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第66話 待つという選択
朝の始業前、エレベーターを降りた瞬間にその背中を見つけて、高村は一度だけ足を止めた。
同じフロアに、日比野は居た。
それだけで、胸の奥がきゅっと縮む。
距離は、数メートル。
声をかけようと思えば、簡単だった。
「おはよう」
それだけでいい。
今までと同じように。
でも、高村はその一歩を踏み出さなかった。
――今は、違う。
自分の中で、はっきりとそう線を引く。
話しかけられないわけじゃない。
避けているわけでもない。
ただ、今は自分から話す時じゃない。
それを、何度も自分に言い聞かせていた。
午前中の業務は忙しく、集中していれば考えないで済む時間もあった。
キーボードを打つ音。
資料をめくる音。
上司の短い指示。
仕事をしている間だけは、頭が冷える。
それでも、ふとした拍子に視界の端に日比野が入る。
ペンを落としたとき。
コピー機に立つ横顔を見たとき。
誰かに話しかけられて、少し困ったように笑ったとき。
(……相変わらずだな)
変わらないところが、嬉しくて。
同時に、苦しくなる。
あの夜から、何も“なかった”みたいに見える日比野を見て、高村は自分の胸の奥を確かめる。
――怖がらせたかもしれない。
本当に怖がっていたかどうかは、分からない。
でも、そう感じさせる可能性があったことは、確かだった。
(……急ぎすぎた)
そこは、はっきり反省している。
それでも。
(言ったことまで、間違いだったとは思って
ない)
抱きたいと思っていること。
一緒に、もっと先へ行きたいと願っていること。
それは、全部、事実だ。
だからこそ――
今は、自分から何かを足すべきじゃない。
昼休み。
休憩スペースで偶然すれ違いそうになり、高村は一瞬だけ視線を上げた。
日比野と、目が合う。
ほんの一秒。
日比野は少し驚いたように目を瞬かせて、それから小さく会釈をした。
高村も、同じように頷く。
それだけ。
それだけなのに、心臓が大きく鳴る。
今なら、話せてしまう。
自然に、いつも通りに。
「昼どうする?」
「忙しいね」
そんな、どうでもいい会話なら。
でも高村は、そこで踏み出さなかった。
その会話が、
自分の不安を紛らわすためのものだと分かっていたから。
(俺が楽になりたいだけだ)
日比野の気持ちは、まだ整理がついていないかもしれない。
それなのに、自分の寂しさを理由に声をかけるのは――違う。
高村は、紙コップを静かにゴミ箱に捨てて、その場を離れた。
背中に視線を感じた気がしたけれど、振り返らなかった。
午後。
会議資料をまとめながら、高村はふと思う。
何もしない選択が、こんなにも神経を使うとは思わなかった。
声をかけない。
触れない。
確かめない。
それを一つ一つ、自分で選び続けている。
諦めたわけじゃない。
(……日比野が、決めることだ)
自分の気持ちは、もう伝えた。
あとは、相手がどう受け止め、どう踏み出すか。
それを待つ。
怖い。
正直、怖い。
でも、それ以上に――
(奪いたくない)
日比野のペースも、覚悟も。
だから、高村は今日も、同じフロアで、同じ空気を吸いながら、何も言わない。
それが、今の自分にできる、唯一の誠実だと信じて。
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