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――1週間と数日後――
俺は暴れ狂う少女を片腕で押さえ付けながら、銀の十字架を少女の額に押し当てていた。鍛え上げた体の筋肉が隆起し、じんわりと汗が肌に浮かぶ。
悪魔に憑かれた人間は、尋常では無い筋力を発揮するものだ。まるで体が壊れることを厭わないかのように…。骨が軋むような音を立てながら、エクソシストに抵抗する。
生暖かい雫が俺の頬を伝い、祈祷を唱えるこの唇へと落ちてくる。口の中に血の味が広がった。
相手はどうせ下級の悪魔だからと油断していたところはあったかもしれない。数分前のことだが、悪魔憑きのこの少女に強く突き飛ばされ、顔をベッドサイドのテーブルにぶつけてしまった。この血はその怪我だろう、右眉下辺りの皮膚が切れているのを自覚していた。
「名前を言え…!」
神の権威を借りながら強い口調で脅すように吐き捨てる。悪魔の名前を聞き出せば大抵は上手くいく。
少女の唇は乾ききって薄い粘膜がひび割れ、赤茶色に汚れていた。その唇が観念したようにわなわなと震え始める。
「やはり下級の悪魔か。好き勝手暴れやがってよ…」
フン、と鼻で笑いつつ、傍に置いていた聖書の固いカバーを握りしめる。
ついに知り得た、少女に取り憑く悪魔の名を口に出しながら、少女の体から下級の悪魔を引き剥がしす。
コイツには息付く間も与えない…。
容赦無く最後の言葉を紡ぐと、下級の悪魔は俺に屈したように姿を消失させた。
「はぁ…はぁ…」
胸板を上下させながら呼吸を整える。ぐったりと動かなくなった少女の体は正常さを取り戻したかのように軽くなり、その華奢な体をゆっくりとベットへ横たえた。
散らばっていた聖水やら、悪魔祓いのために道具を拾い集めていく。最後に汚れていた服の埃を手で叩き落とし、ドアノブを握って戸を開けた。
ドアの向こうには、少女の両親が跪きながら佇んでいた。彼らはそれぞれ両手を頭の上に組みながら、祈るような姿勢で頭を垂れていたようだ。しかし俺が現れたのを見た途端、赤く潤んだ瞳を見開く。
「神父さま…。あ、あの子は…!あの子はどうなりましたかっ…」
切羽詰まった声で父親が尋ねてくる。
「無事祓えた。娘さんの体から悪魔を落とし、その悪魔も消え去っている。」
俺は淡々と簡潔に告げた。両親は途端に歓喜の色を浮かべて涙を溢れさせながら、少女の眠るベッドの方へ駆けていく。
――――――――――――
その屋敷での悪魔祓いを終えると、夕焼けの陽が眩しい空の下に出た。新鮮な空気を吸い込みながら、険しい目つきで車の方へ向かう。ハンカチで顔に残る汗や血痕を拭った。
さきほど負った眉尻の傷は大したものでは無く、痛みも気にならない。
不意に乾燥した木枯らしが吹き抜け、地面に落ちていた枯葉が舞い上がる。市街から離れたこの場所はほとんど山道のようで、自然に囲まれていた。
「はぁ…」
運転席の冷えきったドアノブを握った時、小さなため息が漏れた。
疲れているからか?
それともひと仕事終えたからか?
いや、それとも…。
脳裏にはあの悪魔の顔が浮かんでいる。
「煩わしいな…。」
そう呟き、車両のシートに腰掛けながら、悪魔祓いの道具が詰め込まれている黒革のスーツケースを放るように助手席へ置いた。
煙草に火をつけると、差し込んだ鍵を捻りエンジンをかける。紫煙を燻らしながら車を発信させようとバックミラーへ視線をやった時…
「っ…!?」
ビクリと肩が揺れ、咥えていた煙草を落としそうになる。バックミラーに写っていたのは、後部座席に腰掛けるあの悪魔の姿だった。途端に心臓がバクバクと早鐘を打つ。
「ライラ。ご機嫌よう。」
悪魔はいつものにやけ顔でそう言いながら、優雅に片手をヒラリと上げて見せた。
「…こんなところまで追いかけてくるな。ストーカーが…。」
唸るようになんとか言葉を紡いだ。
コイツはいつも急に現れる、俺の都合なんて気にせず、身勝手に…。
前回コイツが現れてから1週間以上経っているはずだ。
今日までのあいだ、奴はどこをほっつき歩いて居たんだろう。どうせ俺以外の人間も襲っているはずだ。
きっと俺は奴の格好の餌食。俺を掌の上で転がして、堕落していく様を楽しんでやがるんだ。
会いたかっただなんて口が裂けても言えるはずがない。問い質すなんて真似なんてできなくて、唇を強く噛む。
ミラー越しに交差し合う視線を1ミリたりとも外せないまま、悪魔を睨みつけるしかなかった。
「ドライブ、しようか。嬉しいね、ライラとデートしてるみたいだ。どこへ連れてってくれるんだろうか。」と、悪魔は笑いながら発する。首を傾げ、ふわりと揺れる白い髪を耳にかける仕草はどこか艶やかだった。
「デートだと?有り得ねぇ。早く降りろ、悪魔を乗せて走る気は無いぞ。」
ハンドルを掴む手に力が入る。
あぁそうだ。こんな奴と馴れ合ってる暇は無い。俺で暇つぶしに来たんだろう。
こっちは早朝から悪魔祓いを立て続けに行って、精神的にも肉体的にも疲弊してる。一刻も早く宿へ戻り、熱いシャワーを浴びてベッドで寝たい…
それほどに自分自身は疲れてる。
――でも。あの悪魔が数日ぶりに現れたことによって、この胸は高鳴っている…。
そんな事実が悔しかった。
「それは残念。でも、随分とお疲れのようだ。この悪魔が、癒してあげようか?」
悪魔は運転席の方へ身を乗り出し、妖しい雰囲気と独特な緊張感を孕ませながら囁く。
ゴクリと唾を飲んだ。せめてもの悪あがきで、強がらせて欲しい。
「馬鹿言うな…お前なんかと居たら癒されるどころか生気を吸い上げられそうだ。」
キッと睨みつけ、火種がフィルターの傍まで迫ってきた煙草を灰皿に押し付けた。運転席の窓から外の景色へと視線を逸らす。
背後で悪魔がフッと鼻を鳴らして笑うのが聞こえた――…
しかし次の瞬間。
「ライラ。血の匂いがするね。」
その声は俺の真横から聞こえてきた。勢いよく助手席の方を見れば、目を離した一瞬のうちに俺の隣へ移動している。
ギョッと彼を見つめた。
距離が縮まって、手が震える。
奴の白い肌や髪は夕陽に照らされ美しい橙色に染め上げられていた。キラキラと赤い瞳が輝いていて、まるで宝石のようだった。
息を飲むような横顔だ。あまりにも綺麗で…言葉を失う。
長い睫毛が瞬き、憂い気に伏せられていた深紅の眼がチラリと俺へ向けられる。
「怪我、してるの?大丈夫かい?」
その声色は優しくて、頑なに強がる意地さえも溶けだしそうになる。
最高峰の祓魔師として胸を張るには、高くプライドを築き上げ、何にも負けないという強固たる意志が必要だった。心配されることすら嫌った。
だけど本当は俺だって、辛い時もある。投げ出したい時もある。今だって全身が痛い。朝から悪魔を退治し続けて喉も枯れてる。失敗したらどうしようという、逃れられない不安と、命を預かり続ける重さに潰されそうになる。
あぁ、そんな弱みは見せられない…
悪魔は心の隙に漬け込む生き物だ。
心配される一言で喜ぶなんて、奴にとって俺はつくづく簡単でなんとも扱い易い人間だろうことか。
「…見れば分かるだろ。大した傷じゃない。」と、震える声で言い返した。
しかし悪魔はゆっくりと腕を上げ、俺の顔の方へ色白い手を近づけてくる…。
「や、やめろ…。俺に触るな…」
シートに背中を押し付け、距離を保とうとする。
逃げられない…
いや、寧ろ…
逃げるなんて毛頭考えていなかったに近い…
もっと強引に…俺を奪ってくれ…
どうしようもなく惚れているのに、エクソシストとしての最後のプライドがそれを認めたがらないだけなんだ。
「油断は禁物だよ、悪魔を相手にしているのだから。傷を付けるなんて、ライラの綺麗な顔が勿体無い。」
綺麗な顔…?
たしかにツラは悪くないと驕 っているけれど。
耳が赤くなっちまう…
コイツに褒められたら…嬉しくて…
もう動けない。迫ってくる悪魔の右手が俺の頬に触れていく。
奴の手のひらはやっぱり冷たい…。
それなのに俺の体温は下がるどころか、上昇していった。
会いたかったんだよ…。コイツを求めてた。たった、頬をそっと撫でられたくらいで、全身を巡る血が滾り、鼓動が乱れて呼吸が上がる。
「…ライラ。」
甘美な響きを持ったその低い声が、熱っぽく俺の名前を呼んでいた。奴に与えられてきた快楽の記憶が突如として呼び起こされるかのようだった。
「はぁ…っ…、はぁ……」
自分の鼓膜へ荒くなった吐息の音が届く。逃げ出すこともできないまま、胸元のロザリオをギュッと握りしめる。
「そんな顔して…本当に、可愛いね…」
悪魔はそう言って、ゆっくりと顔を近づけて来る。甘い雰囲気が漂って、思考が鈍る。
駄目だ、嘘だろ…?
キスするつもりか?
この悪魔にキスなんて今までされたことなかったのに…。
もう鼻先が触れそうなほど近い。こんなに至近距離で見ても奴の顔は俺にとって完璧だった。
「ゃ…、め……」
止めろと言う前に唇が触れそうになって、キュッと体がこわばり咄嗟に目を瞑る――
「…っ?」
唇に触れるはずの感触が訪れず、恐る恐る目を開けた。
悪魔はしたり顔でニヤニヤと笑っている…!
「お、お前っ…!」
ワナワナと震えながら顔が真っ赤になるのが分かった。
恥ずかしい、恥ずかしい…!
まるで俺の方がキスを期待してたみたいじゃねぇか。
コイツはどこまでいっても悪魔なんだ。俺をどこまでも惨めにさせていく…
「…すまないな。そう怒るな?」
そう言った後、悪魔は唇を重ねてきた。
「ンッ…!?」
不意打ちだ。やめろ…
もう頭の中が変になりそうだ…
後頭部に手を当てられ支えられながら、悪魔は次第に貪るような口付けをし始める。
「ぁ…、ん"…っ……ふ、ぅっ」
どうしよう、気持ちいい…
キスされて嬉しい…
俺の口の中を奴の舌が自在に蹂躙してる。
膝が震えて腰がヒクンと跳ねる。
何も考えられなくて…
勃起したモノを押さえ込むように、両手を股間へ押し付ける。
呼吸もままならなくなり、喘ぎ混じりの吐息だけが漏れていく――。
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