13 / 31

第13話

 花街はアルベの一角にある。明確にここからが花街、と言った境こそないものの、人はそこに足を踏み入れれば肌でそれを感じる。夜に賑わう店々を歩いた先に、入り口は紛れ込むようにしてある。旅の途中の、酒をあおった気分の良い客を相手にしている。そこが延長線上にあるのは当然のことだった。  緋桐は何故自分がそこにいるのか、全く理解していなかった。宛もなく歩いていたのは事実だ。取るものもとりあえず宿屋を出たまでは良かったが、目に入る全てのものが珍しく、また懐かしく、当初の目的を忘れた。はたと気付いてみれば街の雰囲気はけだるく艶かしいそれに変わり、緋桐の足はついっと止まった。この場に長くいるのは良くないだろうと、知識はひしひしと警告を告げていた。  だが目にとられた街並みに、帰り道さえわからない。ひるんだ所を、付け込まれるように声をかけられた。 「店を探しているのか? それとも客か?」  下卑た笑みを浮かべた男は、アルベの花街に何度も通ったことがあった。闇夜を弾くように浮かぶ白銀の髪に、白く透明感ある肌に乗る薄く色付く唇。はっとするほどの美貌に、更に印象を打ち付ける大きな緋色の瞳。  一度見れば忘れようもない少年を、男は見たことがない。  客引きをさせるには上等すぎる少年が、こんなところで途方にくれたように佇んでいる。それは何故か。  店に所属することなく、客とサシで交渉したほうが儲かるからだ。これだけ上等な少年ならば、それも当然だろう。  一瞬にして男は手前勝手な理由を作り上げ、緋桐ににじり寄った。  ぞろりと這うような声が、緋桐の肌を舐め上げるように伝った。一瞬にして肌を粟立たせ、びくりと背を震わせた緋桐が男を睥睨する。  だが、眦を釣り上げ男を睨む様は、ひどく相手には扇情的に映った。わざと煽られているのだと勝手な解釈をすれば、男の欲が刺激され興奮する。  嫌悪感あらわに相手を睨むも、より一層男の顔に下卑た笑みが広がる。気付けばいつの間にか逃げ道は塞がれ、緋桐は近付く男に後退するしか術を持たなかった。やがて薄く頼りない背中は壁に行き当たり、緋桐は小道の隅へと追いやられた。  客引きの色っぽい声さえ遠くに聞こえる、細く薄暗い小道は、何かしら悪事を働くには最適な場所だった。  男からすれば誘い込まれるように導かれた暗い小道だ。その美しい顔と同じように白く柔い肢体を存分に楽しもうと、当然のように手を伸ばした。 ―――パシン!  受け入れられるはずの男の手は、小気味良い音を立てて振り払われた。  男は一瞬何が起こったのか理解出来なかった。しかし振り払われ、見下ろす少年の美しい緋色の瞳が、烈火の如く怒りに満ちていることに気付いた。  カッっと男の頭に血が上った。 「ふざけるな!! 誘ったのはそっちだろう!!」  鼓膜を震わすほどの怒号に、しかし緋桐の瞳が怯むことはなかった。射殺すほどの鋭い視線が、男を射抜く。  だが、頭に血が上った男がその視線だけで諌められることはなく、緋桐は再び伸びてきた手に簡単に捕えられた。  両手首を片手で頭上にまとめられ、壁に身体を押し付けられる。逃れようと必死でもがくも、大人と少年では上背だけでも随分と違う。加えて大の男の容赦ない力で抑え込まれれば、緋桐に敵う術はなかった。  びくりともしない男の絶対的な力の暴力に、ぎりっと緋桐が歯噛みする。次に行われる行為を、彼は知っている。  悔しさにかっと頬を染め、襲う嫌悪と恐怖、苦痛に緋桐の瞳にうっすらと膜が張る。  眦に溜まるそれが溢れることなく止まり、それでも睥睨する姿が、男の興味を更に唆る。 「これはこれで……」  白く肌理細やかな肌を紅潮させ、美しい緋色の瞳が涙目で睨み上げる姿は、妙に加虐心を煽る。  空いた片手で赤く色付く頬を撫で上げ、好色に笑う。  今日は実に良い夜だ。一晩飽くことなく楽しめるだろう。この白い肢体を、美しい顔を、開いて、啼かせて、啜り、注ぎ、壊れるほど激しく。  男の愉悦に、怯むことがない瞳から耐えきれずに涙がこぼれ落ちた。  刹那。  男の喉元に鋭利な刃物が突きつけられた。 「それ以上触れれば、命を置いていってもらうぞ」  ぞっとするほど低い男の声だった。腹の底からの怒気を抑えこんだようで、その声はかすかに震えてさえいた。  男はぎょっとして緋桐に伸ばそうとしていた手を止め、そのままの姿勢で横目に男を見る。  長身の旅人然とした男だった。大柄で逞しいとまではいかないながらも、日々それなりに鍛えていることを窺わせる体型をしていた。おそらく服の下には無駄のない配列の筋肉が並んでいるのだろう。精悍な顔付きは雄々しくも見え、切れ長の深い群青色の瞳が鋭さを増して男を睥睨している。  少年の横取りとも思われたが、睥睨する男の容貌から元締めなのだと男は解釈した。乱暴ではあるが、暴れて鋭い切っ先がこれ以上喉に刺さるのはまずい。じりじりと男は後退した。 「おい……!」  それでも何か一言二言ぶつけなければ、この怒りは収まりそうにないと男は声を荒げる。  だが冷たさを増した鋭い群青に一睨みされると、男はそれだけで震え上がった。 「去れ」  背筋を凍らせるほど低く重い声に、男は言葉もなく脱兎の如く駆け出した。  その場には、店の元締めである強面の男と、壁に背を預けたまま蹲る店子が残された。  強面の元締め、桂樹は男が去るのを待ってから緋桐の側に駆け寄った。 「緋桐」  全身を細かく震わせ、涙の膜を張ってもなお唇を強く嚙みしめる緋桐に、桂樹は小さく呼びかける。そっと手を伸ばして銀糸に触れると、かすかに緋桐の背が震えた。だが、その手が振り払われることはなく、桂樹は掌から伝わる細やかな震えに胸が締め付けられた。  生き物などいない『(リュス)』の中で、一人誰にも気付かれることなく木に食われかけていた幼気な少年。元からなのか事件のせいなのか、口を利くこともなく、人形のように抜け殻になっていた。今ようやく人らしい感情を見せるようになっていたのに、この少年はまた心に傷を負うような出来事に遭ってしまった。  カタカタといつまでも震えが止まらない薄い肩が痛々しくて、桂樹は思わず彼を抱きしめた。  成長途中の薄く華奢な身体は、がっしりとした桂樹の腕の中にすっぽりと収まった。 「大丈夫だ」  都合の良い解釈をすれば、彼がこうして外を出歩く羽目になったのは、桂樹がいなかったせいだろう。眠っているからと、その寝顔から目を背けるようにして出てきてしまった桂樹の落ち度だ。 「一人にして悪かった」  耳元で囁くように謝罪すると、緋桐は桂樹の腕の中で彼の胸を濡らした。  暖かな涙がじんわりと胸を濡らしていくその姿がひどく幼気で、桂樹は知らずに抱く腕に力が入った。柔らかな質感の銀糸の髪を優しく梳きながら、彼の気分が落ちくのを待つ。  少しでも桂樹が離れるような素振りを見せれば、緋桐は駄々をこねる子供のように首を振りながらしがみついた。首に回る暖かな手が、彼からの信頼を如実に表しているようだった。信頼を得られる立場にあることを純粋に嬉しいと感じたが、暗がりの路地にいつまでも座り込んでいるわけにもいかない。  桂樹は器用に体勢を変え、歩きやすいように緋桐を抱え直した。背を支え両足を抱え上げてしまえば、さながら女性を運ぶようにも映ったが、文句を言うものもいない。ただ緋桐がより近くなった距離から、躊躇うことなく桂樹に腕を回した。  花街をこの格好で行くには些か勇気がいる目立ち方ではある。しかし宵も更け、酒を浴びて花に夢中の人々はそばを行く他人に興味がない。緋桐の白銀の髪を隠せば、娼妓を連れ帰る男に見えなくもない。迷う暇も手段もない桂樹は、緋桐を今一度抱え直すと、大通りを堂々と通って花街を後にした。宿屋の主人は、情人を抱いて帰ったと思しき桂樹に、一瞬ぎょっと目を見開いた。だがそこは彼も商人である。すぐに素知らぬ顔をして通してくれた。  部屋に入ってからも、緋桐は桂樹から離れようとしなかった。危険は去ったのだと言い聞かせ腕を外そうとすると、さらに桂樹を抱く手に力を入れてへばりついた。  抱き合ったまま、桂樹は途方にくれた。薄い身体から伝わる暖かな温もりと、脈打つ鼓動。頬をくすぐる銀糸は指通りよくさらさらと流れて桂樹の手を楽しませる。首筋に乗るのはすべやかな額で、呼気がかすかに胸元まで届いては桂樹を落ち着かなくさせた。  困った、と思う。  この状況に、ではない。彼からの信頼が嬉しくて、この心地良いぬくもりを離したくないと思った自分に、だ。  さらさらと流れる緋桐の髪と同じ輝きの月が、皓々と照っていた。

ともだちにシェアしよう!