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(ライラside)
「兄様、随分と広い空間が地下にあるものなのですね…」
そんなルゼブの呟きは地下の通路で反響して残っていく。誰も喋らなければ、この闇の中ではゴポゴポと水が壁の向こうで通っていく音だけが聞こえる。
随分と古くに作られた地下通路だが、未だに耐久性に問題がないからこのままなのだろう。滑らかで硬質なこの壁は、火山灰を含んでいるのだろうか、独特な色味だ…。
「…そうだな。これを見ろ、壁に雨水が貯まった跡があるだろう」と、ベルブがルゼブに応えながら、その手に持っていたランタンの火を壁に近づけた。
それは丁度、俺たちの目線の高さほどの位置だった、壁を横切るように薄らと1本の線が続いている。
「特にこの場所の広い空間は、大雨で街が洪水の被害を受けないよう、大量の雨水を貯める用途だろうな…」
ベルブはそう言って、俺の方をチラリと見てきた。奴の赤い瞳が暗いこの空間でランタンの光を受け、美しく輝いている。
「そうだよね、ライラ?」と、ベルブが付け加えるから。俺は険しい表情を少し崩して、口角を上げる。
「…そうだな、いわゆる、貯留地と呼ばれる場所だ。雨水が下水道や河川へ流出することを抑制し、洪水や浸水を防ぐための防災施設みたいなモンだ。地面の窪みには気をつけろ、その流れが滞らないよう、逆三角形のような穴をワザと作ってる。ここに流れてきた泥なんかが溜まる仕組みだ」
俺はそう答えながら、ジトジトと湿った足元の先にある、濁った水が貯まった四角い幾つかの窪みをランタンで照らして指し示す。
するとベルブは満足気にしていて、ルゼブはなぜか悔しそうな表情をしている…。
俺がルゼブに向けられた表情に戸惑っていると、その妙な空気を掻っ攫うようにベルブが再び口を開いた。
「つまりは、この空間に向かって地下道は伸びている。各所の用水路から流れ込む水がここへ繋がるようになっているからな。下水道を管理するための通路にも繋がっているし」
この場所の壁には所々に丸い穴が空いている。大小様々だが、確かに人が通れるほど大きな穴のものもあった。
「ここを中心として、手分けして四方へ広がり、奴を探すぞ。各々どちらへ向かうかを決めようか…」と、ベルブが言うと、再びマーレが地図を取り出した。他の魔族がその手元を照らし出している。
「この通路…」と、ベルブは地図を指さす。そして顔を上げて首をひねり、暗闇の方を奴は見つめた。
ベルブの指さす通路は、確かにベルブが今振り返っている方向にあるだろう。灯りが届かなくて、その入口はまだ見えないが…。
「こっちの方角には、俺が行こう…。腐ったような、嫌な血の匂いが僅かに感じ取れる…。ただの獣の死骸かもしれんが、妙な感じだ」
ベルブのその言葉に俺は息を飲む。そのような腐敗臭だというなら…あの穴で嗅いだものに似ているはずだ。つまり、俺たちが追いかけている悪魔に1番近づく可能性が現時点で高い…。
「兄様、承知しました。しかし…独りは危険です、僕が同行します。いえ、寧ろ僕がその危険な方向へ向かいますから!」と、ルゼブが身を乗り出す。
その通りだ…。もしベルブにも敵わないような悪魔だったら…。いや、そのような悪魔が存在するとしたなら、奴の父親くらいかもしれないが…。
それにコイツは次の魔界の王になる存在だ。何かあったら大変だ…。そんな気持ちと同時に、どうしても恋人としての気持ちが働く。アイツを危険な目に合わせたくない…。
「いや。ルゼブ、力を分散させておかなければ。この方向に確実にあの悪魔が居るとは限らない。ここではどの方向に進んでも危険ということだ。ルゼブはあの通路の方へ行け、護衛として魔族を数匹連れて行くんだ。そして他の方角には残り魔族たちを向かわせる」
そう言ったベルブの言葉の後に俺はすぐに口を開いた。
「おい、ベルブ。お前も魔族を連れて行くべきだ…」
俺が心配からベルブの言葉にそのような発言を挟むと、ベルブは考えるようにその顎を撫でる。
「…まぁ。ライラがそう言うなら。俺の邪魔にならないよう1匹でいいよ。伝えたとおり、戦力はなるべく分散させたいしね」
本当はガチガチに護衛で固めて欲しいところだが…。ベルブがそうしない意図も分かる。奴が単独行動ではなくなっただけても少しは安心だ。
「あぁ。そうしてくれ」と、俺は返事を返すが…。待てよ?俺とマーレはまだ指示を貰ってないな。
「俺とマーレは?ここで待機ってことか?」
そう尋ねると、ベルブは柔らかく微笑む。
「あぁ。もし俺たちの中の誰かがあの悪魔を見つけたとしても、狭い通路の中では戦闘すらできない可能性もある。その時にはこの広い場所にあの悪魔を誘い込み、全員でこの場所に戻って迎撃する。そのための拠点として、ここにはライラとマーレを残したい」
「…そうか、分かったぜ」
「マーレが居れば俺たちが戻ってくる気配にも事前に気付ける。妨害がなければ離れていてもマーレを通じてやり取りもできるからね。マーレ、俺たちの気配を再び感じたら、戦闘が始まる可能性を考慮して警戒せよ」
「承知いたしました、坊っちゃま」
マーレがそう言って仰々しく頭を下げて返事を返す。ベルブはマーレに厳しい眼差しを向けたまま、その長い髪を右手で掻き上げ、ふぅ、と溜息を小さくつく。
「…マーレ。お前にライラを預けるぞ。この言葉の意味が分かるな?」
ベルブがそんなことを言い出すから、少しドキッとしてベルブを見つめる。ベルブはマーレを射抜くように鋭く見つめ続けていた。
マーレは纏っているローブの襟を整え、ピンと背筋を伸ばす仕草を見せた。マーレのいつもの柔らかな笑みさえ消えて、マーレは真っ直ぐにベルブを見つめ返す。
「…お任せ下さい」
マーレは凛とした表情でそう返す。ベルブの強い眼差しに当てられているのに、彼女に一切の怯えは無く、堂々と、自信に満ちた姿だった。
そんなマーレを見たベルブは納得したように小さく頷くが……直ぐに俺の方へ視線を向ける。
「なんだよ…」と、戸惑いながらベルブの赤い瞳を見つめ返す。
「…本当は魔界城で匿ってたかったよ。連れてきたことを後悔し始めてる。でも、ライラは強いからね…。一緒にあの悪魔を捕まえて戦おう」
ベルブのそんな言葉を受けて、俺は思わず口角が上がる。
「あぁ、ベルブ。俺もできることは全力でやるよ。お前やマーレに護られてばっかじゃ…悔しいからな。俺を信じてくれてありがとう。ベルブ、お前も気をつけろよ。そしてルゼブやほかの魔族たちもな。ここで待っててやるよ」
ベルブをしっかりと見つめ返しながらそう伝え、ベルブやほかの魔族たちとも視線を交わす。
そして決意を固めるように拳を握りしめた。しかしその時、ベルブの視線が急に熱っぽさを増して、奴は途端に俺との距離を詰めてくる。
「ライラ。それでこそ俺の伴侶だね…」と、そんな言葉と共にベルブは俺の片手を掬い上げるように取ってその指を絡ませてくる。
「お、おい…」と、顔を赤くしながら、周りの目も気になって…。恥ずかしくて狼狽える。耳の奥に聞こえる自分の心臓の音が速くて、胸が高鳴っていた。
そのまま抱き寄せられて、奴の腕の中に体がスッポリと収められてしまう…
「…愛してるよ、ライラ」
耳元で囁かれたそんな言葉にドキリとして、顔を真っ赤にさせてしまいながらもその背中に腕を回し、ベルブのことを抱き締め返した。
ーーーーーーーーー
その後すぐに、ベルブやルゼブ、そして魔族たちは、各々の方向へと進んで行った。奴らが入っていった穴は、2mほどの高さある円形の通路だ。ちょうど人が通れるほどの広さはある。
奴らの足音はその通路にコツコツと響き渡り、俺とマーレの居る広いへと反響していた。それは次第に遠くなっていく…
暫くすればその足音さえ暗闇に溶けて聞こえなくなった。
足元に貯まった水が跳ねる音や、壁の裏で流れていくコポコポという水の流れの音だけがこの空間を支配していった。
ところで俺とマーレの居るこの地下の空間は広すぎて、ランタンで照らしている周囲しか辺りは見えないほどだ…。真っ暗なこの空間は心細さを掻き立てて暗闇が迫ってくるような感覚。ベルブはもちろんだが、ルゼブやその家臣たちのことも心配だった。
しかし、奴らは大丈夫なはずだ。俺は信じてここでマーレと待つしかない。
「ライラ様。皆さんが戻ってきたときのため、この空間を灯りで灯しておくことを考えていますが、いかがでしょう?」
マーレが静かな声で尋ねてくる。その表情はぼんやりとランタンから漏れ出た灯りで暖かく照らされていた。
俺は考えるように首を傾げ、思考を巡らす…
確かに…この真っ暗闇が少しでも明るくなるのは良いことかもしれない。俺の心理的にも、安心感が増しそうだが…。
しかし…
「いや、それは時期尚早だな…。この通路は一般人が点検のために使うこともあるし。ここが明るかったら俺らのことがバレてしまうかもしれない…。マーレがここに近づく人間たちを事前に察知できるなら別だけど…」
そう告げると、マーレは確かに、と何度か首を縦に頷く。
「そうですね…。ここに近づく人間を察知することはできますが…正直に申し上げますと、私は坊っちゃまたちの気配を察することに徹したいですから。彼らの気配に乱れが生まれれば、それは彼らの身に何か起こったかもしれないということ。その些細な変化も見逃さないことを優先すべきかもしれませんね…」
「そうか。なら、無理にここを明るくして、無関係の人間の気配まで察知しようとする必要はないな…。マーレの言う通り、君はベルブたちの気配に集中してくれ。俺はここに訪れる他の奴らが居ないか…特に人間の方を、警戒しとくから」
そう伝えると、マーレは優しく微笑む。
「承知しました、ライラ様。私は坊っちゃまたちの気配に集中しますね…。彼らが奥へ進むほど、それぞれの気配を察知するのが困難になっていくのです…。ですが、私のできるかぎり、追跡しますから」
マーレはそう言って、その瞳を伏せる。意識を集中させているかのような表情で、ベルブたちの気配を追跡することを始めたらしい。
俺は耳を澄まして、周囲の物音を聞き分け、警戒することに徹していた。僅かな水音…そしてその間に隠れた、生き物たちの息遣い…。恐らく下水に潜むドブネズミかなにかだろう。
それぞれマーレと役割を分担しながら、周囲を警戒しつつ、ベルブや他の誰かに反応がある、または、彼らのいずれかが戻ってくるのを待ち続けた。
そして時間は流れ…小一時間は経っただろうか…。耳をそばだて続けて一切集中を切らすことはなかった。俺としては、誰もここへ近づいてくるような、人間の足音などは感じない…。
しかしその時、マーレが、ふぅ、と小さく息を吐く。その声に反応し彼女をチラリと見た。
マーレは白いまつ毛をゆっくりと瞬かせながらその薄い瞼を開けていく。ランタンに照らされた薄紫の瞳が、そっと俺を見つめる。
「マーレ、大丈夫か…?」
マーレ…どこか疲れているように見える。無理もない、ここから離れていくほど追跡は難しくなると言っていたが、その気配の追跡とやらを、複数に対して行っている。ベルブやルゼブ、他の家来たちのことも追跡していたのだ。
「えぇ、ライラ様…。しかし、これ以上の追跡は難しそうです。一人一人なら追跡できないことはないですが、全員を追跡するのは難しい距離に入ってきました…。坊っちゃまの気配だけでも監視しておきましょうか…」
「…いや。その必要はないさ。アイツは大丈夫だと信じてる。それより、マーレはまだ体力を残しておくべきだ。もう気配を遠くまで追いかけることはせず、あとは彼らが戻って来て、ここに近づいてくるときの気配を察知できるようにしておいて欲しい。戦闘が起こる可能性もあるし…。そしてベルブたちもそんなに奥へ進んでいるなら、すぐにはここに戻って来れないだろうかな。今のうちに少し休んでくれ」
そう言って微笑みながらマーレの細い肩にそっと手を置く。するとマーレはフワリと微笑み返し、会釈するように頭を下げる。
「承知しました、ライラ様。しかし、休息は不要ですよ。戻ってくる気配にはしっかりと集中しておきますので」
マーレはそう言って、さきほどよりも穏やかな表情で辺りを見回すように体を捻り、暗闇の奥を見据えるように見つめている。
「…なぁ、マーレ」と、少し躊躇いながら話しかけた。
「なんでしょう、ライラ様」
「あのさ…ここに居るかもしれない悪魔のことだけど…。少し聞きたいことがあって。今回のように、ベルブや魔界が認知してない悪魔が居るなんて、普通のことなのか?」
そう尋ねると、マーレはその短く白い髪を耳に掛け直すように指で触れる仕草を見せる。
「…そうですね。悪魔たちがいつどこで子を成しているかなどは把握しようがないですから…。全ての悪魔を管理しきれていないというのはありますね。しかし、今回は…坊っちゃまのおっしゃっていたように、人間界に大きな被害を及ぼし、さらには本来の悪魔の本能からは考えられないような仕業。ですから…今回のような悪魔が存在していることは、普通の状況でありません」
「そうなのか…」
「えぇ。それに、悪魔たちは人間界でどんなことをしてもいいと言うわけではないのです、私たちはそれを理解している。天界は悪魔たちの復讐心を監視していますから。目に余る行為があれば…天界から魔界が咎めを受ける、それを無視した行動であるということも……珍しいことでしょうね」
つまり、今回の悪魔はやはり異質の存在という訳か。全てが悪魔の本能に従ったものではなく、さらには、天界から自分たちの魔界が咎めを受けるかもしれないということも恐れていない…。
マーレの言葉を聞いて俺の中で浮かんだ疑念…
それって本当に…悪魔なのか…?
「…マーレ。俺たちが追いかけてるのは…悪魔なのか…?」
そう尋ねると、マーレは眉根を寄せ、神妙な面持ちで俺を見つめ返した。
「…天使のカイルは悪魔と断言していたのでしょう?恐らく悪魔です…。ですが…これはあくまで私の感覚に過ぎませんが……。それは、悪魔の素質を持つ…何か新しい存在だと……私は考えてしまいます」
そんなマーレの言葉に、俺は息を飲む…。額にじわりと汗が滲み出した。
悪魔の素質を持つ…新しい存在…?
「…なんだ、それは…」
「…悪魔でありつつも、悪魔でない…。なんとも今の時点では言えませんが…同胞だとは思えません。その悪魔の姿を見ることができれば……真相が掴めますよ」
マーレがそう返したその時…。ガサガサカザ…と、何かが無数に蠢く音がどこかから聞こえてくる。
俺は途端に強く警戒して直ぐに音の出場所を探ろうとしつつも、広い空間に音が反響して分かり辛い。
「ライラ様…大丈夫です。ネズミたちが移動しているようですよ…」
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