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「ちょっと!大丈夫なの?」
ドタドタと階段を上がってくる音がして、俺は慌ててぐちゃぐちゃに濡れていた顔を服で拭った。急いで服を正し、ベルブとの行為の跡を隠すようにドアを室内から押さえる。
「…大丈夫だ。今日は帰ってくれ…」
震える声を押さえながら告げる。
「はぁ?アンタが呼び出したんでしょ…!?ねぇ、話ってなんなのよ…!」
「っ…少し黙ってくれ…。今は…話せない…。今度連絡するから…。お願いだ…帰ってくれ……」
「…そう。やっと離婚の話かと思ったのよ。その話じゃないなら呼ばないで。わざわざ来たのに…!」
妻は吐き捨てるようにドアの向こうでそう言うと、荒々しく階段を降りる音を大きく響かせる。憤りを込めたように玄関のドアを乱暴に閉める音が聞こえ、俺に静寂が訪れた。
「…」
1人残された部屋でドアに背を凭れながら、再び両足からズルズルと力が抜けていく。力無く座り込み、項垂れた。
額を押さえながら、気がつけばまた涙が溢れてくる。
「ベルブ…戻ってきてくれ…。話がしたい…もう一度…」
あぁ…。妻や聖職など、捨ててしまえばよかったのか?ベルブだけは、失ってはいけなかったはずだ。
妻には苦労を掛けた、結婚したときは愛を誓った、俺の仕事のせいで彼女を縛り付けている。そんな多少の情はある…。エクソシストという仕事には使命を感じ、プライドを持っている。長い間この仕事に従事してきて、悪魔から人々を守ることができる最後の砦だと胸を張っていた。
しかし、そんな感情たちでさえもベルブを渇望する気持ちによって掻き消された。ベルブの愛がその全てを俺に忘れさせる。
吸い込まれるようなあの赤い瞳に見つめられて、もう一度愛を囁かれたい、この体に触れて欲しいという願いが込み上げ、俺の理性を溶かしていった。
それからどれだけ時間が経ったのか分からなかった――。
頬に乾いた涙を感じながら、朝日を瞼に感じて、目を開ける。
泣き疲れて寝てしまったらしい…
「…はぁ」
ため息しか出てこずに、ノロノロと泥のように動きながら起き上がる。
日差しが差し込むその部屋で、ふと視線を上げた先、フローリングの上に何かが落ちているのを見つけた。昨日は暗くて気づかなかった、そもそも周りを見てられるような状況でも無かった。
フラフラと歩いて、その場にしゃがみ、落ちいていた数枚の紙を覗き見た。
「これは…」
それは古い写真だった。俺と、妻が写っていたはずの写真だ。俺の隣に写っていたはずの妻の姿が、黒く焦がされている。
こんなこと…ベルブがやったのか…?
ズキッとした胸の痛みと共に、驚きが過ぎていく。
ベルブはこんなものを見つけて、妻に嫉妬でもしていたのだろうか。愛しているのはベルブだけだと告げたのに、彼女と俺の間に繋がれた結婚という鎖を疎ましく思ったのだろうか。
これは、俺が妻と向き合わず、ベルブともちゃんと話もしていなかったせいだ。ベルブが俺に対して異様に執着を寄せていたことに気付いていた。
だけど俺はそれを深刻には受け止めず、ただ、俺だけを愛してくれているからだと、単純に喜んでいた。どこか悪魔の愛を信じられない俺にとって、その執着心は、ベルブの愛が真実だということを証明する1つの手段でしか無かった。
俺の頭はとんだお花畑だな…
あの悪魔の愛は、最後まで、不器用だが、本物だったというわけだ。狂おしい恋には、人間も、悪魔も、関係ないのかもしれない。
"お前の全てが欲しい"
ベルブの言っていた言葉は、そういう意味だったのか?
悪魔のくせに、人間や法律が取り決めた婚姻という関係を妬ましく思っていた?
焦げた写真の他には便箋が落ちていた。俺はそれを拾い上げ、ゆっくりと開く。
まさか、ベルブの手紙か…?
「っ…」
中身を見た途端に、俺は再び、昨日で枯れたと思っていた涙が、瞳に溜まっていくのを感じた。
『ライラ、愛してる。』
その一行が、今の俺の胸をどんなに苦しめたのか、計り知れない。その文字は、その文字を認めた時に落ちたらしい、小さな水滴の跡が乾き、僅かに滲んでいた。
愛してるという言葉の重みを感じながら、呟いた。
「俺だって愛してる…。お前を選ぶべきだった…。お前の望みを叶えてやるべきだった……」
息を詰まらせ泣き喚きながら、情けなく呟く。
思い返せば、あのときベルブはこう言っていた。エクソシストを辞めれば俺が傷付くことも無くなる、と。
あの悪魔は常に俺を守ろうとしてくれていた。俺が怪我をすれば心配してくれたし、俺の体調をいつも気遣っていた。
これから俺はまた独りで、痛みや苦しみを隠しながらプライドで自分を塗り固め、必死に強がって生きていくのだ。押しつぶされそうになる様々な重圧に耐え、怪我の痛みにも気付かぬフリをして、孤高を装う。ベルブに出会う前の地獄のような日々に戻るんだ。
暫くのあいだ泣き過ぎたせいで熱く腫れた瞼は、上手く開かないような感覚になっている。憔悴しきった表情で手紙を握りしめた。大切にポケットにしまって、部屋のドアを開ける。
階段をトボトボと降りていった。
手すりを掴む手にさえ力が入らずに、階段を1歩1歩降りる度、膝から崩れ落ちそうになってよろめいた。
リビングについて、ゆっくりと顔を上げる。
穏やかな朝日だけが差し込むリビングは、あまりに寂しくて、この胸を締め付けた。
テーブルの上には、妻が残していったらしい、例の手紙が残されていた。恐らく妻の元に届いたという手紙だ。
「…」
テーブルに体重を預けるように手をついて、震える指で、乾いたその便箋を掴む。
『会って話したいことがある』
それだけ綴られた手紙は、俺の筆跡に確かに似ていた。きっと、ベルブが工作したんだろう…。この手紙を、妻の元へどうにかして、届けたんだ。
こんなことまでして…。
そんな思いが胸を掠めたとき、また堰き止めていたものが決壊するように、視界が潤んでいく。
俺によく似せられている筆跡のその最後は、小さく破けていた。きっとそれは、あまりに強い筆圧のせいでこうして破けてしまったのだ。
ベルブはどんな想いで…この手紙を書いたのか。
ズルズルと溢れ出した鼻を啜ったとき、僅かに鼻を擽ったのは、リビングの木の香りと、柔らかな乳製品のような匂いだった。
ふと、キッチンに向かう。
用意されていた鍋が目に入り、蓋を開けた。
中には美味しそうなシチューが入っていた。
「…ベルブ…っ…」
アイツが作ってくれてたんだ。あんな、悪魔のくせに。俺なんかのために夕食なんていつも作ってくれて…
耐えきれない涙で視界が霞んで、鍋やシチューが見えなくなる。
「戻ってきてくれよ…。お前を選ぶから…何もかも捨てるから…」
掠れた声で絞り出したその言葉は誰にも届かなくて、再びキッチンの前で膝をついた。
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