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2 (ライラside) カイルと呼ばれた、爽やかで美しいその男は、髪の毛と同じ色をした眉を少し顰めていた。ベルブからの当たりの強い口調を嫌っているらしい。 「" 貴様 "…か。言葉を慎しんでほしいな、"蝿の王" よ。堕ちた存在となってもその美が消えなかったことが唯一の取り柄だね」 カイルと言う男はベルブにそう返す…。 蝿の王…? 魔界の長として知られる、ベルゼブブのことか……?サタンと同一視される最高位の悪魔だ…… ベルブの話をしてるのか……? しかしその時、ベルブは咄嗟に俺のことを庇おうとするような動きで、その右腕を上げて俺の方へ伸ばす。 だが、それは叶わなかったらしい…… どういうことか……俺は…… 「っ……!」 カイルの腕の中に居て……!? 「べ、ベルブッ……」 この神々しい男が急に怖くなって、青ざめた顔でベルブの方へとこの左手を伸ばそうとする。 なのに……身体が……動かない……! なぜだ… さらにはベルブも突然、硬直したように動かない…… 目を開けているくせに…俺と目が合わなくて…… アイツ……嘘だろ…? ベルブは、動けなくなってるのか…!? 「さて。ライラという名を持つ人間。その右手を見せてくれ」 「へ……」 唐突な要求に目を見開く。気づけば俺は素直に右手を差し出してしまっていて、自分の行動に心底驚かされた。 カイルは俺の右手を握る…。 う、うわ……すげぇあったかい…。 ベルブの冷たい手の感触とは、真反対だ…。 そっと触れられた俺の右手には、まるで太陽の日差しを吸収したフカフカと暖かな洗濯物のような……。触れられたヤツの手から、とても心地よい体温を感じてしまう。 「命にかかわることもない、ただの虫刺されだ。慈悲を与えても、人間界に干渉したことにはならないね…」 人間界に干渉…?一体なんの話なんだ。 ついていけない…。 それにコイツ…何をする気だ…? 握られている手は心地いいが、この脚は動かない……膝が震える……。 カイルは低く柔らかな声でそう言った後、赤くプツプツと腫れた俺の右手を指先で何度か優しく撫でる。フワッと温かな感触が手のひらに広がって…… みるみるうちに、その湿疹が引いていき…… 「な、なんだ……治っていく…?」 「ふふ、これで平気だろう」 カイルは目を細めて優しく笑い、金色の睫毛がゆっくりと瞬きをする。その奥にある青い瞳が俺を見つめ、まるで吸い込まれそうになって…… おいおい……やめてくれ…。 ベルブ以外に、こんなに惹きつけられるなんて…。 それに、この男、あまりに神々しくて… 背筋がゾクリとした。恐ろしい……。 その清廉さに畏怖の念を抱いた。 「……ふむ。ところで、君という人間は、約束されていた天界への切符を手放したのか。しかしそれもまた、愛おしい…。人間とは、間違いを起こすものだ…。どれ、その舌も見せてくれないか?」 い、愛おしい……だと? なんなんだコイツ…! こ、怖い。まじで怖い… それに、舌を見せろとか何を言ってんだ…… まさか、ベルブとの契約も見抜かれてる…? 自力でコイツの傍から抜け出そうと必死に全身に力を込めようとする…。あぁ、ビクとも足が動かん……!! 自分ではどうしようも無いことを察して……助けを求めようとベルブの方を見つめるが……。 やはり、ベルブはピクリとも動かない……。 この状況、俺だけじゃなくてベルブもピンチだ。何とかしねぇと…! 「や、……やめてくれ…っ!…お前……なんなんだよ……っ」 怯えながらも負けじと強く睨みつけながらそう尋ねたら、カイルは小さく、フフ、と笑う。 「怖がらなくていい。私は少なくとも、そこにいるよりはだと思うんだけどな…。そして、のはずだ」 やはり、コイツはベルブを悪魔だと知っている…。 ベルブもこの男の名前を知っていた…。 悪魔同士の知り合いか……? いや、ベルブより "良い存在" だと…? たしかに、清廉潔白という言葉を人間の形に落とし込んだかのような清らかさはあるが……。 訝しむようにジロジロと見ていると、カイルは困ったように眉尻を下げて笑う。 「君は私たちの力を借りて仕事をしてきたんだよ…?あの " 堕天使の末裔 "が動けなくなっている。この状況、君なら察せるだろう?」 つーか、コイツはベルブの血統のことも知ってやがる、何者なんだ…。 コイツのせいでベルブは動けなくて… そして、コイツはベルブよりも良い存在……? 確かにこの男は、虫でかぶれた俺の手の湿疹を治してくれた…。 その時、ふと、思い出す――――かつて俺が悪魔祓いで怪我をして、そのまま気を失った時。助けに来てくれたベルブが俺の傷の手当てをしてくれていた。しかしそれは魔力を使ったものではなく、包帯やガーゼを使ったものだった。 ヤツは言っていた、悪魔に傷を治す力がないことは残念だ、と……。 つまりコイツ…… 「ま、まさか……お前、天使…なのか…?」 震える唇でそう尋ねる。 カイルはクスッと微笑んで首を僅かに傾げた。 「……そうだね。ミカエルという天使から生み出された存在だよ。信者の守護者だ」 「ミ、ミカエル……!?て、天使長…!…だだだだ、大天使……!?」 「あぁ、私はカイルという名前なんだ。何やらから視察に来たんだよね。えっと、そうだった。君のその契約印を解いてあげようと、ついさっき、思ったんだった…忘れるところだったよ」 「おい!ま、待て……契約印を解くだと……!?俺はそんなこと望んじゃいねぇ…!あっ、……望んでない……です」 敬意を表すべきなのか訳分からなくなって、慌てて敬語を使い、恐縮しながらカイルを見た。 「ほう、愚かだね…。私が直々に救いの手を差し伸べているんだ。応じないとは言わせないよ。祝福を与え、その後に契約を無効化してやろう。その魂が穢れを取り除けるように…」 「っ……!」 一方的過ぎないか!おかしいだろ…!? しかし、ますます体が動かせなくなって……その間にもカイルは俺の左手を取って、俺の手の甲にその唇を当ててくる。 俺が神父だった頃に、よく行っていた行為…それが祝福を与える行為だと自分で十分に分かっているが…。 こんなところをベルブに見られたら、ブチ切れそうだ…… それに、ベルブとの契約印を無効化だと…? 絶対に嫌だ……! 慈悲だって…?こんなの、勝手に押し付けられてるだけだ…。俺は望んでないのに! 必死に逃げようともがくのに、体が……!どうしようもできなくて、言うことを聞かない体が自然と口を開いて、舌を見せてしまう…… 額から汗が流れ、瞳孔が開く。 やめてくれ…… ベルブ…助けて…… なんでアイツは動かないんだ……天使に太刀打ちできねぇってのかよ…! 嫌だ……嫌だ……! 目の中に溜まった涙が溢れ落ちそうになった時… 突然、晴れ渡っていた空に雷鳴が響き…。青い空を途端に覆い尽くすような雨雲が立ち込める……。 動けない体で潤んだ視界を動かし、口を開けて舌を出したまま……空模様が変わるのを見ていた。カイルもそれに気づき、ん?と顔を上げる。 「面白い…。それほどまでにこの人間に執着しているのか。私の力を強引に押し返すとは……だね」 カイルはそう呟く。体を動かせなくて、振り返れない…。でもきっと、ベルブが……カイルに抗って…… 「……許さんぞ…。天界は人間界に干渉しない決まりだろう。違反行為として天界に突き付けるぞ…!」 あぁ、ベルブの声だ…! ヤツの声は怒号で震え、同時に空には稲光がいくつも走る。地の底が割れるような雷鳴が腹の臓器にまで響き渡るようで、俺はビクッと体を縮こませた。 「これは違反行為だろうか…?天に導かれるべき魂を、正しい道に戻す行為だ。運命通りに、あるべき物を在るべき場所に収める。これが違反だと?」 カイルはベルブにそう尋ねた。 暗雲が立ち込めて太陽の日差しを覆い、カイルの体も日陰の中に入ってしまう。強く冷たい風が吹き抜けてカイルの金髪が激しく靡くが、カイルの柔和な表情は崩れない。 俺は動けないまま、カイルの腕の中に囚われている。ベルブの方を振り返ることはできないが… 「御託を並べるな。このことは天界に報告するし、貴様をただでは帰さんと言っているのだ…。今すぐライラを離せ……」 そう返したベルブの声は怒りに満ちているのが分かる。 あぁ、周囲の人達は大丈夫なのか……? 視線をキョロリと動かす。周りの人間たちは、まるで俺たちの存在が見えていないかのような振る舞いだった。天候の変化に気づいて雷鳴から逃げるように歩いていく。俺たちが見えていないのか……? 「タダで帰さないとね?あぁ、それは実に片腹痛い。君が私を傷つけられるとでも?無謀な戦いを挑んで、ミカエルに負けたルシファーのような負け戦を繰り返すのかい?辞めておきなさい」 「この…天使風情め。ライラを離せ……今すぐに、だ。お前の顔を見ているだけで吐き気がする…。気色の悪いお前の匂いを彼に付けるな」 「匂いだとかなんだとか…。獣のようなことを言うのだね。美しい顔が台無しだ」 そんな言葉とともに俺は突然解放される。震えていた膝から力が抜けてしまって、ペタンと、尻もちをつく。 「はぁ……はぁ……」 舌を引っ込めて契約印を庇うかのように左手を口元に当てた。慌てて振り向くと、ベルブは悪魔の姿を晒してその翼を逆立て、長く白い髪も風に吹かれたようにウネウネと浮かび重力に逆らっている。 カイルの言う通り、美しい顔に青筋を立て、鋭く赤い眼差しで、カイルを睨みつけながら、まさに怒り狂った悪魔のような形相をしていた。 駄目だ、ベルブ…。分かってるはずだ。 きっと……悪魔が天使に叶うはずがない……。 この男がミカエルから生まれた存在だというのなら… ミカエルは天使軍を指揮した大天使だ。反逆したルシファーの率いる天使たちはミカエルに倒され、悪魔となったはず。 「ベルブ…!俺はもう解放された……!歯向かうのはよせ……!」 ベルブは俺をチラリと見た後に、再びカイルをギロリと睨みつけた。 「ふん…俺は貴様に尻尾を巻いた訳ではない。ライラが最優先なだけだ。勘違いするな」 ベルブはカイルに向かって低い声でそう言うと、俺の方へと歩いてくる。優雅に長い髪を靡かせ、堂々たる歩みでカイルの傍に近寄り、俺の腕を握った。 「ライラ……大丈夫?」 「あぁ……平気だ…」 ベルブの腕に捕まりながら、なんとか立ち上がって、ベルブの隣に立つ。すぐ側でじっと俺たちを見守るようなカイルは、柔和な笑顔を貼り付けたままだった。 「君も美しい魂ほど惹かれるのだろう?私の目にも見えているぞ、その男の魂が輝いていたことが分かる。悪魔との蛮行でかなりくすんでいるけど……」 チラッとカイルの青い眼差しに射抜かれて、ベルブとの情事を思い出し、俺の顔は一気に真っ赤になる。 天使に見抜かれちまうなんて…… 恥ずかしい… 「ライラの前で余計なことを言うな。その口を耳まで割いて舌を抜き取るぞ…」 「おやおや、怖いことを言わないでくれ。君の大切なモノだったようだね」 カイルはそう言って、どこか申し訳なさそうに眉を下げて笑う。 「彼をモノ扱いするな…!だが、ライラは俺だけの存在だ。貴様らには灰になっても渡さん」 「ふふ。相変わらずだね、君は。だが、その愛、本物だと言うことは分かったよ。どうか怒りを鎮めてくれ。その美しい顔も勿体無いじゃないか」 「……っ!」 ベルブの息を飲む音と共に、俺もギョッとした…。 カイルが突然、ベルブの頬を撫でていた。ベルブはまた、動けないのだろうか… ピクピクと眉を吊り上げながら、嫌悪感をあからさまに露わにするのに……ベルブはそれを受け入れてしまっている。 「お、おい……やめろっ…!」と、俺は咄嗟に声を出す。 ベルブの姿に胸が痛み、カイルの動きを止めようとする。なのに、俺もまた体が……!動かんッ……! 「君にも祝福を…」 カイルはそう言って、ベルブの右手を取って、その甲へと唇を当てた。 「いっ……」 ベルブの黒い翼の羽が1枚1枚ゾワゾワと逆立ち、尻尾がビンッと上を向いて、真っ青な顔をしている。 「人間界に干渉できない私に代わって、頼まれごとをしてくれないか?天界に多くの人間たちが流れ込んできてね。地獄も同じだろう?沢山の人間たちが送られてきたはずだ。ついさっきもだよ…。数多くの犠牲が出ているんだ。悪魔の仕業さ、だが、悪魔だけじゃない。道を外れた悪い人間が関わっている様子だ…」 「っ……き、貴様……俺の手に……気色の悪い事をするな…屈辱的だ……」 ベルブは冷や汗を流し、カイルに祝福を落とされたヤツ自身の右手を、まるで激しく嫌うように遠ざけて凝視している。 「まぁ聞いてくれ。それでね、悪魔が関わっているから……この状況、止められないのであれば、」 「責任だと?人間が関わってるんだろう?魔界にばかり責任を押し付けるな!」 「私は無力な人間たちに無慈悲なことはできないよ。とにかく、対処してくれなければ、魔界に制裁を与える意向だ。分かっているだろう?私が言及しているのは、あの穴と、トラックの事故のことだ。よろしく頼んだよ」 そう言ってカイルは片目を瞑って、パチンッと眩しいウインクをベルブに浴びせた。 その瞬間……ブワッと白い羽根が無数に舞って… 一瞬のうちに、カイルは姿を消していた。 その幻想的で神々しい光景に、俺は息を飲む……。 その時、立ち込めていた灰色の雲から所々、日の光が放射状に差し込んでいた。あれは薄明光線……"天使の梯子"と呼ばれる気候現象だ…。 そして、カイル残した美しく白い羽根が地面にフワリと舞い落ち…。一つ一つが着地する瞬間に、その羽根は跡形もなく消えてしまっていた。

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