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第72話 週末までの距離

退勤間際のフロアは、少しだけ空気が緩んでいる。 日比野は、資料をまとめながら、何度目か分からない視線を高村に向けた。 高村は、パソコンに向かっている。 真面目な横顔。 仕事の顔。 それなのに。 (……あの続き、考えてるの…俺だけ、かな) 胸の奥が、じわりと疼く。 あの日は、ちゃんと終わった。止まった。 それを理解しているはずなのに、 時間が経つほど、意識してしまう。  ——欲しい。  続き、が。 自分の中に浮かんだ言葉に、日比野は一瞬だけ息を詰めた。 高村が席を立ったのが見えて、資料を抱え直して、日比野も立ち上がった。 フロアを出るところで、周りに人がいないのを見計らい声をかける。 「……高村」 高村が振り返る。 「ん?どうした?」 一瞬、言葉に詰まる。 でも、逃げない。 「……次の週末さ」 少しだけ、声を落とす。 「高村の家、行ってもいい……?」 その瞬間だった。 高村が、目を見開いて——ほんの一瞬、息を飲む。 すぐに何か言いかけて、 でも言葉にする前に、周囲を一度見渡す。 「……ちょっと来て」 短くそう言って、資料室の方へ歩き出す。 日比野は何も言わず、ついて行った。 資料室のドアが閉まる。相変わらずこの部屋に人の気配は無い。二人きり。 思ったより近い距離に、心臓が跳ねる。 「……日比野」 落ち着いた声に名前を呼ばれただけで、身体が反応してしまいそうになる。 高村は一歩だけ近づいて、少しだけ声を落とした。 「……そんな顔」 耳元に、低い声。 「俺と二人きりの時以外に、しちゃダメだよ」 何の顔なのか、自分では分からない。 でも、囁きが耳に触れた瞬間、 背中から熱が上がるのがはっきり分かる。 日比野は、反射的に顔を伏せた。 「……っ」 耳まで熱い。 頬も、きっと赤い。 高村は、それ以上触れない。 触れないけれど、体温だけが近い。 「……ほんと、無自覚でずるい」 苦笑まじりの声。 日比野は、やっと顔を上げて、小さく言った。 「…お前のせい、だよ…」 「俺の?」 高村が軽く首を傾げて聞いてくる。 日比野は、赤くなった顔を背けて答えた。 「…あんなところでやめられたら、もっと…って思っちゃう、だろ」 その一言に、 高村が一瞬だけ、言葉を失う。 でもすぐに、深く息をはいた。 「……もう、本当に…。これ以上煽らないで欲しいな…」 苦笑しながら、ほんの少しだけ、親指が日比野の頬に触れる。 「今すぐ連れ帰りたいくらいだけど…週末まで我慢。お互いに」 低い声。 理性で縁取られた、ぎりぎりのトーン。 日比野は、ゆっくり頷いた。 「……うん」 資料室の静けさの中で、 二人の間に、確かな熱だけが残っていた。

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