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4 ジメジメとしている路地裏にはカビ臭さと埃っぽさが漂い、周囲のビルから排気された熱気と共に煙草やアルコール、香水の臭いなど、様々な空気が入り交じって酷く淀んでいた。 雑居ビルから伸びた管からは濁った水滴が垂れ、地下に面したナイトクラブからは僅かな音漏れが聞こえる。 「ふぅ…落ち着け…。」 昂る気持ちを抑えるように吐息混じりに小さく呟く。 息を潜めながら、その不気味な路地裏に足を踏み入れた。薄汚れたビルの窓から中の明かりが僅かに漏れている。差し込んでくる月明かりとともに心許なくその暗い路地は照らされ、仄暗い空間が奥へ奥へと続いている。 呼吸が浅くなって、冷や汗が背中を落ちていく。 路地裏の悪魔め、どこに居る…? 必ず見つけだして、俺の祈りに屈したところで、ベルブの情報を聞き出すんだ。アイツは過去の悪魔とのやり取りを見るに、どうやら悪魔の中では顔が広い。ベルブのことを知らない悪魔は居なかった。きっとここに居る悪魔もベルブを知っているはずだ。 ジリジリと足音を立てずに、慎重に奥へと進む。 もしかしたらこの路地に出てくる悪魔と鉢合わせるかもしれない。 どんな悪魔なのだろうか…。おどろおどろしい見た目をしていても、一歩も引くわけにはいかない。 どんな手段を使っても…ベルブに繋がる何かを見つけられる好機を逃すわけにはいかない…! 「はぁ…っ…」 胸板を上下させながら漏れていく荒い呼吸を抑えようとした。震える唇を舐めて湿らす。 その時――…。 「っ…!?」 息を飲み手で口を塞ぐ。 話し声だ…。 よく聞こえない…。 この路地を曲がった先…? 神経を研ぎ澄ます… 異常なほどに聴覚が敏感になり、その方向を捉えようとしていた。 そうだ、右から聞こえる…。 ビルの濡れて汚れた壁に体を寄せながら、ゆっくりと覗き込もうとする。 なぜだ?悪魔か? クラブハウスは監視してたはずなのに… 路地裏にどうやって入ってきた? 何も見えなかったぞ…! ――あ、あれ…? 「は……」 俺は、ふと、思い出す。 そんなワードが俺に衝撃を与え、その言葉を反芻しながら愕然とする。 "見えなくするから…" 何度か聞いた、そんなベルブの言葉が、脳裏を過ぎった。 まさか――…。 ――そうだ、そうだった。 姿を消すのは、アイツの常套手段だ。自分と、俺のことを、他人から見えないようにできる、そんな能力があった…。 「はぁ…っ…、はぁっ……」 呼吸が一気に乱れて、体が震えた。 ベルブが人々を貶めているのか…? アイツが…? 路地裏の先を覗き込もうとすると、なにか底知れない恐怖と胸の痛みが押し寄せてくるようだった。 アイツに会えるかもしれないというのに… 「俺のせいなのか…?」 そんな言葉をつぶやく。 首から下げたロザリオが指に食い込むほど握りしめる。自分の予想が外れることを、自分の神に願ってしまう。 会いたいのに、ここで会いたくない…。嬉しいのに、苦しすぎた。 俺は、震える膝で一歩踏み出す。 「あぁ…」 小さく声が漏れた。 薄暗い路地で、壁に向かって大きな黒い羽が広がっている。背中やその翼の上へ白く長い髪が流れ落ちていた。 漆黒の翼が覆いかぶさるようにしながら壁へ押し付けた何かを隠している。しかし、その翼の奥には恍惚を浮かべた見知らぬ男の顔が見えた。口をだらしなく開け、濡れた唇は震えていて、俺とソイツの視線が鉢合わせた瞬間… 見知らぬ男はさらに目を細めて愉悦を浮かべた。 白く美しい髪の後頭部は男の首筋に埋まり、何かを囁くように顔を寄せていた。 「ベルブ…」 自然と喉から出た声は掠れていて、力ない呟きだった。 その途端、黒い羽はピクっと僅かに跳ね、彼はゆっくりと顔をこちらに向けた。真っ赤な瞳が暗い路地の中で異様な程に明るく見えて、真っ赤に燃え盛るような眼差しだった。 白い陶器のような肌を見せながら、顔をこちらに傾けたベルブは薄らと妖しく笑う。 「…あぁ…神父様。見つかっちゃったね…。」 赤い唇が妖艶に動き、低く柔らかな声がそう呟く。唇の端が吊り上がり、白く長い牙がニョキリと顔を覗かせる。 「…なに…っ…してる……?」 ハァハァと呼吸が荒くなって、途切れ途切れに尋ねた。 その男は誰だ?こんな場所で…お前はなにをしてるんだ。 「…人を…堕落させてる…」 ベルブはそう言うと、クククと喉を鳴らして不気味に笑う。恐ろしい姿なのに、圧倒的な美しさに目を奪われ、喉が乾いていくような感覚だった。体が熱くなって、膝が震える。 そんな男は打ち捨てて、今すぐ俺を求めて欲しい…。 すべてお前に捧げるから、俺だけを見て欲しいのに…。 「…その男を放せ…」 片手で胸元のロザリオを握りしめながら、震える左腕をベルブの方へ伸ばした。 吸い寄せられるようにフラフラと脚を数歩踏み出す。 「…もう少しで魂を奪えるところなのに。邪魔をしないでほしいな」 そう言ったベルブは冷たく蔑むような瞳を俺に向けた。 そんな態度を取られて悔しくて悲しいのに、こんな状況を招いたのは自分のせいで、自分が悪いということが分かっているから、もっと辛くなる。 鋭く冷酷な眼差しに当てられていて、そこにかつてのような愛情を感じる温かみは無いのに、ゾクリと背筋が震えて、熱っぽく吐息が漏れた。 「ベルブ…全部お前にやる…。俺の全て…お前に奪われていいから…。他の奴に手を出すなよ…!」 堰き止めていた想いが決壊するように弾けて、涙を浮かべながら叫ぶ。 「…俺を裏切った…。お前は俺を選べなかった…。」 ベルブは低い声で呟き、その背中の羽根の1枚1枚が憎悪で震え上がるように逆立つ。月明かりが妖しく照らすそのシルエットは、人間ではない姿をまざまざと感じさせるのに、身惚れずには居られない。 恐ろしくて、美しくて、目を見開く。体の力が抜け、握っていたロザリオが掌からこぼれ落ちた。 あぁ、やっぱり、俺はベルブに見捨てられてしまうのか? もう好きだって言ってくれないのか…? 嫌だ、嫌だ…! ガクガクと震えながら弱々しく膝から崩れ落ちる。湿ってザラついたタイルの上で開いていた手を握りしめ、拳を握りしめた。汚れた地面に爪の後が残っていく。 ポタポタと涙が落ちて、見つめているタイルに雫が広がる。 「ベルブ…お願いだ…。俺が悪かったから…。戻ってきてくれ…。お前無しじゃ…生きられない…」 背を丸めながら振り絞るような声で懇願した。 顔を上げられなくて、溜めきれない涙だけが目線の先に落ちていく――…。 しかし次の瞬間、ドサリ、と重い何かが地面に落ちる音がした。 俺は反射的に顔を上げる。 力無く地面に倒れているのは、壁に押付けられていたあの見知らぬ男だった。気を失ったのか、目を閉じて肢体を硬いタイルに預けている。 助けなければという使命感さえ屑になって散り、ベルブに全てを囚われていた。 すぐさまハッと顔を更に上げて、ベルブの方を見上げる。ぐちゃぐちゃの顔で、恥ずかしくて顔を真っ赤にさせながら…でも、抗えない――…。 「…ベルブ…っ」 喉を潰されたような声で、必死に奴の名前を紡いだ。 先程まで獲物にしていた男を手放したベルブは、大きな翼を闇夜に妖しく広げながら、情けなく膝を付いて泣いている俺を見下ろしていた。 「…俺は、になったんだ。さぁ…祓ってくれ…」 ベルブはどこか物憂げに呟いて、切なく甘美な微笑を浮かべた。 俺は、咄嗟に首を横に激しく振る。 「嫌だ…。俺にお前は祓えない…。どうか、俺のそばに居てくれよ…」 苦しみながら喘ぐようにそう言うと、ベルブは困ったように微笑んだ。そして再び凍てつくように冷酷な視線を俺に向けながら、妖艶で美しく、威圧的な雰囲気を纏いながら一歩踏み出す。 ベルブが近づいてくるほどに、甘い期待と激しい劣情が煽られ、同時にゾクリと恐怖した。 白い手が伸びて、ゆっくりと俺の左頬に触れる。 冷たい体温はあの頃と変わらず、肌が触れ合えた喜びで体が打ち震える。ベルブに赦しを乞うように彼を見上げ、瞳を潤ませた。 ベルブはそんな俺を見て、クスッと肩を竦めて笑う。 「…神父様。俺は悪魔だよ。強欲で…、嫉妬深くて…、全て手に入れられないと気が済まない…良い子になんてなれない。」 ベルブはそう言い切って、その手を離そうとするする――…。 直ぐに俺は、離れていくベルブの手を自分の左手で握りしめて引き留めた。滑らかな手のひらに自分の頬を擦り付け、ベルブの真っ赤な瞳を熱っぽく見つめ続けた。 「それでいい…。悪魔だろうがなんだろうが関係ない…。全部やるよ…。お前の望むもの、全て叶える…」 揺るがない決心を込めて伝える。 もう、決めたんだ。 なんでもしてやる、コイツのために。 ベルブの瞳は僅かに揺れたあと、伏せるように逸らされた。俺はどうしようもない焦燥感に駆られてベルブの手を強く握りしめる。 「なんだよ…。俺を見ろ…。俺だけ見てろよ…。好きだって言ってるだろ…。お前無しじゃ…俺は壊れちまう…」 再びグズグズと泣きながら呟く。胸が苦しい。 こんなの俺らしくない…。プライドで塗り固めて、強がって、何を犠牲にしても自分を貫いてきたのに。自分の弱みを見せられるのはコイツだけだ。 「…傷付けたくないし、苦しめたくない。そう思ってたのに、全部欲しくなった。俺だけのものにしたくて、我慢できなかった。俺が俺じゃなくなるみたいだった…。でも、信じていいの…?俺は…そばに居て良いのかな…?」 そう言ったベルブが辛そうに表情を歪めるから…。俺は下唇を痛いほどに噛み締めながら思わず立ち上がって、咄嗟にベルブを強く抱き締めた。力無く羽は下へ垂れて、回した腕の中で広く筋肉質な背中が小さく震えていた。 「…当たり前だ。お前さえ居れば良い…。お前が居ないと、俺は何も出来なくなっちまった…。まともな生活さえ送れないんだぞ…。最期まで責任取ってくれ…」 俺の肩に頭を預けたベルブの耳元に、言い聞かせるようにそう告げる。 「…あぁ。責任取るよ。飽きるくらいにそばに居たい。ライラ…」 ベルブの言葉で、静かな安堵と共に甘い幸福感が胸の奥から広がっていくのを感じた。 名前をやっと呼んでくれたことも嬉しくて、ギュッと更に腕に力を込める。 「…また家の中、汚くなってるけど…。俺の家に帰ろう?ベルブ…」 そう伝えると、ベルブはゆっくりと俺の体にその長い腕を回して抱き締め返してくれた。 「…ふふ、また汚してるのかい?全く…俺がいないと駄目だね、ライラ。」 いつものようなトーンでベルブが揶揄うように話すから、俺は耳を赤くしてベルブの首に顔を埋める。 「…うるせぇ。誰のせいだと思ってやがる…」 そんな言葉を交わして抱きしめあったまま、僅かに体を離す。潤んだ瞳を見つめると、その赤い瞳には俺の姿だけが映っていた。ベルブはクスクスと笑いながら、俺の頬を指で拭った。 「泣きすぎ。可愛いね…」 「っ…やめろ…。…でも、……嬉しい…。」

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