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第十四章:『堕落と救済』

【第十四章:堕落と救済】 1 (悪魔side) ーーーーー数週間前ーーーーー 「…全て俺のものになる。お前の肉体も魂も、その全てを俺が支配しよう」 そんな風に耳元で囁くと、淡い月明かりに照らされた短い髪が震え、俺の腕の中でその体が熱を持つのが分かる。 短い髪に指を通して優しく梳いた。どこか遠くなった記憶と重ねるように… 逞しい筋肉で覆われた互いの素肌同士が触れ合うと、まるであの男を抱き締めているかのような感覚だった。 「あぁ…そうしてほしい…僕はどうすれば…」 震える声と共に熱を持った指が、俺の指へと組み合うように絡み付いてくる。 違う声だ。アイツじゃない…。 「簡単だ…。契約を交わす…名前を此処に…」 耳元で囁き、煙草の香りが染み付いた短い髪に鼻先を埋める。かざした俺の右手にどこからとも無く現れた紙切れとペンを、男は何の疑いも持たずに受け取る。 「此処に名前を書けば…君のモノになれるのか…?」 そう言って振り返った男の顔を見て、さらにその現実をまざまざと突きつけられる。 この男は、ライラじゃない…。 「…そうだ。早く名前を書け…」 「どうしたんだ、怖いよ…。すぐに書くから…」 慌ててペンを走らせる男の手元を見つめながら、そのたった数秒がとても長く感じるかのようだった。 「契約は成立したぞ…」 呟くと、男の体は精気を失ったように崩れ落ちてその肢体が投げ出される。 あぁ、まただ…。 俺は…何をしているんだろう…? 自分の中で膨らみ、煮え滾るような黒い感情を抑えきれない。最初は衝動的に人を襲った。1人、また1人と、支配していくほど。俺の中には虚しさばかりが募った。 こんな俺をライラが見たらなんと言うだろうか。 いや…、もう関係のないことだ。 ライラは俺を選ばなかったのだから。 そうだ。きっと俺は、こうして人間を貶める存在でしかないのだ。こんな悪魔をライラが選ぶわけがない。あんな手段を使って、ライラを脅すようにして、俺を選ばせようとした。彼の弱みに漬け込むようにして、俺が全てなんだと知らしめようとした。 悪魔の、狡猾な手段だ。 我慢できなかった。奴の全てが欲しくて、抑えるなどできなくなった。この体の血と肉、魂、そして思考も、感情も、全て…ライラとは違う、俺は醜い悪魔だ。 「…ライラ」 苦しい… どうして俺じゃダメなんだ… 考えるほどおかしくなりそうだ。 「次の…獲物を…」 震える声で呟いて、俺は再び夜の街へ飛び出した。 そうだ、俺は悪魔だから。ライラとは生きる世界も違う。こんな俺をライラが選ぶはずなどなかった、最初から。これが俺の本来の姿だ…。 魔術でも何でも使って、残酷に、甘美に、人間を堕落させていく。どんな手段も厭わない…彼らが壊れてしまうことも気にしなかった。強引に奪い取って、俺のものにして、支配する。 この全身に流れる血潮が歓喜し、本能的な衝動が満たされる感覚を覚え、恍惚を浮かべる。 しかし同時に、今の俺を、記憶の中のライラが苦しめる。俺はライラが目の敵にする野蛮な悪魔と同じ存在に堕ちてしまったのだ。 「さぁ、契約しよう…俺に全て捧げると誓え…」 獲物の体を抱き抱えながら、その肌を撫であげる。悪魔として人間を堕とし、支配する悦びで全身が震えるほどに満たされているのに、息ができないほどに苦しい。 助けてくれ… 早く俺を見つけて…祓ってくれ… ーーーーーーーーーーーー その数日後。 その日は、朝から激しい雨音が止まない鬱陶しい天気だった。 俺は適当に降り立った建物の屋上で雨に打たれながら、血走った瞳で街のあらゆる方向を見下ろす。 殺気だ。明確に感じる。 「…狙われてる」 そう、狙われているのだ。その殺意が向けられているのは、俺ではない… ライラ… ライラがまた、狙われている…。 異常なほどに研ぎ澄まされた感覚が、蜘蛛の糸のように張り巡らされ… その殺意の源がどこからともなく、まるで、つい先程、忽然とこの人間界に現れたかのように、地上に這い上がってきたことか分かる。 「親父の差し金か…」 ポツリと呟く。冷たい雨で全身はぐっしょりと濡れていた。 魔界から現れた悪魔は、どこかで憑依する人間の器を見つけ出し、悪魔憑きとなった人間を餌にしてエクソシストをおびき出すつもりだろう。そして最終的にはライラの足がその悪魔の元へ赴くようにさせているのだ。 …そんなことを俺が許すとでも? 殺意を感じる場所へすぐさま姿を表した。乗り移ったばかりの人間の体から、悪魔を引き摺り出す。 「ベルブ…!貴様、何のつもりだ…!」 赤黒い液体に塗れた獣のような姿を問答無用に引き裂いた。高位の悪魔だ、簡単に倒されるような相手では無かった。反撃を食らっても、己の痛みなど忘れるほどに息つく暇もなく相手を引き裂く。 その魂を、ライラへの明確な殺意ごと握り潰した。 「はぁ……はぁ……」 手の中にこびり付いていた肉片が水気を失い、乾ききった灰のようにザラついて、そのまま消えていく。 心臓が強く鼓動を刻み、まるで俺の存在を肯定しているかのような胸の熱さが奥底から広がった。 "ライラのため…" 触れられなくても、いつか忘れられていく存在だとしても、この血に塗れた穢れた手は、まだ何か彼のためにできることがある。 祈りよりも、神よりも、何よりも早く、確実に。悪魔という存在からであれば、この悪魔の俺が、彼を護ることができるのだ。 どれだけ離れようと、他の悪魔に魂を奪われることだけは…絶対に許さない。 壊れて抑えきれない本能的な衝動を周囲にぶつける日々のなかで、唯一、擦り切れそうな理性が薄く膜を張り…。それはライラへ向けられる殺意にだけ機敏に働いた。 人間を堕落させ、その合間で、魔界からやってくる高位の悪魔を破壊する。そんな時間を繰り返しながら、俺は底が無いほどに深く暗い闇に落ちて、踠き、抗えず… ライラの面影だけを追っては、諦めて、整理できない感情を持て余し、また人間を襲い続けるのだった。

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