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第52話 静かな約束
店内は静かなざわめきと、カップの触れ合う微かな音に満ちていた。
休日、昼過ぎのカフェはちょうど混みすぎず、空きすぎず、打ち合わせには申し分ない。
三人席のテーブルに、タブレットと資料が並ぶ。
柏木が持ってきた修正案のラフを広げると、自然と空気が切り替わった。
「……すごい。ここまで変えてくるとは思ってなかったです」
日比野が思わず息を漏らす。
驚きと喜びの反応が混ざった声。
柏木はどこか照れくさそうに笑う。
「例のテーマ、深めたら一気に形になってしまって」
“例のテーマ”。
その言葉に、高村の視線がわずかに日比野へ向く。
日比野は気付いていない。
ほんの一瞬だけ、瞳が揺れて、それを隠すように資料に視線を落とした。
「人物の光の当たり方を変えました。“柔らかさを持った強さ”で統一したほうが、後半のメッセージに説得力が出ると思って」
柏木は説明を続けながら、人差し指を自分の口元に当てる。
「……昨日、話したときに気づいたんです。迷いを抱えながらも前に進む人の目って、ちゃんと光を宿してる」
その瞬間だけ、日比野の肩がわずかに跳ねた。
思い出したのだろう。
昨日の食事の会話――恋の話。
大切な人への返事に、もう迷ってはいないと話した時間。
柏木はただ、仕事の話として淡々と告げている。
高村の胸の内に、静かな何かが沈む。
この感覚を知っている顔。
共鳴点を、迷いなく掴みにいく距離。
日比野がそれを受け止められる関係。
それは、仕事の相性の良さでしかないと理解している。
理解しているつもりなのに――どこか喉の奥にひっかかる。
「……ここの構図、よくなりましたね。感情の流れが通っています」
高村が声を出すと、二人が同時にこちらを向く。
ほんの一瞬遅れて、柏木が嬉しそうに笑った。
「そうなんです、ここはどうしてもこの構図だなって」
「伝わる“体温”みたいなものが増えた気がしますね」
高村はそう言いながら、タブレットを手元へ引き寄せた。
主張はしない。だが、細かな指摘は逃さない。
「中盤の光量、全体に寄せるより、主人公側にわずかに寄せましょうか。カットの流れで視線が迷うので。視聴者は“誰の気持ち”を追えばいいのか明確にしたほうがいいでしょう」
的確で、冷静な声。
感情も私情も混ぜていない。
柏木と日比野の表情には、尊敬の温度が浮かぶ。
「さすがですね、高村さん」
「本当に……そうですね。気づけなかったです」
褒められていることはわかっている。
なのに、不思議と胸に落ちてくる感触は弱い。
「……じゃあ、その方向で再調整してきます」
柏木は自分の荷物をざっとまとめカバンに入れる。
「次の打ち合わせはまた連絡しますね。今日はお休みの日にありがとうございました」
と頭を下げ、足早に店を出て行った。
残されたテーブルには三つのカップ。
うち二つはほとんど飲みかけのままだ。
しばらく、どちらも話さなかった。
沈黙は重くない。けれど軽くもない。
日比野がゆっくりと、高村を見た。
「……高村って本当にすごいよな。俺、全然気づけなかった」
「元々は日比野から生まれた案なんでしょ?それを柏木さんがあそこまで…そっちのほうがすごいよ」
「いや俺は何にもしてないから」
日比野は苦笑しながらコーヒーを一口飲む。
高村は、その姿を横目でチラリと見て自分もコーヒーに口をつけた。
二人を否定したいわけじゃない。
ただ――自分とは違う“響き合い方”に、飲みかけのコーヒーが急に薄く感じる。
店内のBGMがふいに耳に戻ってきた。
隣のテーブルの笑い声が遠く感じる。
カップの底で揺れる影だけが、やけに静かだ。
高村は視線を落とし、カップの縁に触れた指先に意識を逃がした。
不意にぽつりと日比野がこぼす。
「…最近、忙しくて甘えられてないな」
冗談めかした響きだが、本音に聞こえて高村の鼓動が少し早まる。
「…そうだね」
高村は、当たり障りのない返事をする。
ほんとは“いつでも甘えてほしい”なんて、喉まで出かけている。
今日だって、仕事がなければ二人で過ごせたのに…。
でもこの前のキス未遂から、二人きりで会うことに躊躇っていたのも事実。
全てを言ってしまったら止まれなくなりそうで、飲み込んだ。
少しの間、スプーンがカップに触れる音だけが響いた。
「…高村」
名を呼ばれて視線を上げると、日比野が真っ直ぐに見ていた。
笑ってもいない、ふざけてもない、逃げない目。
「大事な話がある。この前の返事」
心臓が跳ねた。
一瞬、世界が狭くなる。
いつでも答えを聞く覚悟はしていた——はずなのに、全然できていなかったと悟る。
日比野は言葉を続ける。
「でも…今は仕事に集中したいから——この仕事が終わってからでも、いいかな?」
静かな声だった。
誠実で、真っ直ぐないつもの日比野。
(……どっち? 断るほう?それとも?)
鼓動が、時間の感覚を壊してくる。
聞きたいのに聞けない。
怖いのに期待してしまう。
それでも表情は崩さず、高村は短くうなずいた。
「……わかった」
日比野の緊張が、そこでようやく少し解けた気がした。
柔らかく笑って、けれど目を逸らさずに言う。
「全部終わったら、二人で会う時間、作ってほしい」
立ち上がる前に日比野は何かを言いかけたが、一瞬テーブルに視線を落として、そのまま席を立つ。
「…じゃあ、また月曜日」
そう言って、店を出て行った。
残された高村は、浅くしか呼吸できていないことにやっと気づく。
胸の奥で早鐘を打ち続ける心臓を、掌でそっと押さえて、長く息をはいた。
(……少し落ち着け、俺…)
店の外の景色に視線を移し、もう一度ゆっくり深呼吸をした。
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