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第68話 声をかける日
その日は、朝からずっと落ち着かなかった。
パソコンの画面を見ているはずなのに、
意識は何度も、少し先の席に向いてしまう。
高村は、いつも通り仕事をしている。
背筋を伸ばして、淡々と。
時々、周囲と必要最低限の会話を交わして。
――目は、合わない。
合わないようにしているのか、
たまたまなのか、分からない。
(……話すって、決めたのに)
指先が、無意味にキーボードの上を滑る。
一度打った文章を消して、また打ち直す。
昼休みも、結局何も言えなかった。
高村は同僚と席を外していて、
それを見て少しほっとした自分に気づいて、嫌になる。
(逃げてる)
逃げたくはない。
ただ――
タイミングが合わないだけ。
…ちょっと、怖いだけだ。
午後になって、ようやく腹をくくった。
今日、言う。
帰りに、ちゃんと声をかける。
そう決めた途端、
時間の進みが、やけに遅く感じられた。
終業時刻を過ぎた頃。
デスク周りが、少しずつざわつき始める。
椅子を引く音、資料をまとめる音。
高村が立ち上がるのが、視界の端に入った。
(……今だ)
立ち上がるタイミングが、ほんの一拍ずれる。
それでも、日比野はカバンを持って高村の背中に追いついた。
「……高村」
名前を呼ぶ声が、少しだけ震えた。
高村が振り返る。
驚いたように目を瞬かせて、それから、静かに頷く。
「なに?」
周囲には、まだ人がいる。
でも、この一言だけは、今言わないといけなかった。
「……今日、時間ある?」
短く、逃げ道を残さない聞き方。
一瞬の沈黙。
高村は、日比野の顔をじっと見てから、ゆっくり答えた。
「……うん」
それだけで、胸の奥が少し緩む。
エレベーターに向かいながら、日比野は続けた。
「俺の家で、いい?」
間を置いて、付け足す。
「……お腹空いてる?
何か食べるなら、買っていこうか」
高村は、ほんの少し考えてから、首を振った。
「……大丈夫」
エレベーターの扉が閉まる。
狭い箱の中。
並んで立っているから、視線は合わない。
でも、その沈黙は、
あの夜よりも、ずっと軽かった。
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