14 / 31
第14話
ひどく緋桐の機嫌が悪かった。
朝目覚めた時には、間近すぎる距離に白皙の美貌があった。ぎょっと目をむいた桂樹に、衣擦れの音で目が覚めた緋桐は、寝起きのぼんやりとした目で花がほころぶようにふわりと笑った。初めて向けられた笑顔は破壊力が大きく、あまつさえ間近で拝んでしまったために桂樹は大いに慌てた。
全身の熱が一気に沸き上がるような感覚に、思わず跳ね起きた。その様子を不思議そうに見ていた緋桐は、昨夜の出来事を引きずるようなこともなかった。朝食を食べ、宿屋を引き払った時にも、桂樹に対する警戒が完全に解けたこと以外に変化はなかった。
昨日の話の続きをと葛藤の所に出向いた辺りから、緋桐の機嫌は降下していた。
店の重く厳しい扉を開けると、ふわりと独特の香の臭いがする。魔法使いが使う香木のものだが、緋桐はその香りにぴくりと柳眉を寄せた。
来客を告げる鈴の音に呼び出された葛藤が奥から顔を出し、桂樹、緋桐と視線を移してにこりと微笑んだ。
「昨日の子ね。桂樹は間に合ったようね」
高く結いあげた赤銅色の髪を豪奢に揺らし、肉感ある赤い唇に弧を描く美女は妖艶で妖しい。薄く纏った紫紺の衣は彼女の豊満な体を包み、香木の臭いを上着のように纏っている。
増した濃い臭いの元凶である美女を、緋桐はきっと睨みつける。
目を合わせる相手全てに取る威嚇の態度に、隣にいた桂樹は軽く息を吐く。
「葛藤、昨日の話だが……」
威嚇だけで飛びかかることもなく、緋桐は基本桂樹の陰でおとなしくしている。ぞっとするほど冴えたる美貌の、鮮やかな緋色に睨まれてノコノコ近付く者もいない。
桂樹は緋桐を特に諌めることもなく、本題を目の前の魔法使いに切り出した。
彼女は年を経て得られる貫禄を有し、緋桐を意に介さず優雅に腰を下ろして足を組んだ。
「空路を行くって話ね。話は通しておいたわよ。すぐに本部に行きたいんでしょ?」
せっかちな話ね、と彼女は笑う。
アルベから東の森都ヴェルドジェーリュまで、おおよそ二十日かかる。足が移動手段である桂樹たち樹術師は、長の時をかけて大地を巡る。二十日の行程など、本来短いものだ。だが今回桂樹には悠長にしていられない理由がある。
威嚇をやめない緋桐を一瞥し、桂樹は葛藤に礼を言う。
空路を行くには、それなりに手続きが必要だった。
大気は空の神と大地の神が生み出し、『世界樹 』はその大気を自由に飛び回る『鳥』を生んだ。空を駆るのは、翼を持つ生き物しか許されない。
技術が進み、魔法が進み、かつて空に鳥に似た意思を持たない物が浮かんだことがあった。しかしそれは浮かべて幾ばくもなく、悉く雷に撃たれた。空の神によるものか、『世界樹』によるものか、誰にもわからない。ただ空を駆るのは翼を持つ生き物の特権であることが証明された。
人は空を一つの移動手段とするために、大型の翼ある生き物を見つけ出した。
竜種である。彼らは獰猛だが賢く、適切な扱いさえ出来れば最良の友となった。ただその扱いは難しく、空の航行は竜使いによる物資の運行がほとんどであり、翼竜そのものの貸し出しは稀であった。
桂樹は山岳地帯の出身であり、近くに竜使いの里があったため、幸いなことに竜の扱いには慣れている。空を駆るなどと、樹術師としてあればないことであるが、今回は時間が惜しい。
「定刻に竜使いが一頭竜を連れてくるわ」
街の端に竜使いたちが使う専用の場所がある。そこまで行けばあとは勝手に手続きをしてくれるだろう。
葛藤は桂樹に張り付く緋桐に、魔力のこもる薄青紫色の瞳を向ける。
「振り落とされないようにしてなさい。翼竜は速いわよ」
小さな子供を諭すような心持ちの葛藤の言葉とは裏腹に、緋桐にはその言葉が含みがあるように届いた。
ギンっと鋭さを増して緋色が彼女を射抜く。
ぴくりと反応したのは彼女の魔力を秘める瞳で、目付きの悪くなった野良猫を探るように見つめる。
ざわりと葛藤の内部がざわついた気がした。
「葛藤?」
威嚇をやめない緋桐と、真っ向から勝負するような葛藤の視線を訝しんで桂樹が名を呼ぶ。
「あぁ……、ごめんなさい、不躾だったね」
はっとして彼女は言葉を繋いだが、今初めて桂樹を視界に入れたように数度瞬きを繰り返す。
「いや、こちらこそ色々すまない。助かった、ありがとう」
わずかに相好を崩して素直に感謝を述べる桂樹に、葛藤は気を取り直して微笑んだ。
彼の本質はこうして真っ直ぐで言葉に偽りがないところだ。言葉を大切にする魔法使いにとって、彼をとても好ましく思う。
桂樹の素直さに触発されるように感情が表に出ると、敏感な野良猫が先の威嚇とは比べものにならない敵意を向けてきた。
「あら、ごめんなさい」
内心面白いわ、と思いながらも、葛藤は小さく野良猫に向けて謝罪する。
桂樹はそのやり取りに首を傾げながらも緋桐の肩を抱き、店の扉を開く。
外の新鮮な空気に緋桐が深く息を吸い、桂樹がそれを見て笑う。陽の光の中を行く二人の後ろ姿を見送り、突如襲った不安に葛藤は思わず胸を押さえた。
翳りも何もない二人なのに。
陽の光を浴びて輝くように真っ直ぐ前を行く姿なのに。
(何故身を裂くような悲しみに襲われているの、桂樹……)
ともだちにシェアしよう!

