54 / 62
第50話 一歩、届かない距離
ビジュアルラフの会議は佳境を迎えていた。
LUNARIA「オー・ド・クラージュ」──
『好き、という勇気。』
恋に限らず、小さな一歩だって胸を張れる勇気。
柏木がまとめた案は、評価が高い。
もう最終稿に近づいている。
全員の雰囲気に「これで決まりだな」という空気が満ちていた。
⸻
会議が終わり、資料を片づけるため全員がバラける。
制作側も皆帰り支度をする中、柏木が自然な仕草で日比野の方へ歩み寄る。
「日比野さん。今日の夜、空いてます?」
声のトーンはあくまで穏やか。
それでも、高村の耳にははっきり届いた。
日比野は特に警戒もなく、
「はい、特に予定は」
と応じる。
柏木は少しだけ楽しそうに目を細める。
「この前の話の続き、聞かせてほしいな。
悩んでるって言ってた話。」
「……ああ、その」
曖昧に笑う日比野。
高村の呼吸が、わずかに止まる。
柏木は続ける。
「詳しく聞かせてくれたら、
俺の方でも何かアイデアが浮かぶかもしれないなって思ってね」
仕事の話の延長上としての誘い。それは勿論わかっている。
でも、日比野そのものへ興味を感じている言い方に高村は心がざわつく。
「ぜひ。行きましょう」
日比野はそう答えていた。
「良かった。じゃあ後で」
柏木は満足そうに頷き、先に部屋を出ていく。
⸻
柏木達制作スタッフが会議室から出ていくと、日比野と高村の二人だけが残った。
静寂の中、日比野が何でもない風に口を開いた。
「今日、柏木さんと飯行ってくる」
言葉に棘なんてない。
ただ事務的でもなく、普通の世間話のトーン。
それなのに、高村の返答は、すぐには出てこなかった。
沈黙。
ほんの数秒なのに、やけに長い。
「…楽しんできて。制作側との関係作り、大事だし…」
そこで高村は視線を落としたまま、言葉を切った。
続く言葉を飲み込んで高村は口を結ぶ。
本当は行ってほしくない、そう言ってしまいそうだった。
歯切れの悪い高村の言葉に、日比野は高村のほうを見る。
「……高村も来る?」
あまりにも邪気のない返答に高村は笑う。
「いや、俺は大丈夫。…飲みすぎないようにね」
交わす言葉はどこまでも穏やかで、それゆえに胸が痛い。
二人の笑みがふっと揺れて、そこで会話が止まった。
日比野のスマホが机の上で小さく震え、通知が光る。
柏木からだ。時間の確認のメッセージ。
高村は何も言わない。
日比野もすぐには触れない。
沈黙だけが、二人の間に落ちた。
バイブはやがて止まり、静けさが残る。
目が合ったまま、時間だけが過ぎていく。
たった一歩近づけば届く距離なのに、どちらも動けなかった。
ともだちにシェアしよう!

