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第80話 まだ、名前がない
数日後。
その日は珍しく、仕事が少しだけ早く終わった。
「……はぁ」
デスクで軽く伸びをしてから、日比野は時計を見る。
定時まで少しある。
けれど、自分の仕事はもう一段落ついていた。
(……どうしよ)
迷って、結局席を立った。
コピーを取りに行くついでに、
なんとなくフロアを見渡す。
そのときだった。
「あ、高村さん、それさっきの件ですか?」
少し離れたところで、
女性社員が高村に話しかけていた。
高村の横に立って書類を見せながら、距離が少しだけ近い。
「うん、それそれ。ありがとう、助かる」
いつも通りの落ち着いた声。
最近はお互い違う案件に携わっていて、一緒のチームで仕事をしていない。
今話しかけていた社員は、現在の高村の案件のチームの一人だったはず。
二人の会話が、耳に入ってくる。
「やっぱり高村さんに確認してもらうと安心します」
「そんな大したことしてないよ」
軽く笑う声。
その声に合わせるように、女性社員も柔らかく笑う。
別に、珍しい光景じゃない。
高村は人当たりがいいし、
仕事もできる。
こうやって誰かに頼られているところなんて、
今まで何度も見てきた。
なのに——
「……」
なんとなく、
足が止まる。
(……なんで)
胸の奥が、少しだけざわついた。
理由は、わからない。
ただ——
「……日比野?」
不意に名前を呼ばれて、はっとする。
気づけば、
高村と目が合っていた。
「あ、……」
「どうしたの?」
自然な声。
さっきまでの仕事の顔を保ちつつ、少しだけ柔らかい表情。
それを見て、余計に胸の奥がざわつく。
「……あ、コピー」
適当な理由を口にして、
そのまま視線を逸らした。
「そっか」
「うん」
それ以上は何も言わずに、
高村はまた仕事の話に戻っていった。
その様子を横目で見ながら、
日比野はコピー機の前に立つ。
少し微笑んで話す高村の横顔が目に入る。
(……別に)
なんでもない。
ほんとに、ただそれだけのこと。
なのに。
(……なんか、やだ)
思った瞬間、
自分で驚いた。
「……は?」
小さく呟く。
何が“やだ”なのか、
自分でも説明できない。
(……意味わかんないだろ)
そんなの。
仕事だし、
あれくらいの距離で話すことなんていくらでもあるし。
(……俺、何考えてんの)
自分で自分に呆れて、
コピーを終えて自分のデスクに戻り、やっぱり今日は早く帰ろうと、デスクの片付けを始めた。
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