比野は俯いてこのなんとも言えない感情を落ち着かせた。
そっと日比野の髪を撫でる高村の手が温かくて、目を閉じる。
「…寝ようか」
高村の静かな声に、日比野はコクリと頷いて二人とも布団に入る。
「……おやすみ」
「…おやすみ…」
二人は同じ布団の中で、同じように眠れずにいた。
距離は近いのに、
触れないまま。
その沈黙だけが、
二人の間に確かに残っていた。
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