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第25話

 何かの花の匂いが鼻腔をくすぐる。甘く爽やかな香りに、緋桐の意識はゆっくりと浮上した。何度か緩慢な仕草で瞬きを繰り返し、ゆっくりと体を起こす。うすぼんやりとする視界に目をこすり、手を伸ばしてそこにあるはずのものを探る。しかし手にそれらしい感触が見つからず、寝起きのぼんやりとした顔が不機嫌に歪んだ。振り返って枕元を確認しようとした次の瞬間、ぱっと視界に光が広がった。 『前は枕元にスイッチがあったんですか?』  うっとりと耳朶を震わす可憐な鈴の音に、緋桐ははっとして首を巡らす。扉の側に、艶やかな薄紅色の唇を緩めた雛菊がいた。  一瞬にして状況を把握した緋桐が、ばつが悪そうに銀糸の頭をかいて寝台から降りる。 「おはようございます。よく眠れましたか?」  眠らせた張本人であるくせに、彼女には悪びれるところが全くない。最も、緋桐は眠らされた自覚がないので、彼女にたいして思うところはない。寝起きのふわふわとした足取りのまま雛菊に近付き、当然のように挨拶を返した。 「少し寝すぎましたかねー? 顔を洗ったら朝食にしましょうか」  連理さんのご飯は美味しいですよーっと、他愛のない話をする雛菊の声が妙に心地いい。  彼女は初めて見た時から緋桐に警戒心を抱かせないでいた。煙るような金色の髪から覗く宝石のような煌めきを持つ瞳も、ふっくらと柔く薄桃色に色付く唇から紡がれる声も、全てがすんなりと緋桐の内に収まっていた。  言われた通りに顔を洗って、寝起きのぼんやりした意識をはっきりさせる。すると現金なもので、途端に腹が空腹を訴えた。先ほどから鼻腔を刺激する美味しそうな匂いに、緋桐の腹が小さく鳴いた。  昨日座った応接のようなローテーブルがある場所ではなく、その奥、給仕場の近くに連れて行かれる。すでに座る連理に尻込みすると、雛菊が笑いながら手招きしてくれた。近付くと連理が挨拶の後椅子を引いてくれ、緋桐が着席するとすぐに目の前に陶器のグラスが置かれた。なみなみと注がれるのは淡い花葉色の液体で、ふわりと鼻腔に届く匂いが甘い。 「ラサの果実を絞ったものです。目が覚めますよ」  柑橘系の一種であるラサを丸ごと絞ったものは、朝食では一般的に出される飲み物の一つだ。甘くも酸味がある淡い花葉色は、喉越しも良く寝起きの頭をすっきりとさせる。  緋桐は一気にグラス半分ほど飲み干し、そこでようやく違和感に気付いた。  昨日まで一緒にいた人がいない。  気付いた瞬間、ぞわりと背筋が粟立った。  雛菊に対して、緋桐は警戒心を持っていない。彼女は緋桐を傷付けない。そしておそらくは、連理も。危害を加えられることなく、親切に接してもらっている。  だが、ただ一人の姿が見えないことが、言いようのないほど不安だった。足元から地盤が崩れていくようで、緋桐はグラスを持つ手が細かく震えた。 「桂樹は……?」  何故いないのか。  緋桐の恐る恐るの問いかけに、雛菊は自身のグラスに花葉色の液体を注ぎながら何でもないことのように口を開いた。 「帰りましたよ」 「え?」  一瞬耳を疑った。今ここにいないのは一目瞭然だが、緋桐の中で彼が帰ったと言う発想がなかった。と言うより、置いて行かれた、と言う事実が理解出来ないでいた。  綺麗な緋色を唖然とさせて瞬く緋桐のグラスを受け取り、雛菊が減った分を注ぎ入れる。 「貴方を本部まで送り届けたら桂樹の任務は終了なので、昨日のうちに帰りましたよ」  淡々と耳に心地の良い声が言葉を紡ぐ。まるで当たり前のことを話すように違和感なく、雛菊はグラスを緋桐に差し出した。  真正面から合った純度の高い宝石の瞳は、グラスを受け取らない緋桐を訝しむように瞬く。  じわじわと、置いて行かれたのだと頭が現実を認識し始めた。だが一方で、嘘だと叫ぶ自分がいて緋桐は差し出されたグラスに目もくれず立ち上がった。 「きゃっ!」  勢い良く立ち上がった瞬間、間近にあったグラスを持つ雛菊の手を引っかけた。だがそんなことを構っていられなかった。  身を翻した緋桐が、銀色の風のように走り去っていくのは一瞬の出来事だった。  手を引っかけられ小さく悲鳴を上げた雛菊は、バランスを崩してふらりとよろける。咄嗟に連理が横から手を差し出し抱き留め、彼は金色の髪に深々と溜息を落とした。 「なんで不安を煽るような言い方するんだ、あんたは……」  頭上から嘆息と共に落ちてきた声に、雛菊の柳眉がむっと寄せられる。 「連理さんに習っただけです」  桂樹を理不尽な理由で追い返したのは連理だ。総帥の意向に沿ったまでだと、悪びれず言い放つ彼女に、彼の二度目の溜息が落ちる。 「緋桐は虐めてないぞ、俺は」 「一緒です。連理さんが桂樹を甘やかすなら、私は緋桐を甘やかしましょう」 「一緒にするな。で、どうするんだ?」  勢い良く、風のように出て行ってしまった。探す宛てなどないだろうに。緋桐はこの場所を知らない。広大な敷地の中で、闇雲に探して果たして探し人は見つかるだろうか。出て行ってすぐならともかく、今更追ったところで見つかる保障もない。  完全に迷子になるだろうことを示唆すると、雛菊がふむと考えるように淡く色付く唇に白い指を添える。 「桂樹が連れてくると思いますよ」  後に問題児、月橘・ムラヤがここを訪れる。彼ら二人が本部の外にいることは知っている。その時に桂樹は一緒に門をくぐるだろう。面会は月橘にしか許していないので、桂樹はしばらく本部をうろつくはずだ。おとなしく自分の家に帰るとも思えない。二人の結びつきが強ければ、あるいはうっかり会ってしまうかもしれない。  安直な希望的観測に、だが連理は思い付いたように形の良い唇を意地悪く緩めてみせた。 「そのまま連れて帰る可能性は?」  緋桐は今連理の保護下にあり、桂樹には待機命令を出している。偶然見つけられたら、緋桐を連れて連理の前に出るより、そのまま連れて帰ったほうが桂樹も安易で気が楽だろう。  挑戦的な話に、にこりと雛菊が笑う。 「賭けますか?」

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