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第十六章:『大罪』
【第十六章:大罪】
(ライラside)
第一関門は難なく静かに通過される最中だった、俺の人生に1つ目の大きな転機が起ころうとしている。
「...これで最後ね」
そう告げた彼女は、いつになく穏やかな声だった。乾いた薄い紙になんの躊躇いもなくサインを書くと、どこか柔らかな表情で微笑んだ。
「…エクソシストも、辞めるのね」
彼女は落ち着いた声色でポツリと呟く。
「あぁ、もう辞める…」
「…そう。いい判断だと思うわ…」
彼女はそう言って、手元にあったその紙を俺へと静かに差し出した。
彼女のその言葉に、俺は驚いたようにその顔を見つめ返す。
妻は、俺にエクソシストを続けて欲しいと考えているのかと俺は思っていた。だからこそ、離婚を望んではいたものの、あまりに無理な要求な仕方はせず、共に生活はしないものの、甘んじて俺の立場を受け入れてくれているのかと思っていた。
「…そう…思うのか…?」
単純に浮かんだ疑問を尋ねると、彼女はその視線を逸らして宙を見つめ、困ったように少し笑う。
「…辛そうだった。苦しんでるのも分かってた。そんな仕事は辞めて、私との時間を作って欲しいと何度も思ったわ…」
そんな言葉を聞いて、昔の自分を思い出す。確かに、神父になってエクソシストを始めたのは、結婚した後からの事だった。
結婚する前は妻のことばかりだったのに、正式に聖職者と認められ、エクソシストを目指してからは、妻のことはいつも後回しにしていた。
「本当は辞めて欲しいと思ってたわ。でも、貴方はそんな私の意見を聞き入れないだろうと私は思ってたのよ。貴方は出張ばかりで、ちゃんと話し合う時間も取れないし、貴方のことも仕事のことも憎むようになって……私もどうかしてたわね……」
「…いや、俺が悪かった…。今まで迷惑をかけた。すまない…」
胸の奥にズクリと痛みが走って、罪悪感から拳を握りしめる。
「…いいのよ。そうやって頑固で、不器用過ぎる所も貴方らしいと今なら思える。今までありがとう」
彼女はそう言って、静かに俺に微笑んだ。
「こちらこそ、ありがとう…」
俺も感謝の言葉を返す。
正直に思うと、彼女は離婚を望んでいたとは言え、いざ実際にその局面に差し掛かると、俺を大層責めるのではないかと俺は勝手に思い込んでいた。
そう思う程に、俺は妻に婚姻関係を強い続けて、彼女を縛り付けているという罪の意識が強かったからだ。
神には何度も懺悔した。
俺が彼女を傷つけて、苦しめて、人生を縛っているのだと…
しかし現実は、彼女は俺が思うよりも数倍も強かったらしい。
こうして彼女と建設的な会話ができたのは何年ぶりだろうか。
長く続いた2人の関係に終止符を告げるのは、この何の重さもない薄い紙切れ1枚だ。
俺はその用紙をバッグに戻すと、元気で過ごすように、という当たり障りのない別れの挨拶を互いに交わし、彼女の住まいからそっと立ち去った。
そして、俺はその書類を速やかに役所に届けた。不備なく受理されたその届出は、俺と彼女の社会的な繋がりをあっさりと塗り替え、断ち切った。
そしてその届けが受理されたという証明書を発行すると、俺はその脚で教皇庁へと向かう。
次の関門では多少の説教はあるかもしれない、と覚悟はしていたが……
しかし面倒な奴らに捕まるのを避ければ良いだけだと、タイミングを見計い、然るべき部門にその書類を突き付けた。
無論、教皇庁の中で俺の顔を知らない職員は殆ど居ない…
書類を受け取った職員は大層驚いていたが、それよりも離婚をしたという俺に対して、すぐにその態度は軽蔑を込められたものに変わった。
この国で、教皇庁の聖職者が離婚をするなど有り得ない、と。
冷ややかな視線を向けられたが、どうってことは無い。聖職者と言う立場と、エクソシストという公認を剥奪する、そんな手続きは淡々と進められ、穢れた異質の存在を教皇庁という神聖な場所から追い出すかのようだった。
「…ふぅ、せいせいするぜ……」
そんなこんなで想像よりも手続きに時間がかかることは無く、寧ろ急かされるかのように建物からつまみ出されたような感覚だった。
ホッとしながら門をくぐって外に出る。あともう一件、寄りたい場所がある。予定が早く進んでくれてこちらとしては有難い…
そう思いながら車に乗り込もうとしたとき。
「ライラ殿!!!」
あまりに大きな声で呼び止められ、手に握っていた車の鍵を落としそうになるほどだった。
ビクッ、と肩を跳ねさせたあと慌てて振り返れば、そこにはゼェゼェと息を荒くしたあの司祭が立っていた。
「ライラ殿…!聞きましたぞ…!!」
「っ……もう知れ渡ったのですか…」
怪訝そうな表情を浮かべながら、司祭の姿を見つめ返す。司祭は額に汗を滲ませながら息を整え、乾いた唾を飲み込んで言葉を続け始める。
「…どうしてです!?離婚など…!!!エクソシストとして活動ができなくなるのですよ…!!!」
「…もう、私はエクソシストで居るつもりもないのです」
「…そんな…」
司祭は目に見えたように顔を真っ青にすると、ワナワナと両手を震わせている。
「ライラ殿が居なくなれば…この教皇庁の…いや、この国全体の……危機なのですよ!分かっておられるのか!?どれだけ皆が貴方を頼りにしているのか…」
「何を言っても離婚は取り消せません。私の聖職は確かに剥奪されました。エクソシストが重要だと言うならば、次の教皇選挙でエクソシストを推進する教皇を立てるべきです。そうすれば問題は無い…」
冷静な声色でそう返して、俺は運転席のドアノブを握る。
司祭は俺を認めてくれていた。少し胸が痛むが…仕方あるまい。全てはベルブのためだ。
神に祈り、聖職に縋るよりも、自分にとって大切にしたい存在は…あの悪魔なのだから。
「…ラ、ライラ殿…。貴方の仰っていることは分かります。しかし…どうにもできない案件が起こってしまった場合……貴方に、秘密裏に動いていただくことを了承してもらいたい…」
司祭は強引に俺を引き留め、そんな言葉を俺にぶつけた。
聖職を辞めたのに、秘密裏にエクソシストとして動けだと…?
馬鹿な…
「…何を仰っているのですか、私はもう公認のエクソシストではないんです。公認されていないエクソシストが悪魔祓いをするなど、それこそ教皇庁のご法度です」
「…承知の上ですよ…。しかし、ライラ殿ほどの腕の経つエクソシストでなければ、対処できない事案がいずれ発生するやも知れません…。その時には……何卒協力を願いたいのです…」
司祭は必死な形相で俺に告げる。
その汗と青ざめた表情は、確かに俺の能力とエクソシストの重要性を認めている司祭の本心から来る焦りもあるのだろう…
しかし、どこか様子がおかしい…
「…それは、貴方の個人的な依頼ですか…。それとも、教皇庁の意向ですか…」
俺はポツリと尋ねた。
司祭は、息を飲むように言葉に詰まる。
しかし、静かに頷いた。
「…教皇、そして教皇庁全体としての…判断です」
やはりココは、やり方が汚い…。
エクソシストを辞めた俺を、まだ使い潰そうとしているのだろう。
「…フッ。馬鹿げたことを…。上の奴らに伝えてください。俺はもう、悪魔祓いには関わらない。エクソシストたちを軽く見ているような枢機卿たちが居ることが問題だろう?だから十分な教育も行き届いてねぇ、対処もできん…。人々を悪魔から守りたいと言うならば、お前らがその責任を常に真っ当すべきだ」
司祭に向かってそう吐き捨てると、俺は問答無用で車に乗り込む。窓を叩く司祭を無視しながらアクセルを踏み込んだ。
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車を暫く運転させ、街の外れの住宅街に来ていた。ポツンポツンと疎らに立ち並ぶ家々を過ぎていきながら、ため息をつく。
書類を教皇庁へ提出するまでは、エクソシストの使命とこの正義感を捨てることに対して、全く持って抵抗が無かったわけじゃない。
俺が居ればもっと多くの人を悪魔から救えるかもしれない…
そんな気持ちが胸の奥でつっかえていた。
しかしベルブのことを思うと、そのような気持ちさえも胸の奥底へと押し込まれてしまう。
今までは、肉体も精神も消耗して、自分を犠牲にし続けながら悪魔と戦ってきた。そんな俺が、もう自分を犠牲にすることを止め、自分の気持ちに素直になりたいと思えた。
これはベルブのためであり、自分への救済でもあったのだと、今は確信できる。
そして客観的に見てみると、教皇庁や聖職を離れたことも、正解だった…
奴らは常々俺を悪魔を祓うための便利な道具とぐらいにしか見ていないのだ。
そんな生き方よりも、ベルブに愛される余生の方を、自分のために選択できて良かったと心から思えていた。
そんな確信を得ながら、俺は目的地で車を停める。運転席から降りると、小さな教会へと足を運んだ。造りは古いが、昔ながらの温かみのあるステンドグラスが嵌め込まれた石造りの教会だった。
その中へ入ると、僅か数十個の古びたベンチと、飾らない造形の祭壇が目に入る。祭壇の先にある主の像は立派で、それはここで長年大切に扱われてきたことが分かる。
「あれ、ライラ神父…」
ベンチを布で拭いていた神父が顔を上げ、彼は俺に気づくとすぐに柔らかく微笑んだ。
「アダム。元気にやってるか?」
ここの教会で務めを果たしていた神父、アダムに、俺は微笑みを返しながらそう尋ねた。アダムはすぐに布を適当な場所に置き、小走りに俺の前へとやって来る。
「えぇ、元気ですよ。ライラ神父も、顔色が良くなられて…。倒れた時は心配しましたよ…」
「あぁ、あの時はありがとうな。お前に励まされた気分だった」
そう呟きながら視線を交わし、アダムは俺の様子を見て嬉しそうに笑った。
「お元気になられたようで私も安心しましたよ。ところで、こんなところまでお出向きになるとは…何か私に御用でしょうか…?」
「ん、実はな……俺、エクソシストを辞めたんだ」
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