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第十三章:『再会』
【第十三章:再会】
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(ライラside)
あの悪魔が居なくなってからというものの、俺のクソみたいな日々は続いていた。それはアイツに出会う前の最低な生活とあまり変わらず、寧ろもっと酷いものだった。酒と煙草に溺れ、憔悴しきった顔で悪魔祓いに向かう。妻とはあれきりで、何も話していないし顔も合わせていない。
だが、教皇庁はあまりにやつれている俺を見て、休暇を与えると言い出した。
俺はそれを断った。
自宅に居ても酒を飲んで憂鬱と過ごすだけだった。それならいっそ、悪魔祓いで命を削った方がマシだと思ったからだった。
それに悪魔祓いへ向かえば、いつか…あの悪魔に再会できるかもしれない、何か少しでも情報を掴めるかもしれない、そんな淡い期待もあった。
「…どうしてこうも下級の悪魔ばっかりなんだ」
他のエクソシストにとっては脅威かもしれないが、俺にとっては倒されるのも癪に障るような貧弱な悪魔ばかりだった。悪魔祓いに行くのも怠くなる。少し前のように手強い高位の悪魔が現れたなら、今の俺をあっという間に地獄に連れてってくれるだろう。
「ライラ神父。少しお休みになられては…」
俺の事を気にかける司祭はそう言うが、俺は自分を休めたくなかった。まるで一刻も早く、この苦しい日々から逃れられてしまう方法を探すかのように、悪魔を祓い続けていた。
家に帰れば酒と煙草だけが全てを忘れさせてくれた。そして、ベルブの影を探して何度も街を彷徨した。
教皇庁で早朝のミサを受けている時にぶっ倒れた時は、俺をこの絶望から救い出してくれる助けが来てくれたのだとさえ思った。
最期の時、せめて魂くらいはあの悪魔に奪われてしまいたい、そんな気持ちだった。
『ライラ神父…!』
そんな声が後ろから聞こえるのを遠くに聞きながら、あの日俺は気を失った。
ーーーーーーーーー
殺風景だが見慣れた寝室で、俺は目を覚ます。小さな古びた木枠の窓には、穏やかな午後の日差しがただ静かにゆっくりと差し込んでいた。
「家か…」
ミサの最中に気を失って倒れたはず…
誰かがここまで運んできてくれたのだろうか…。
重い鉛を乗せたように頭はズキズキして、思考はモヤが掛かったように曖昧だった。グルグルと気持ち悪い胃の中へ酸っぱい唾を飲み込んで、煙草を探そうと起き上がる。
フラついた足取りで寝室から出ると、壁に腕をつき、冷たく薄暗い廊下を通り抜けていく。
「あぁ…最悪の気分だな…」
そう呟きながらリビングのドアノブを握りしめた。冷えきった硬い鉄の温度を感じながらドアを押し込む。
その時、目の前の光景に、俺は唖然とした。
「ライラ。起きた?」
そんな一言を呟く背中に、俺は息を飲む。
彼の白く美しい長い髪を日光が神々しく照らし、筋肉質な体に黒いワイシャツを纏った、あの懐かしい姿が確かにそこに居た。
ベルブは背を向けたまま、リビングのテーブルの前にある椅子に腰かけている。テーブルにはチェス盤が広げられており、 コツ、と駒が板に置かれる硬質な音が響いた。
「はぁ…っ…ベルブ…」
その姿を目の当たりにした途端に、ぶわっと涙が溢れ出してきて、一気に呼吸が浅くなる。
あの悪魔が戻ってきてくれた。俺のところに…。
静かにチェス盤に触れる彼の姿は、俺の仕事の帰りを待っているあの日々の中の記憶のままだった。
震える脚で彼の背中へと歩き出し、縋るように左手を伸ばす。どこにもぶつけられずに抑え込んでいた感情がどっと堰を切った。
「ベルブ…。俺なんかの所に来てくれたのか…?ずっとお前を探してたんだよ…。俺…何もかも捨てるから…。お前のものになるから…っ!」
涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を向けながら、情けない涙声で必死に呼びかける。
「…ライラ」
シルクのように美しい髪の束が揺れて、ベルブはゆっくりと振り返った。白磁のように滑らかな肌が日光に照らされ、整った顔立ちが妖艶に微笑む。燃えるような鮮血色の瞳がキラキラと輝き、俺だけを見つめ返してくれた。
そうだ、その目だ。コイツのその瞳に映されたかった…
甘い記憶が喚び起こされるようだった。この悪魔に愛されたい…
その低い声で好きだと囁かれて、何もかもを捧げたい。こんな俺をもう一度愛して欲しい…
「ベルブ……。好きだ…。愛してる…。お前が居なきゃ俺は何もできないんだ……。俺のこと…、離さないって言ってくれ……お願いだ……。」
グズグズと鼻を鳴らして涙を零しながら、ベルブの前でこの体は崩れ落ち、泣き付くように彼を見上げた。
「…ライラ。君は俺を捨てたんだ」
「っ…」
ベルブのそんな一言で、ハッと瞳を見開く。体がガタガタと震えて、必死に首を横に振る。
「違うっ…!お前を選ぶから…!」
焦燥感に駆られてベルブの手を直ぐさま握る。
「っ!?」
掴んだベルブの手に何かがヌルリと絡みついた。ギョッとして手元を見れば彼の手は赤黒いタールのような血痕に塗れている。
驚きながら顔を上げると、ベルブの姿はあの時の悪魔の姿になっていた。頭からニョキっと黒い角が剥き出しになり、大きな黒い翼を背中に携え、尖った犬歯がその下唇に触れている。
パチパチという何かが燃える音がして、ベルブの背後を見れば、リビングの奥のキッチンから大きな炎が上がっていた。それはまるで生き物のように蠢いてあっという間に壁や床を飲み込んで迫ってくる。
焦げ臭い匂いとともに熱風が吹き荒れて、息ができない。喘ぐように口を開けて、汗まみれの体に白いワイシャツが張り付いた。
ドンドンドン!と、背後の玄関を叩く音がする。
「っ…」
ゴウゴウと燃え上がる炎の奥で、聞きなれた叫び声が幾重にも重なって耳に届く。
「ライラ!」
「ライラ神父!」
玄関のドアがた叩き付けられて軋む音ともに響くその声は妻や枢機卿の声だった。
「ベルブ…っ…逃げよう!?」
血にまみれた彼の手を必死に引っ張る。
「…逃げる…?ここに残るのは…君だけだよ…。」
「はっ、…何言って…」
その時、無数の虫が飛び回るようなあの羽音が聞こえる…あぁ、この音は…
まさか、ベルブ…俺を置いていくのか…?
胸を締め付けられるような想いで、ベルブを縋るように見つめる。
「俺を祓っておくべきだったね、神父様。悪魔を裏切った罰だ…」
そう告げたベルブの姿は熱風に絡み取られ、黒い霧となって消えていく。
「ベルブ…!ベルブっ…!」
焼け付くような喉の痛みを感じながら叫ぶ。その声は何度も虚しく繰り返された。しかしその俺の声さえも、地獄の業火のような炎に掻き消されていった。
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