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第二話 異変-1

 ()(なん)は南海国の城下街であり、水の都としてもとても有名な地だ。  足で歩くよりも小船に乗った方が早いといわれるほど水路が多く、様々な物資を運ぶのに役立っている。  特に大きな水路を、(りゅう)水路(すいろ)といった。  この水路に沿うように宿や露店などの、紅色をした三層の楼閣がずらりと並び、それは王の住まう城郭城門まで続いている。  龍水路を始め街の水路の底には、(げっ)()南蓮(なんれん)という名の花がたくさん咲いていた。花片が幾つも重なった薄桃色のその花は、水を清める効能を持つと言われ、華南の名物にもなっている。  飛蘭は楼台の桟枠(さんわく)に少し身を凭れ掛けるようにして、外の龍水路を眺めていた。  三層目から見ても水の透明度がいいのか、底に咲く月華南蓮がとてもよく見える。そしてこの花を守るようにして生える、鮮やかな黄緑色の苔が月華南蓮に彩りを添えていた。  まさに水中の庭園のようだと、飛蘭はそんなことを思う。 「あまり桟枠の近くにいては、身体を冷やしてしまうぞ」 「──っ!」  景色を楽しんでいた飛蘭に、いきなり声が掛かった。  敏速に振り返るとそこには、高く結い上げた濡羽色の髪を背に下ろした美丈夫が、少し呆れた様子で立っている。  南海国の王、豹雅だ。 「……びっくりした! いくら王君とはいえ、部屋に入るなら声掛けてくれよ」 「何度も声を掛けたんだが、返事が全くなかったものでな。また痛みで呻いているのかと思って入らせてもらったら、当の本人は呑気に外を見ていた、と」 「あ……──ごめん」 「いきなり素直になられるほど怖いものはないな」  面白そうにくつくつと笑う豹雅に、飛蘭はもう何だよと怒って顔を背けた。            ***    飛蘭が(てん)薬処(やくどころ)に運ばれてきたのは十日ほど前になる。  典薬処とは、主に病や怪我の重症者を受け入れて養生させる施設だ。龍水路通りの城郭城門にほど近い場所にあり、三層の大きな楼閣から成っている。  背中に残されていた翼の切り口を見た医生は、何の躊躇もなく根元から切り落とされたと分かるほど鮮やかで、相手の残忍さがよく現れていると語った。だがこの切り口こそが、飛蘭の命を救ったのだ。  有翼人の翼は繊細かつ、とても鋭敏だ。 『翼狩り』に遭った者の中には、翼切の衝撃と痛みで自我を失う者も多いという。自我を保つことが出来た者でも、翼の根を残す切り方をされていると、手術が必要になる。根から病が発生し、最悪の場合死に至ることもあるのだ。  だが根を落とすということは、もう一度翼切を味わうということだ。たとえ環境の整った場所での手術であっても、止血の札や鎮痛の札を使用したとしても、二度翼を切ることに心が耐えられない者も多かった。  飛蘭は根を残さない切り口だったこと、そして王が止血と鎮痛の札をその場で貼り付けたことが、自我を失わずに済んだ要因だった。傷口を洗い、薬を塗って再び止血と鎮痛の札を貼り、包帯を巻いて処置は終了した。  典薬処に運ばれたその日の内に、飛蘭は意識を取り戻した。  目の前に王がいることに、それは驚いて身を起こす。同時にあの時、王に助けられたことは夢ではなかったのだと実感した。まさか言葉通りに王自身が飛蘭を、典薬処に運ぶなど思っても見なかったのだ。  そして王が申し訳ないと言って頭を下げたことに、飛蘭は更に驚くことになる。 「王君、何を……! どうかおやめください」 「否、今回の『渡り』の昇降地に『翼狩り』が流れ付いてしまったのは、自分達が別の場所で本隊に逃げられてしまったことが原因だ。本当に申し訳なく思っている。不便があれば言ってくれ。怪我が治った後のことも、私は貴殿に出来る限りのことはするつもりだ。どうか頼ってほしい」  飛蘭はふと、自分の翼を切った黒装束の男の言葉を思い出した。 (──ああ、だからあの時)  思わぬところで、思わぬ収穫だとあの男は言ったのだ。  まさに偶然と運の悪さが重なってしまった結果であり、決して王が悪いわけではない。 (寧ろ悪いのは……悪いのは) 「王君、貴方は悪くない。悪いのは仲間の忠告を聞かずに、助けることに必死で翼を隠すことを怠った俺自身だ。貴方は仲間を助けてくれた。貴方が来てくれたから、仲間は攫われずに済んだし、俺も両翼を失わずに済んだ」  もしも王率いる討伐隊が来てくれなかったら、今頃どうなっていただろうか。仲間達も自分と同様に翼を切られたかもしれない。もしくは他国の見世物小屋か遊楼に売られていたかもしれない。その後のことを想像すると、片翼を失ってしまったけれども、いまこうして生きていてちゃんと治療もして貰えることが、何と有難いことなのだろうかと思う。 「『渡り』は皆、貴方に感謝する。俺も貴方に感謝する。皆はもう里への旅路に?」 「ああ。残党も森の奥に逃げた故、一部の討伐隊が旅路の途中まで彼らを護衛している」 「重ねて感謝する、王君。今度のことは里に帰らないと分からないけど、もう渡ることが出来ないのは確かだ。でも出来たら里で仲間と共に『渡り』に関わる仕事がしたい」  それはさりげない王の提案を、断るような言葉に聞こえただろう。だが飛蘭は自分の気持ちを正直に王に伝えたかった。  ──もう渡ることが出来ない。  不意に自分の言った言葉が心に刺さった。  だがすぐに心の奥に沈めて、王に向かって笑みを見せる。  王は息を詰め、あの時と同じように目を見張った。 「自分のことよりも先に人のことを思う貴殿は……強いな。あの時もそんな風に笑っていただろう? それに……変に畏まられるより、素の貴殿の方が潔く、感じがいい」 「素?」 「初めに言っていただろう? 『どうかおやめください』と。あれより今の方が断然好ましい」 「──え」  きょとんとしていた飛蘭は、ふと我に返ったかのように口を手で塞いだ。自分は今、目の前の王に対してどんな言葉遣いをしていたのか。 「あ、あ、あの……っ、大変申し訳ごさいま……!」  慌てて言葉を直そうとして盛大に噎せた飛蘭に、無意識だったのかと王が豪快に笑った。寝台の卓子(つくえ)に用意されていた水を、王が飛蘭に差し出す。恐縮しながらも飛蘭はそれを受け取ると、一気に飲み干した。 「か、重ね重ね申し訳……」 「素の貴殿が好ましいと言っただろう? 私に畏まるのはやめてほしい」 「ですが……!」 「もしも私に対して『感謝している』と思っていてくれているのならば、この願い聞き入れてはくれないか? 飛蘭」  どくりと飛蘭の心の臓が跳ねた。  名前を呼ばれた、たったそれだけのことだというのに、自分の存在を柔く掴まれたかのような、そんな気分になる。  同時に『狡い』という感情に襲われた。そんなお願いの仕方をされてしまっては、断るに断れないではないか。  飛蘭が無言のままこくりと頷けば、王の黒水晶のような瞳が喜びに満ちる。 「願いを聞き入れてくれて感謝する、飛蘭」 「……っていうか何で俺の名前……」 「あの時、貴殿のそばにいた仲間に『飛蘭を助けて下さい』と託されてな。その時に名前を知った。良い仲間だな」 「……っ」  白露だと思った。  彼のことだ。助けようとして翼を切られてしまった自分のことを、気にしているに違いない。里に戻ったら真っ先に顔を見せようと、飛蘭は思う。  そんな飛蘭の思考を逸らせるには充分な、大きな咳払いがした。 「ちなみに私の名前は豹雅という」 「……え」  いきなり名乗った王に、飛蘭が唖然とする。 「存じておりま……あ、いえ、知ってるけど……」  話しながら嫌な予感がした。  この国に住む者として当然のように知る王の名前を、わざわざ王自身が名乗るその意味。まさかと思えば飛蘭の表情の変化を読み取った王、豹雅が何か言いたげな感情を含みながら、にこりと笑った。  冗談ではない。  崩した話し方をするだけでも、本当に大丈夫なんだろうかと戸惑うのに、名前を呼べと言うのか。  少しばかり顔を引き攣らせながら、飛蘭は言外を笑みに浮かばせた。 「貴方の名前はちゃんと知っているから、名乗らなくても大丈夫だ、」  典薬処に運び込まれたその日、その時だけの邂逅だと思われた豹雅だったが、翌日も翌々日も病室にやってきて飛蘭を驚かせた。  滞在時間こそ短かったが、飛蘭の身体を気遣う言葉を掛けて去っていく。退屈だろうと、何冊か書を置いていく日もあった。  またある時は鎮痛の札の効果が切れて痛みで呻く飛蘭に、豹雅自らが医生を呼んで、札と包帯を新しい物に変える手伝いをしていた。鎮痛の札は効果が現れるまで少し時間が掛かる。  痛みによって額に浮き出る汗を拭き、小さな水差しで水を飲ませる豹雅に、飛蘭は何故彼がここまでしてくれるのか、不思議で仕方なかった。やはり自分の所為で飛蘭が片翼を失ったと思って、気に掛けてくれているのか。 (貴方は悪くないと言ったのに)  だが鎮痛の札が効くまでの間、痛みに寄り添って傍にいてくれた豹雅の存在は、飛蘭にとってとても心強いものだった。彼の手から伝わってくる温かさが、飛蘭を安堵させる。一人ではきっと不安で堪らなかっただろう。  豹雅はその後も飛蘭の病室を訪れる。  そうして瞬く間に、十日が経ったのだ。

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