60 / 62
第56話 進み始めた夜
案件が一段落すると、社内の空気が少し変わる。
忙しさがゼロになるわけじゃない。
ただ、張りつめていた糸が、ほんの少しだけ緩む。
「とりあえず、ひと山越えたな」
デスクに戻る途中、日比野がそう言った。
軽い口調だけど、どこか実感がこもっている。
「だね。あとは細かい修正くらいか」
高村も、自然にそう返す。
二人並んで歩く距離が、いつもより近い。
肩が触れるほどではない。
けれど、離れすぎてもいない。
無意識の距離だった。
午後の社内は、どこか緩やかだ。
電話の声も、キーボードの音も、
いつもより少しだけ角が取れている。
高村がデスクに戻ると、
日比野がいつの間にか隣の席に腰を下ろしていた。
「これさ、最終版見直す?」
「うん。今やろうか」
同じ画面を覗き込む。
肩越しに日比野の息遣いが近い。
集中しているはずなのに、
高村は、ふとそんなことを意識してしまう。
日比野は何も気にしていない顔で、
画面をスクロールしながら言った。
「現場、良かったよな」
「うん」
「柏木さんも、いい仕事してた」
「してたね」
それだけのやり取り。
でも、不思議と会話は途切れない。
「高村がちゃんと止めてくれたのも助かった」
何気ない一言だった。
「煽りすぎないで済んだ」
高村は一瞬、日比野の顔を見る。
「……役割だから」
「それができるのが、すごいって話」
日比野はさらっと言って、また画面に視線を戻した。
褒めている自覚は、たぶんあまりない。
だからこそ、言葉が軽くて、まっすぐだ。
高村は、少しだけ口元を緩めた。
「日比野も、現場で判断早かった」
「そう?」
「うん。助かった」
今度は日比野が一瞬だけ高村を見る。
すぐに、照れたように視線を逸らした。
「……お互い様だろ」
その返しが、妙に自然で。
高村の胸の奥が、静かに温かくなる。
夜になり、社内は人がまばらになってきた。
「高村はまだ帰らないの?」
日比野が、軽い調子で聞いてくる。
「…いや、もう帰るところ」
「じゃあ、駅まで一緒にいい?」
高村は微笑んで答える。
「もちろん」
駅までの道のりを二人で歩く。
一瞬だけ迷ってから、高村は静かに口を開く。
「…あのさ」
「うん」
「…日比野と柏木さんが食事に行ったことも、
その時に二人で話して新しい案が生まれたことも、実はすごく気になってた。モヤモヤしてた」
日比野の心臓が跳ねる。
目を瞬かせて、高村の顔を見る。
「二人では行って欲しくないって、思ってた」
声は驚くほど静かだった。
怒りではなく、束縛でもなく、ただ胸の奥を見せてしまったような響き。
「……嫉妬?もしかして」
日比野は掠れた声で確かめる。
高村は一瞬日比野を見て、そして少し視線を逸らした。
「…器が小さくてダメだね」
優しさと苦しさが混ざった声で苦笑する。
日比野は、笑いそうになって、でも笑えなくて。胸の奥がぎゅっと熱くなる。
「……高村が心配するようなことなんか、あるわけないだろ」
照れたみたいな、困ったみたいな、でも少し嬉しそうな微笑みで、日比野も少し視線を逸らす。
高村は少しだけ夜空を見上げた。
「……でも、あれが無かったらあの案は出なかったんだから、止めなくて良かったよ」
高村の穏やかな声を聞いて、日比野の胸は不思議と温かくなった。
相手を優先する判断。
仕事への配慮。
それでも、私情があったことを隠さずに伝える誠実さ。
(あぁ、高村って、こういうやつだよな)
日比野は高村のほうをまっすぐに見つめる。
「…次の週末、高村の家に行ってもいいかな?」
高村は一瞬目を見開いて、そしてすぐに頷いた。
「うん。…待ってる」
もうすぐ駅に着く。
人通りの増えた歩道で、二人は並んで歩いていた。
言葉は少ない。
けれど、沈黙は気まずくなかった。
高村は、歩く速さをほんの少しだけ落とす。
隣に合わせるように。
日比野も何も言わず、それに気づいている。
特別なことは起きていない。
関係がはっきり変わったわけでもない。
それでも——
確かに、何かが動き始めている。
仕事が一段落したからか。
それとも、さっき口にした本音のせいか。
高村は、横を歩く日比野の気配を感じながら思う。
この距離は、まだ途中だ。
近すぎもしないし、遠くもない。
でも、進んでいる。
それが分かるだけで、
今夜はそれで十分だった。
ともだちにシェアしよう!

