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第82話 行かないでほしい

金曜の仕事終わり、同僚たちと軽く話していたときだった。 「日比野くんって、休みの日何してるの?」 ふいに声をかけられて、日比野は顔を上げる。 「え、普通に……家でのんびりとか」 「えー、もったいない。せっかくならどっか行けばいいのに」 少し距離の近いその人は、くすっと笑いながらそう言った。 「今度さ、みんなでご飯とかどう?ほら、最近あんまり交流なかったし」 「……あー……」 どう返すべきか少し迷う。 断る理由もないし、かといって、積極的に行きたいわけでもない。 しかし仕事柄、他部署とも交流が大事なのは確か。 「都合合えば、って感じでいいからさ」 にこっと笑われて、 結局、曖昧に頷いた。 「……はい、そうですね」 その瞬間—— 少し離れたところから、視線を感じた気がした。 (……?) なんとなく顔を上げると、 ちょうど高村と目が合った。 一瞬だけ、空気が止まる。 けれどすぐに、 高村はいつも通りの表情に戻って、 「日比野、終わった?」 と、仕事の延長みたいな自然な声で話しかけてきた。 「……あ、うん。今ちょうど」 「そっか。じゃあ一緒に出る?」 「うん。……あ、じゃあ、お疲れさまです」 他の人たちとの会話を切り上げて、日比野は鞄を手に取り高村と一緒に歩き出した。 さっきの会話には一切触れず、 高村はそのまま隣を歩く。 少し歩いたところで。 「……さっきの」 不意に、高村が口を開いた。 「ん?」 「ご飯行くって話」 「ああ……」 日比野は軽く頷く。 「なんか誘われてただけ。まだ決まってない」 「ふーん」 それだけ。 それだけなのに—— なぜか、妙に静かだった。 「……行くの?」 「え?」 「そのご飯」 視線は前を向いたまま。 でも、声が少し低い。 「……どうだろ。まだわかんない」 正直に答えると、 少しの間があった。 「……そっか」 それだけ返ってきて、 会話が途切れる。 (……なんか) 違和感。 理由ははっきりしないけど、 さっきまでとは少し違う空気。 隣をちらりと見ると、 高村はいつも通りの顔をしている。 でも—— (……機嫌、悪い?) そう思った瞬間、 ぐい、と手首を掴まれた。 「え、」 そのまま、手を引かれて扉の奥へ押し込まれる。 資料室であることがわかって振り返る。 「ちょ、たか…っ」 扉が閉まる音。 一拍遅れて、カチ、と鍵の音がした。 (…こいつ、カギ…っ) 振り向いた高村の目が—— さっきまでと違っていた。 静かで、 でも、はっきりと熱を帯びている。 「……ああいうの、普通に行くんだ」 ぽつりと落ちた声。 「え……?」 「さっきの人」 少しだけ眉を寄せて、 日比野を見る。 「距離、近かったね」 「…」 「笑ってたし」 「……っ」 その一言で、 何を言われているのか理解する。 (……あ) 今度は、自分がそっち側になる番だ。 少し前の自分の嫉妬の話に合わせて言っていることがわかって、少しだけムッとする。 「…みんなでって言ってたし。仕事を円滑に進めるためでもあるだろ、食事会とか飲み会とか…」 「そうだね」 即答。 でも—— 「わかってるけど、やだなって思った」 まっすぐな言葉。 日比野が言った“ちょっとやだった”と、 同じ温度で、でも少しだけ強い。 「……」 言葉に詰まる。 「慧の仕事の邪魔する気はないけど」 一歩だけ距離を詰められる。 「…嫌なものは嫌だなって、ね」 苦笑するみたいに言いながら、 指が日比野の頬に触れる。 「……っ」 ぴく、と反応する。 「だからさ」 そのまま、少しだけ顔を近づけて、 「ちゃんと、俺のだってわかるようにしておきたい」 「……は?」 一瞬、意味が追いつかない。 次の瞬間—— 軽く、でもはっきりとしたキスが落ちた。 「……っ!!」 慌てて周りを見る。 「ちょ、会社…っ!」 「鍵閉めたの見てたでしょ」 さらっと言いながら、 もう一度だけ、今度は頬にキスをする。 「……翔央、お前……っ」 顔が一気に熱くなる。 「なに」 「……そういうの、ずるい」 「うん、知ってる」 あっさり返されて、 また言葉に詰まる。 高村が、ゆるく指と指を絡ませて手を繋ぎながら日比野を見る。 「……行かないでほしいって言ったら、困る?」 少しだけ真面目な声と少し眉を下げて伺うような瞳。 さっきまでの軽さとは違う。 「……」 一瞬だけ、迷う。 でも—— さっきまでの熱と、今の耳としっぽを下げている大型犬みたいな表情を見せられたら…… 「……行かない」 小さく、答えた。 「……ほんとに?」 「うん。別に行きたいわけじゃなかったし」 それを聞いた高村が、 ふっと息を抜く。 「……そっか」 今度はちゃんと、 いつもの柔らかい表情に戻る。 「じゃあ、帰ろっか」 さっきまでの空気が嘘みたいに、 自然な声。 繋がれた指先に、 少しだけ力がこもって、そして離れた。 資料室から出て、二人は再び歩き出す。 日比野はちらりと横を見る。 (……こいつ) さっきまでの余裕の顔と、 あの一瞬の独占欲。 そして困ったように伺う表情もーー。 どっちも本当なんだろう。 「……なに」 視線に気づいたのか、 高村が軽く笑う。 「……別に」 そう答えながら、日比野は少し俯いて廊下を歩いた。 自分しか知らない高村の顔ーー。 あの時高村が言っていたことがなんとなくわかってしまって、深みに嵌っている自分を感じていた。

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