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第51話 もう、迷っていない

店内は落ち着いた照明で、木目調のテーブルが並んだ静かなビストロだった。 周囲の会話は適度に抑えられていて、仕事の話をするのにもちょうどいい雰囲気だった。 席に通されて注文を終え、料理が運ばれてくるまでの間にも仕事の話は自然に広がっていった。 互いの好きな映像作家の話、光の使い方の話、最近見て感銘を受けた広告の話── 共通の感性に触れるたびに、会話が深く潜っていく。 運ばれてきた料理の湯気が落ち着いたころ。 柏木はフォークを置き、少しだけトーンを変えた。 「前にも聞いた、日比野さんの話……また聞きたいですね」 不意を突かれた話題なのに、刺すような空気はなかった。 好奇心というより、尊重と興味。 日比野はふっと笑い、少し肩をすくめる。 「……前に、悩んでるの当てられてしまいましたよね」 「日比野さんくらいの人でも、やっぱり悩むんだなって。 どんな相手なんだろうって……ちょっと興味あります」 少し冗談めかした言い方でもあり、真剣でもある、そんな話ぶり。 日比野は、視線を少しだけテーブルに落とした。 考える時の癖。 「……すごく、大事な人なので。ちゃんとした答えを出したいって……ずっと思ってたんです、けど」 柏木は息を止めるように、次の言葉を待った。 「……けど?」 「……その考え方がそもそも違うのかもなって。 “ためらうってことは、何かを大事にしてるってことだ”って……柏木さんも仰ってたでしょう?」 「言いましたね」 「ためらってるときも、悩んでいるときも、それも全部“好き”の一部で…… 今回の打ち合わせとか……柏木さんのラフを見て……なんか、そんなことを思いました」 まっすぐな眼差しだった。 逃げていない、隠していない、今の心をそのまま差し出すような視線。 高村の家での夜――キスしそうになって、でもしなくて。守られた痛みと優しさが胸に残る。 仕事に戻ればいつも通りなのに、 胸の奥に残った感触だけが、静かに輪郭を持ちはじめていた。 高村じゃなきゃ駄目なんだ── そう思うことを、ようやく怖がらずにいられるようになってきた。 柏木はその表情をまっすぐ見つめ、そして静かに笑った。 「……もう悩まれてはいないみたいだ」 「柏木さんの言葉に……勇気をもらいました」 「それは……とても嬉しいです」 そこで一度、グラスを口に運び── 柏木はわずかに言葉を止めた。 「……でも」 「?」 「僕は、もう少し違うアプローチもしたくなってしまいました」 日比野は瞬きをして、思わず言葉を返す。 「え?」 「今の日比野さんの表情を見て、一瞬で案が浮かびました。 “優しい気持ちで悩んでいる人の、光の当たり方”──そういう映像を出せば、きっとメッセージはより強くなる」 「……それは……どんな感じの?」 そこから再び仕事の話に戻る。 紙ナプキンに描かれるラフ、指先で描く構図、光の方向、目線の角度。 “理解し合っている者同士の会話”が自然と成立していた。 作品の話になると、ふたりの呼吸が同じリズムになるのが分かる。 柏木は感心したように呟く。 「……日比野さんが関わると、映像が変わるんですよ。 あの企画は、日比野さんのものだと言っていい」 「いえ、柏木さんの世界があるからこそですよ」 言葉の応酬は、誰が上とか下とかではない。 ただ、相性の良い才能同士が響き合っている音が、確かにあった。 高村は、この空気を知らない。 それでも日比野の中では、もう答えは静かに形を持ちはじめていた。

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