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第十二章:『メシア』

【第十二章:メシア】 1 (悪魔side) ー数日後ー 仕事からライラが帰宅したらしい。 家の外ではエンジンの音とタイヤに押しつぶされる砂利の軽い音が混じり合う。まさにライラは車を駐車しているのだろうと感じていた。 車のドアがバタンッ、と閉じられる鉄板の硬い音の後に、リビングの先へ、玄関の方へと、ライラの革靴の音が地面を踏みしめて近づいてくる。 そんな彼の気配を感じつつ、一方で俺は、ついにこの日がくるのだと、密かに打ち震えていた。 ――今日は、この俺があの愛する男、ライラを、全ての柵から救う日だ。これはなのだ。彼を苦しめる鎖から解放し、最後に残るのは愛し合うライラと俺だけになるのだ――…。 その時、ガチャ、と玄関の音がする…。 さぁ、もう少し…あと少しだ。 部屋に入った時、ライラはどんな顔をするだろうか。最初は驚いて、怒りを滲ませるかもしれない。 俺の向かいに座る女性へ微笑みながら、今この空間に居る2人が待っているのはまさにライラという男だった。 「ベルブ、帰ったぞ」 ライラの声とともに、リビングのドアが開かれる。俺は努めて自然に顔を向け、柔らかく笑った。 「おかえり、ライラ。待ってたよ…」 そんな返事を返しつつライラの視線を追う。ライラはいつものように俺を見つめた…しかし僅かな間もなく、直ぐに、俺とテーブルを挟んで向かいにいる人物を唖然として凝視した。 「お前…何故ここに…」 ライラは震える唇で呟き、あまりの衝撃だったのか、その手からスーツケースを落としてしまう。俺はチラリと向かいの人間の顔をもう一度見たあと、直ぐにライラへ視線を戻した。 ライラはすぐに口を開く。 「ベルブ…お前の仕業か…?」 ライラは…怒りとも驚きとも恐怖とも言えない、複雑な感情が入り交じって困惑した瞳を俺に向けていた。 その時、俺の向かいに座っていた人間が言葉を返す。 「アンタが呼んだんでしょ?こんな手紙寄越して。大した話じゃないなら直ぐに帰るわよ。」 向かいの人物は不機嫌そうにそう言って、ライラを睨みつけた。手にはクシャリと握りしめられた手紙がある。 「は?何の話だよ…そんな手紙…」 眉を顰め額に汗をかいたライラの言葉は、状況を全く掴めていない事がありありと感じられる。俺はその言葉をすぐさま遮った。 「悪魔祓いでお疲れのようですね、殿。奥様、私は旦那様と教皇庁の件で込み入った話がありますので、少しだけお待ちいただけますか。私はその後席を外しますから…」 そう言って、向かいの女性に微笑む。引き攣りそうになる顔の筋肉を何とか緩めて笑顔を貼り付けながら、すぐに立ち上がった。 すると向かいの彼女は、途端に不機嫌そうな表情を消していき、すっかり俺に気を許したように微笑む。待つことを了承する素振りを見せた。 「お、おい…!ベルブ…!」と、ライラは、苛立ち混じりの声を上げる。俺は問答無用にライラの腕を掴み、無理矢理2階の階段の方へ引っ張っていった。 ーーーーーー二日前ーーーーーー 「…私の住民票、本籍が載った書類の発行をお願いできますか。妻の情報が乗っているものが必要です。」 「承知しました、ライラ様。身分証明書を。」 コートの中から革のカードケースを取り出した。中身は何も入っていなかった。市役所の職員にはこの手元を隠しながら、魔力で現れた硬質のカードを手に取る。 「こちらです。」 職員へ身分証明書を渡した。職員は身分証に載せられた顔写真と、俺の顔を照らし合わせるように見つめたあと、直ぐに微笑んだ。 「ありがとうございます。少々お待ちください、ライラ様。お調べして参りますね。」 女性の職員はそこまで言うと振り返り、受付の奥にあったパソコンの1台を触り始めた。書類を待つ間、椅子に腰掛ける。 暫くすると、「お待たせいたしました。こちらです。」と、書類を持ってその職員が戻ってくる。 「ありがとう」 微笑みながら、返却された身分証明書と共に数枚が重なった紙の束を受け取った。身分証明書をカードケースへ戻すフリをした。手の中でその証明書は既に消えている。 書類を封筒に入れると、コートを翻し、ライラの家へと帰宅した。 既に見慣れ始めていた彼の家に着くと、時刻は夕方になっていた。ドアを開け、勝手を知ったようにその中へ入る。 「ふぅ…」 玄関を潜ると、体を漆黒の闇が覆う。一瞬でライラの姿から元の姿に戻り、長い髪を片手で掻き上げた。 今日一日、俺がライラに化けていたと本人が知ったら、怒るだろうか?あぁ、もちろん怒るだろうな…。 自嘲気味に唇を歪ませながら、あの日燃やした写真をポケットから取り出した。真っ黒に焦げ付いた人物の隣で笑う、若い頃のライラを、指でそっと撫でる。 市役所で受け取った封筒は適当な場所に隠した。帰りがけに買って帰った便箋を取り出し、手紙を綴っていく。 "会って話したいことがある" そんな風に文字を綴っていく。 「…分かるまい。」 ボソリと呟いた、他人の筆跡を真似るのは容易いが、特にライラの筆跡は特徴的だ…。 しかし、ペンを握る俺の手は震えていた。 「あぁ…」 手元が狂う。最後の文字は強く当て過ぎたペン先が、紙を小さく破ってしまった。怒りか?嫉妬か?独占欲か? 分からない…。 なんだっていい。 あの女を呼び寄せて…ライラと決着をつけさせるのだ。この後は、先程受け取った書類に載っている相手の女の情報を元に、手紙を投函すればいいだけだ。 きっとあの女はこの家に来るはず…。 あの女との関係はライラを苦しめているんだ。仮初の夫婦関係に縛られる必要などないだろう…? さらには、夫婦関係に決着がつけば、ライラを苦しめる悪魔祓いの仕事にさえ、彼は従事し続ける必要も無くなるのだ。なぜなら、この国では神父の離婚は許されない。聖職を剥奪され、エクソシストとしても活動を認められなくなる。 ライラは、妻のことや悪魔祓いのことで心身ともに傷ついて、痛みを抱え、苦悩している。さらには、エクソシストという仕事を続けているがために、魔界からの厄介な悪魔たちに狙われ、命を危険に晒している。きっと彼のことだ、エクソシストであり、既婚者でありながら、俺との関係に歯止めが効かないことも気に負っているだろう。 そうだ、これは俺の欲望のためじゃない…。 「ライラを救うためだ…」 ポツリと呟いた。自分に言い聞かせるかのようだった。 これは俺なりの救済だ。俺は正しい…。そしてライラは、全ての柵から解放され…最後は俺とともに有り続ける。 ライラ。多少の痛みは伴うだろうが、この救済でお前は救われる…。全ては俺のためではない、ライラのため――… あまりの筆圧のせいで破けてしまった紙は、鋭いペン先に絡みついていた。黒いインクが染みていき、まるで濡れぼそった漆黒の烏のようだった。 指先を汚しながら、その黒い塊をペン先から取り除く。 そうして新しい紙を取り出すと、新たに文字を綴り始めた。 「ライラ…愛してる…」 俺は間違っていないんだ、正しい。 そして、ライラは俺を選ぶのだ。 ライラはきっと、俺を選んでくれる… でももし――、ライラが俺を選べなかったら…? 不意に、白い便箋に雫がポタリと落ちて、まだ乾ききっていなかったインクがフワリと滲む。 「ありえない…俺がお前を救うんだ…」

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