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第20話
執務室を追い出され、地下へと道を辿る。隣を歩く緋桐が物言いたげに見つめてくるのに気付き、桂樹は説明をほとんどしていないことを知る。
「あの人がここ『シンクタンク・ユグドラシル』の総帥だ。まだ若いがとても優秀な人で、経歴が少し変わっている。あの人の目の色、気付いたか? 濃い紫色だっただろう?」
歩きながら語る桂樹の群青の瞳は生き生きと輝き、彼がいかにかの総帥を尊敬しているのかが垣間見られた。
緋桐はぼんやりと、桂樹のいつになく弾んだ声を耳に入れる。
紫の瞳は、高い魔力の象徴である。本来滅多に現れることがなく、中でも濃く深い紫の色は質の高い魔力を秘める魔法使いたちですら持ち得ない色である。その純粋な紫を有するのは、聖王家の血統に連なる者だけだ。
その中でもとりわけ濃く深い純粋な紫を瞳に宿す彼は、現国王の実弟にあたる。本来王弟公爵殿下と言う立場にあるのだが、今から十三年前、彼は突如王位継承権を放棄した。騒然となった周囲の混乱も説得も彼の決意を挫くことはなく、ここ『シンクタンク・ユグドラシル』の門をくぐった。それからの彼の躍進は凄まじく、若干二十六歳と言う若さで総帥まで登りつめた。
王位継承権を放棄し、爵位も返上したとは言え、彼は聖王家に連なる血統である。『シンクタンク・ユグドラシル』との癒着や黒い噂も当然ついて回ったが、彼は堂々と利用出来るものは利用すると公言し、王侯貴族から多額の資金を巻き上げている。
「これから会いに行く人は、総帥の片腕で、簡単に言うとそうだな、俺たち樹術師の統括みたいなものだな」
『シンクタンク・ユグドラシル』総帥が連理であり、彼を頂きにその命令系統は、下に下がるにつれ当然細分化されていく。その中で樹術師擁する「ルトゥラ」だけが特異であり、連理を頂きに据えながらも、その命令系統は別に存在している。『世界樹』を護る場所として古から存在してきた本部、さらに言えば「ルトゥラ」の姿を体現し、研究所として一線を画している。そしてその権限は、時に総帥でも侵すことを許さない。
事実上『世界樹』を保護する機関「ルトゥラ」を管理下に置いているのは、一人の女性だ。彼女は連理の陰であり光である。連理の『シンクタンク・ユグドラシル』での躍進に手を貸したとされ、『世界樹』に関するその知識は他の誰の追随も許さない。
雛菊、と名を呼ぶのは総帥である連理一人であり、他は敬称「姫」を付け彼女を「雛姫」と呼ぶ。
「あの人の前にいると何もかも見透かされてる気がして得意じゃないんだが……」
脳裏に浮かんだかの人を思い描いて独りごちるが、桂樹の歩は緩む事なく、いつの間にか件の箱庭へと続く扉の前まで来ていた。
不安そうに自分を見上げる緋桐の銀糸を一撫でし、桂樹は心配ないと薄く笑みを浮かべる。
得意ではないが、嫌いではないのだ。
扉を開けるとすぐに踊り場があり、吹き抜けの上部に出る。目の前には地上から続く半透明のガラス張りの箱庭があり、踊り場から続く階段を降りると板張りの広い空間に繋がる。降り切るとすぐに毛足の短い絨毯が敷かれ、そこに置かれたローテーブルとソファが応接の雰囲気を醸し出す。だがその奥には半分ほどしか隠されていない給仕場が見え、生活感が垣間見えた。樹術師が採集物を届けに訪れる場所であり、専ら雛菊の居住区でもある。
踊り場から見た所、彼女の姿はない。ならば箱庭の中だろうかと階段を降りかけた時、半透明のガラスに穿たれた重厚な扉が開いた。
重そうな扉を難なく開いて現れたのは、白衣を着た華奢な女性。総帥とさほど歳は変わらないだろう。後ろで高く結い上げた髪を慣れた仕草で解くと、光を放つような見事な金色が舞う。豪奢に揺れる金の髪に彩られた彼女の肌は透明感を持ち、滑らかに白い。清廉な空気を纏いながらも、雪原に咲く深紅の花のように赤い唇が、蠱惑的に一つ吐息を落とす。そっと伏せられたのは星を浮かべたように煌めく翠の瞳で、睫毛が優美な影を作る。
見た者を恍惚とさせるような、息を呑むほど美しい姿をしていた。
その彼女が、人の気配に気付いてはっと顔を上げた。
純度の高い翠の宝石のような瞳が、訪問者を認めて大きく見開かれた。
ガシャン!
持っていたカップが白い繊手から滑り落ち、大きな音をたてた。大きく響いた音に、だが彼女は気付いていなかった。慄くように震えた赤い唇を、白い手が覆い隠す。
「……、……ん、な……」
小さく、吐息のように鈴のような声が落ちる。弱々しい声ははっとするほど切ない音を秘めていた。
「雛姫?」
訝しんだ桂樹の呼びかけにも、彼女は信じられないと弱く首を振った。きゅっと握った拳に力が入り、呼気を整えるように翠の目を閉じる。
そして、叫んだ。
「……桂樹に隠し子なんて聞いてません!」
広い空間に木霊するように響いた細く軽やかな声に、だがしかし桂樹の顔はぐっと歪んだ。
「そんなわけないでしょう!! なんで反応が一緒なんだ、貴方達は……」
目一杯否定して嘆息すると、鈴を転がしたような笑い声が耳に届く。
「さすが連理さんですね」
くすくすと笑いながら、雛菊は割ってしまったカップの元にしゃがみ込む。
「あ、俺が片付けます」
白い繊手を傷付けてはならないと、桂樹は階段を一気に降りきって申し出る。しかし桂樹が伸ばした手をやんわりと断り、代わりに彼女は二人に椅子を勧めた。
「何してるんだ、あんたは……」
そこへ上から降ってきたのは、片手に甘い芳香を乗せた連理の呆れた声だった。雛菊は連理を一瞥して、さっと割ったカップに顔を戻す。
「いえ、ちょっと衝撃が強すぎたので……」
わずかにくぐもった声に連理は柳眉をひそめるも、お菓子を切って下さいと言う彼女の言葉に素直に給仕場に向かう。
「お気入りのカップだったんですけどねー」
カチリカチリと破片を広いながらぽつりと落ちた可憐な声。
ふと振り返った緋桐の緋色の瞳には、未だ細く震える彼女の白い手が映っていた。
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