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第71話 日常に残る熱
今日も仕事は、いつも通り進んでいる。
キーボードの音。
プリンターの作動音。
同じフロアで、それぞれがそれぞれの画面を見ている。
高村も、いつもと変わらない。
資料に目を落とし、時々誰かに声をかけて、淡々と仕事をしている。
昨夜のことなんて、なかったみたいに。
(……分かってる)
止めた理由も。
踏み込まなかったのも。
あれは、優しさだった。
日比野もちゃんと、そう受け取っている。
なのに。
視線を上げた拍子に、高村の横顔が目に入る。
真剣な表情。
少しだけ眉間に寄る皺。
それだけで、胸の奥がきゅっとする。
(なんで今、思い出すんだよ)
昨夜の、今までと違う触れ方。
キスの深さも。
身体が覚えてしまっている。
距離が近づいたときの熱。
止まる直前の、あの空気。
高村が“止めた”瞬間の、微妙な間。
マウスを握る指に、少し力が入る。
仕事に集中しようとしても、ふとした拍子に意識が逸れる。
高村が立ち上がって、誰かの席に向かう。
その背中を、無意識に追ってしまう。
(…仕事中…なのに)
考えちゃいけないって分かってる。
ゆっくり行こうと、一緒に決めようと、話したばかりだというのに。
その先が欲しいと、思ってしまうことを止められない。
高村は、日比野を怖がらせないよう、ゆっくり優しく進めてくれている。
自分もそれで良いと思っていたはずなのに。
日比野の中に残った熱が、行き場を失って燻っている。
(……困る…なんだこれ…)
ため息をつきたいのに、出せない。
代わりに、息を深く吸って、画面に視線を戻す。
昨日は、ちゃんと終わった。
でも――
身体だけが、まだ続きを待っている。
日比野は、椅子に深く腰掛け直して、
もう一度、仕事に意識を戻そうとした。
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