56 / 62

第52話 静かな約束

店内は静かなざわめきと、カップの触れ合う微かな音に満ちていた。 休日、昼過ぎのカフェはちょうど混みすぎず、空きすぎず、打ち合わせには申し分ない。 三人席のテーブルに、タブレットと資料が並ぶ。 柏木が持ってきた修正案のラフを広げると、自然と空気が切り替わった。 「……すごい。ここまで変えてくるとは思ってなかったです」 日比野が思わず息を漏らす。 驚きと喜びの反応が混ざった声。 柏木はどこか照れくさそうに笑う。 「例のテーマ、深めたら一気に形になってしまって」 “例のテーマ”。 その言葉に、高村の視線がわずかに日比野へ向く。 日比野は気付いていない。 ほんの一瞬だけ、瞳が揺れて、それを隠すように資料に視線を落とした。 「人物の光の当たり方を変えました。“柔らかさを持った強さ”で統一したほうが、後半のメッセージに説得力が出ると思って」 柏木は説明を続けながら、人差し指を自分の口元に当てる。 「……昨日、話したときに気づいたんです。迷いを抱えながらも前に進む人の目って、ちゃんと光を宿してる」 その瞬間だけ、日比野の肩がわずかに跳ねた。 思い出したのだろう。 昨日の食事の会話――恋の話。 大切な人への返事に、もう迷ってはいないと話した時間。 柏木はただ、仕事の話として淡々と告げている。 高村の胸の内に、静かな何かが沈む。 この感覚を知っている顔。 共鳴点を、迷いなく掴みにいく距離。 日比野がそれを受け止められる関係。 それは、仕事の相性の良さでしかないと理解している。 理解しているつもりなのに――どこか喉の奥にひっかかる。 「……ここの構図、よくなりましたね。感情の流れが通っています」 高村が声を出すと、二人が同時にこちらを向く。 ほんの一瞬遅れて、柏木が嬉しそうに笑った。 「そうなんです、ここはどうしてもこの構図だなって」 「伝わる“体温”みたいなものが増えた気がしますね」 高村はそう言いながら、タブレットを手元へ引き寄せた。 主張はしない。だが、細かな指摘は逃さない。 「中盤の光量、全体に寄せるより、主人公側にわずかに寄せましょうか。カットの流れで視線が迷うので。視聴者は“誰の気持ち”を追えばいいのか明確にしたほうがいいでしょう」 的確で、冷静な声。 感情も私情も混ぜていない。 柏木と日比野の表情には、尊敬の温度が浮かぶ。 「さすがですね、高村さん」 「本当に……そうですね。気づけなかったです」 褒められていることはわかっている。 なのに、不思議と胸に落ちてくる感触は弱い。 「……じゃあ、その方向で再調整してきます」 柏木は自分の荷物をざっとまとめカバンに入れる。 「次の打ち合わせはまた連絡しますね。今日はお休みの日にありがとうございました」 と頭を下げ、足早に店を出て行った。 残されたテーブルには三つのカップ。 うち二つはほとんど飲みかけのままだ。 しばらく、どちらも話さなかった。 沈黙は重くない。けれど軽くもない。 日比野がゆっくりと、高村を見た。 「……高村って本当にすごいよな。俺、全然気づけなかった」 「元々は日比野から生まれた案なんでしょ?それを柏木さんがあそこまで…そっちのほうがすごいよ」 「いや俺は何にもしてないから」 日比野は苦笑しながらコーヒーを一口飲む。 高村は、その姿を横目でチラリと見て自分もコーヒーに口をつけた。 二人を否定したいわけじゃない。 ただ――自分とは違う“響き合い方”に、飲みかけのコーヒーが急に薄く感じる。 店内のBGMがふいに耳に戻ってきた。 隣のテーブルの笑い声が遠く感じる。 カップの底で揺れる影だけが、やけに静かだ。 高村は視線を落とし、カップの縁に触れた指先に意識を逃がした。 不意にぽつりと日比野がこぼす。 「…最近、忙しくて甘えられてないな」 冗談めかした響きだが、本音に聞こえて高村の鼓動が少し早まる。 「…そうだね」 高村は、当たり障りのない返事をする。 ほんとは“いつでも甘えてほしい”なんて、喉まで出かけている。 今日だって、仕事がなければ二人で過ごせたのに…。 でもこの前のキス未遂から、二人きりで会うことに躊躇っていたのも事実。 全てを言ってしまったら止まれなくなりそうで、飲み込んだ。 少しの間、スプーンがカップに触れる音だけが響いた。 「…高村」 名を呼ばれて視線を上げると、日比野が真っ直ぐに見ていた。 笑ってもいない、ふざけてもない、逃げない目。 「大事な話がある。この前の返事」 心臓が跳ねた。 一瞬、世界が狭くなる。 いつでも答えを聞く覚悟はしていた——はずなのに、全然できていなかったと悟る。 日比野は言葉を続ける。 「でも…今は仕事に集中したいから——この仕事が終わってからでも、いいかな?」 静かな声だった。 誠実で、真っ直ぐないつもの日比野。 (……どっち? 断るほう?それとも?) 鼓動が、時間の感覚を壊してくる。 聞きたいのに聞けない。 怖いのに期待してしまう。 それでも表情は崩さず、高村は短くうなずいた。 「……わかった」 日比野の緊張が、そこでようやく少し解けた気がした。 柔らかく笑って、けれど目を逸らさずに言う。 「全部終わったら、二人で会う時間、作ってほしい」 立ち上がる前に日比野は何かを言いかけたが、一瞬テーブルに視線を落として、そのまま席を立つ。 「…じゃあ、また月曜日」 そう言って、店を出て行った。 残された高村は、浅くしか呼吸できていないことにやっと気づく。 胸の奥で早鐘を打ち続ける心臓を、掌でそっと押さえて、長く息をはいた。 (……少し落ち着け、俺…) 店の外の景色に視線を移し、もう一度ゆっくり深呼吸をした。

ともだちにシェアしよう!