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第12話
『森 』の近くに出来る湖のことを、涙水湖と呼ぶ。
空から落ちる一粒の雨であってさえ、それは大地の神のものである。だが、地上に落ちた涙はもはや空の神が流した涙だけのものではない。大地に染み込み、土を潤わせ養分や不純物を含みながら川や湖になる。それらは空の神と大地の神の恩恵の賜物だが、純粋に空の神が流した涙だけを集めることは出来ない。
だが『森』の側に出来た湖は、その特性故に空の神が流す涙そのものだと言われている。その水、涙水と呼ばれるそれは、手に入りにくいがために、とりわけ魔法使いの間では一際重宝されている。
まじないに使用するために、不純物を含まず、空の神そのものの力を秘めた涙水湖の水は、必要不可欠なものだった。
『森』まで行ける者は限られている。また、涙水湖自体も数が多くないため、涙水は高値で取引されている。
桂樹は涙水湖の水を拳大の大きさに凝縮し、顔馴染みの道具屋に顔を見せていた。
拳大の球体一個に付き、一人が二日使用するに充分な量の水が固められている。
それを五つ、桂樹は道具屋に持ち込んだ。
「相変わらず見事な涙水球ねぇ」
五つの球体をじっくり検分した後、馴染みの道具屋の女主人は魅力的に赤い唇に笑みを浮かべた。
燃えるような赤銅色の髪を惜しげもなく晒し、薄い青紫の瞳を楽しそうに緩める彼女は、アルべでも屈指の魔法使いである。見た目こそ桂樹と大差ないような歳の美女だが、その実、齢百を超える大魔女でもある。通り名を葛藤 と言い、本名は魔法使いの秘匿性により誰も知らない。
「そんなに稼いでどうするの?」
涙水球五つの代金を手渡しながら、葛藤が呆れたように尋ねる。
この五つの涙水球の代金だけでも大金だ。
樹術師として生活する桂樹に、不満はない。ただ樹術師の多くが、『森』の近くで活かされるものを持ち帰ってくる。それを蒐集するのか換金するのか、人に分け与えるのか、それは樹術師次第だ。
「あっても困らないものは持っていろ、と言ったのは貴女だろう」
葛藤の軽口に、桂樹が苦々しく反論する。
桂樹は当初、必要なものならばと、涙水やそれに準じるものを、無償で提供していた。だが彼女と出会って戒められた。取りに行くという労働に対する対価を支払ってもらいなさい、と。その裏に、これだけ希少価値の高いものを無償で出回らせては危険だ、という事情があった。誰もが気軽に手にしていい代物でもないのだ。それに、正当な商品には正当な対価が支払われて然るべきなのだ。
「でもこーんなに溜め込むなんて……使い方知らないの、坊や?」
にやりと妖艶な赤い唇が吊り上がり、桂樹に白く細い手が誘うように伸びる。
挑発するように頬を一撫でし、唇にしなやかな指を這わせる。
桂樹の群青の瞳が呆れたように眇められる。
「遊んでる暇はないんだ」
にべもなく言い捨てると、葛藤がわかりやすくむくれた。
「まぁ、なんて生意気な子! この間までこ~んな小さかったのに」
子供の背丈くらいを示して大袈裟に嘆く葛藤の軽口に、桂樹がむっと精悍な顔を嫌そうに歪めた。
「貴女と会ったのは二年前だ。俺はそこまで小さくなかった」
幼少の頃ならともかく、彼女と出会った時、桂樹の成長期はとっくに過ぎていた。他と比べても上背がある桂樹は、葛藤と並べは彼女を余裕で見下ろせる。
至極真っ当で真面目な返しに、葛藤の肉感ある唇からため息が漏れる。
葛藤は桂樹以外の樹術師とも顔見知りだが、他の樹術師はもっと遊び方を知っている。世界中を旅して歩くのだ。彼らの周りは様々な誘惑に満ちている。若くそれなりに自由に使える金も持っていれば、誰に教わることなく遊び方を覚えていくものだ。普通は。だがこの目の前の無愛想で強面の男は、良くも悪くも浮いた話を聞かない。知己である樹術師などは個性的で方々に噂を聞く遊び人である。その交友関係を鑑みれば、遊び方を全く知らないということもないのだろうが。
「で、どうして今回に限って空路で帰ろうとしてるの?」
涙水球の換金ともう一つ、桂樹は葛藤に頼み事をしに来た。
帰路を陸路ではなく、空路にする。そのために騎獣を調達して欲しいのだ。
おおよその樹術師は、空を行く騎獣に頼らない。その調達の困難さもさることながら、彼らは陸を、『世界樹 』が根を張る大地を行くことを一つの矜持としている。桂樹とて、今まで一度たりとも任務において空を駆ったことなどない。
彼女の質問は最もなものだった。
「言っただろう、そんな時間はないんだ」
明確に理由を口にしない桂樹に、葛藤の魔力が宿る薄青紫色の瞳が楽しそうに細められた。
「それは、桂樹が今日宿屋に引っ張り込んだ子に関係あるのかしら?」
玩具を見つけたように爛々と光が宿った瞳に、ガタンっと大きな音をたてて桂樹が椅子から立ち上がる。動揺は実にわかりやすく顕著に言動に現れた。
「なん……で、知って……」
健康的に日に焼けた肌をうっすらと染める珍しい姿を目の前に、葛藤の花の顔がみるみる緩んでいく。
「いやだ、なにその反応! 新鮮ー! 逆にどうして私が知らないと思ったのー? なぁに? 本部に嫁もらいますって律儀に報告に行くの?」
「違う!!」
報告をしに帰るのも本当だし、宿屋にいる彼に関係があるのも事実だ。だが、彼女がからかい交じりに話すこととは大きく意味が違う。
出がけに触れていた魅惑的に赤い唇の感覚をうっかり鮮明に思い出し、桂樹は彼女の言を思った以上の音量で否定していた。
「そんなに強く否定しなくてもいいでしょ……」
本当に冗談のわからない子ね、と気分は母親のように続けようとし、葛藤は何かに気付いたように言葉を止めた。それから桂樹がふと顔を上げる。
「『鳥 』が歌う時間ね」
両手を上げて庇うように自身を抱きしめ、彼女は何かを感じ取るように薄い青紫の瞳を閉じる。
「『鳥』が歌うとざわざわするわ」
『鳥』の歌声が世界を巡ると、あらゆるものに影響を与える。顕著にその力を感じるのは彼女たち魔法使いであり、その歌声で魔力が上がる。内にある自身の魔力が底上げされるのだ。『鳥』が歌う時間、彼女たち魔法使いがかまえる店は一番忙しくなる。
通常聞くことが出来ない声で世界に影響を与える『鳥』を悪しと判断する者に対し、内側から巡る力を感じる彼女たちは『鳥』を善しとする。
「ふふ、今日は運がいいわね、桂樹。結婚祝いに占ってあげるわ」
ざわざわと内側を巡る魔力に感化されてか、彼女の魔力を示す瞳が濃い色を発する。
機嫌良く言い放つが早いが、桂樹の訂正の言葉を待たず、涙水球を一つ手に取る。ずぷりっと細くしなやかな指が涙水球に差し込まれると、そこから涙水が細く流れ出して銀盆になみなみと注がれた。涙水で満たされ水鏡になったそれに手をかざし、葛藤は桂樹に向けてにこりと妖艶に笑んだ。
「今一番心にあるものはなぁに?」
問いかけに魔力がこもっていた。
彼女はアルベでも屈指の魔法使いだ。加えて『鳥』の歌声で底上げされた魔力を込められれば、桂樹に抗う術はない。答えを返すことはもちろん、反応することなくとも、彼女の水鏡には映ってしまう。
心にあるものは。
問われれば、考えるより先に桂樹の中で結ぶ像がある。
桂樹の一瞬の隙を突き、水鏡はゆらゆらと揺れて渦を作り、やがて一つの像を結んだ。
流れるような銀糸の髪に、きめ細やかな白磁の肌を染める、上気して色付く頬。完成された芸術品のごとくきらびやかで、歪みのない完璧な美を有す容貌。そして人形のように美しい彼を人たらしめている、強く存在を主張する緋色の瞳。
「あら、可愛い子」
当然映し出された姿に、桂樹はさっと顔色を変えた。
「どこだ?」
ガタンっと勢い良く立ち上がった桂樹の声が、低く響く。
「え?」
低すぎて届かなかった彼女が顔を上げて見た桂樹は、彼をよく知る葛藤でさえびくりとするほど険しい顔をしていた。
「ここはどこだ?」
水鏡に映る、緋桐の姿。美しい白銀の髪を惜しげもなく晒し、白い肌を上気させて走る姿がそこにある。
桂樹は彼が宿屋を抜け出した事実を知らない。今緋桐が外で走っているのは何故なのか。
「葛藤!」
いつにない剣幕に、葛藤は水鏡に映る少年の居所を慌てて探る。薄い青紫色の瞳がじんわりと濃くなると、彼女は意外そうに呟いた。
「あら……花街ね」
言葉が落ちると同時、桂樹の姿は店から消えていた。
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