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第5話 本田崇人①【R18】
中学3年生の夏――僕の初恋は見るも無惨にズタズタに引き裂かれて終わりを迎えた。
呼吸する度に湿度の高い空気が重く肺に溜まって、苦しくてむせかえるような暑さの、蝉の声がやたらとうるさい夏だった。
不安定で歯止めの効かない思春期の性と淡い恋心は、完全なまでに叩き潰された。見るも無惨にバラバラにされて、もはや修復不可能だった。
あの時、15歳の僕に一体何ができたというのだろう。全てを理解して受け入れられる程、大人にはなれなかった。まして、虚勢を張って何事も無かった振りをしながら日常を送る事など、未熟な僕にそんな事が出来る訳もなかった。自分自身に蓋をして、ひたすら本心を悟られぬようひた隠す。それが精一杯だった。
あの時から、僕はずっと何者でもない『本田崇人』を演じている。常に他人と一定の距離を置き、必要以上に馴れ合わない。本心じゃない言動も、他人がそれを僕に求めれば、あたかも初めから自分も同じ考えであったと賛同してみせた。そうする事で、自分は社会に馴染めている。大丈夫、僕は『普通』なのだと、正気でいられる気がしたんだ。
『本田崇人』という人間は、一体どれが本物で何が正しい人格であるのか、悩むことすら許されなかった。
僕が僕らしくいる事で人を傷つけることを知った、言葉のナイフでズタズタに心をえぐられた夏だった。
ただ、一向に鳴り止まないつんざくようなあの時の蝉の鳴き声だけが、10年以上経った今も僕の耳に鮮明に残っていて、忘れたくても忘れさせてくれない。
*********
あの頃の僕は、友達から回ってくる女の子の卑猥な画像や動画を見るよりも、サッカー部の同級生を目で追う方に夢中だった。別にサッカーをしたい訳じゃないし、試合が気になる訳でもない。ただただ、同級生の山本が真剣にボールを追っている姿をどうしても見ていたかった。自習をしている振りをしながら、部活中の彼の様子を教室の窓からずっと眺めている放課後だった。その時間が何よりも好きだったし、特別だった。
次第に部活の様子だけじゃ満足できなくなった僕は、普段の学校生活でも彼を気にかけるようになった。山本の姿を探しては、彼の一挙一動を目で追う日々。
――5月初旬。
その日は珍しく、他クラスと合同で体育があった。クラスの違う山本と初めて一緒に授業を受ける。間近で彼を見れるチャンスだと言わんばかりに、僕の胸は一気に期待で高鳴った。スポーツ万能な上に華がある山本は、授業のテニスでも活躍して皆の目を引く注目の的だったのは言うまでもなかった。
男子校といえど、カーストはある。山本はピラミッドの頂点に入る部類。派手で目立つ友達に囲まれて、リア充そのもの。毎日笑いながら眩しく青春を送っている奴らだ。片や僕は地味で目立たない、でも勉強だけは出来るその他大勢のひとりに過ぎない。
運動は得意な方とは言えないし、机に向かって数学の方程式を解いている方が自分の性分にずっと合ってる。こんな風に正反対の僕たちは、友達にすらなれない遠くかけ離れた存在でしかないとずっと思っていたし、それを覆される日が訪れるなんて、微塵も思っていなかった。
まだ5月だというのに気温は30度を超えていて、日差しが刺す様に眩しかったのを覚えている。
せっかく間近で気兼ねせずに山本を見られるチャンスだったのに、こういう時に限って僕は鼻血が出て止まらなくなってしまった。ティッシュで鼻を抑えながら、ひとり木陰の涼しい所で体育座りをして上を向く。僕は肝心な時にいつもこうだ。自分が楽しみにしている出来事があると、必ず何か突拍子のない事が起こって叶わない。
(自分の中で彼に対して勝手に盛り上がっていただけじゃないか。別に誰かに迷惑をかけた訳じゃ無い)
そう自分自身に言い聞かせるも、言葉では言い表せないやりきれない切なさが一気に押し寄せてきて、崇人は鼻を抑えながら泣きそうになっていた。ジャーッと水道の蛇口を捻る音が聞こえてきて、ゆっくり顔を下ろしてから隣へ目をやった。
山本が水を飲みながら、汗だくの頭を洗っていた。「え!」びっくりして、思わず大きな声が出てしまった。その声に山本も驚いて崇人の方を向いた。
「あ、悪ぃ!水かかった?」
山本は水飛沫が飛んだのかと勘違いしていた。
「い、いや。だ、大丈夫!かかってないよ」
「おぅ。ならよかった。つーか、大丈夫?それ……」
山本は崇人の鼻を指差した。押さえていたティッシュが鮮血で真っ赤に染まり、吸収しきれなかった鼻血がポタリポタリと垂れて地面に赤い点を描いていた。
崇人はそれに自分でも気づかずにいたので、足元に落ちた無数の鼻血に、思わず「わ!」と叫んで飛び上がった。その様子に山本は「あはは」と白い歯を見せながら明るく笑うと、ティッシュ持ってくるから待ってて。と言い残して、颯爽と走って体育館へ戻っていった。
陽に当たってキラキラ光りながら走る山本の後ろ姿を見て、崇人は顔を真っ赤にした。周りの雑音なんて全く耳に入らない程、心臓がドクドク脈打ってうるさい。こんな形で彼と初めて話せるなんて。さっきまで自分の運命を呪っていた暗い気持ちが、嘘みたいに晴れやかな青空に変わっていた。
しばらくすると、ティッシュ箱を抱えて山本は帰ってきた。
「あ、ありがとう!」
崇人はティッシュ箱を受け取って、何枚か抜き取ると、急いで鼻を押さえて再び軽く上を向いた。山本も隣に腰を下ろすと、崇人の顔を覗き込んで目を丸くした。
「おぉ!やっぱそうだ!放課後さ、教室に残って勉強してるっしょ?部活の時に3ーCの教室、よく見えるんだよね」
「え!」
山本からのまさかの発言に崇人は思わず息が止まりそうになった。
「あ、うん。そう。よく残って自習してて……。サッカー部の練習が目の前で見えるから、何ていうか……僕も何気に見てるよ。サッカー好きだし」
「だよな?なんかいつも視線感じてたんだよ。じゃ、俺たち知らない者同士なのに実は知ってる間柄じゃん!あはは。何かウケるな。名前なんていうの?」
「本田!本田崇人!」
(やばっ。間髪入れずに大声で言っちゃった。キモかったかな……)
「おぅ!崇人ね。俺、山本和真 。よろしくな!クラス替えないからなぁ、うちの学校。だからなんかクラス超えて新しい友達出来るのって嬉しいよな」
山本はニカッと白い歯を見せて笑った。
『友達』
その響きは僕が欲しかったものだ。山本本人から『友達』だとハッキリ口にしてくれたのだから、嬉しいに決まってる。なのに、何故だろう。胸に無数の針が刺さったみたいに、チクチク痛みが走るのは。
そこから山本と友達付き合いがスタートしたのだけれど、彼の周りはいわゆる陽キャと呼ばれる目立つ存在の奴らがいつも一緒にいた。山本がひとりで居る時など滅多にない。けれど、山本はそいつらと行動を共にしている時も僕を見かければ、周りにはお構いなしで大声で名前を呼んで話しかけに来た。
目立たず地味に学校生活を送っていたはずの僕は、おかげで周囲から一気に存在を注目されるようになってしまった。山本の友達からしたら、何でコイツと友達なんだろう。と謎に思われているに違いない。その証拠に、周りの奴らは僕に話しかけて来ようとはしない。山本が僕へ駆け寄って行く様子を、遠くから不思議そうに眺めているだけだ。
中学生の僕には山本の存在がこそばゆくて仕方がなかった。彼が僕を見つけると、眩しい笑顔で駆け寄って来てくれるのが堪らなく嬉しくて、愛おしかった。
それと同時に、住む世界が違う地味な僕と居て、山本は本当に楽しいのかな。という暗い不安がいつもどこかにあった。実際、山本と話す内容は他愛のない話ばかりで、もはや何を話していたのかなんて覚えてはいない。それでも彼と一緒に居る時間は居心地が良くて、彼から発光するどこまでも明るくてキラキラした空気に、自分も一緒にその中へ、自然と溶けこんでしまっていた。
僕自身も彼の様に陽の当たる場所で、堂々と大手を振って生きていけるんだ。そう、盛大な勘違いしているとも知らずに。
「このままが、ずっと続けば良い」
本当にそう思っていた。でも、彼と親しくなってから、僕の中の『悪い虫』は暴れ出すと止まらない事を知った。
山本と会話した日は必ずと言っていい。彼の姿を反芻してオナニーした。笑うとエクボが見えるとか、意外とホクロが多いんだな。とか、昼間のちょっとした発見が夜になって布団に入ると興奮に変わる。
制服のYシャツから見える首筋は、まだ中学生のくせに筋ばって男らしく、汗ばむ肌にそっと手を伸ばして優しく撫でたいと思ってしまう。笑う度に輝く白い歯は、どこまでも純粋でひたむきな山本そのものを象徴している様で、眩しい。その口元を指でなぞって顔を近づけられたらどんなに嬉しいかと、何度も想像する。
僕は山本に恋してる。彼が好きだと自覚している。もっといえば、性的な目で彼を見ているんだ。
山本へ向けた特別な感情に気づくのに、遅くはなかった。『恋』という言葉が彼への気持ちにぴったり当てはまると分かってからは、あれほど熱心に山本を見つめていた理由が自分の中でストンと腑に落ちて分かった。
女子にどうしても興味が持てなかった僕は、薄々気づいていたから。僕は性的マイノリティの人間なのだろうと。
**********
日々は穏やかに流れて、あっという間に夏休みに入った。
中高一貫校に通う僕らは高校受験とは無縁だったから、比較的自由に過ごせていた。相変わらず部活に精を出す山本の姿を見る為に、夏休み中も僕は学校へせっせと通った。と言っても、教室に入れるわけではないから、図書室へ自習しに足を運ぶしかなった。大々的に練習風景を見ることが出来なくても、学校のどこかで一瞬でも良いから山本の姿が視界に入って来てくれれば嬉しい。
たまにタイミングが合って、会えた時には向こうから笑顔で手を振ってくれる。僕はもうそれだけで他には何も要らないほど、胸がいっぱいになって幸せな気持ちで満ち足りていた。
アスファルトから茹った煙が立ち昇る。蜃気楼が揺らめく東京は灼熱の暑さだ。
朝から光化学スモッグの予報と熱射病への注意報が出て、運動系の部活動の練習は早々に中止となった日だった。そうとは知らず、図書室で僕は呑気に本を選んでいた。
夏の間に30冊は読もうと決めていて、文庫の並ぶ本棚の前で本の背表紙を目で追っていた。意識的に避けていた三島由紀夫の『仮面の告白』が目について、ようやく読んでみようかという気持ちになった。本に手をかけた瞬間、背後から話しかけられた。
「それ、面白いの?」
振り返るとスポーツバッグを斜めにかけた山本が、崇人の後ろから本のタイトルに目を細めて凝視していた。
「わっ。びっくりした!脅かさないでよ。あれ?山本、部活は?」
「あはは。悪りぃ、悪りぃ。今日なんか暑すぎて中止になっちゃったんだよな。片付けてる時に崇人見かけたから、ここにいるんだろうなって思って来てみたんだ。俺も宿題やんなきゃいけねーから、一緒に勉強しようと思ってさ」
「そうだったんだ。僕はもう宿題終わってしまったから、本を読むよ」
「え!まじ?あの量をもう終わらせたのかよ?さすが学年トップクラスは違うなぁ。……頼む!崇人。勉強、教えて!」
山本は手を合わせて崇人へ拝みながら懇願した。
「そう言われるかなって思ったよ」
崇人は苦笑しながら快諾した。二人で並んで席に着いて、それぞれ宿題と読書を始めた。最初は山本も真面目に取り組んで、時どき崇人へ「これ、どーしてこーなんの?」なんて説明を求めたりしてきた。
僕は隣で黙々と読書をしている振りをしていたけれど、内心気が気じゃなかった。こんなに長い時間、お互いの体温が感じる近さで隣にいる事なんてなかったし、頭を捻って宿題に取り組む山本の姿が微笑ましくて、思わず胸がグッと熱くなる。
しばらくして勉強に飽きて来た山本が机に寝そべりながら、僕の方をじっと見つめてきた。その視線に気づいていたけれど、恥ずかしさが勝って気づかない振りをしていた。
「……何?」
「いや、何となく」
「勉強飽きちゃったの?それとも分からない所でもあるの?」
「いや……崇人ってさ、すげぇ綺麗な顔してんのな」
「!?」
思わずガタタッと大きな音を鳴らして椅子を引いてしまった。周りの生徒が一斉にこちらへ振り返ってギロリと睨みつける。予期せぬ山本の発言に動揺して、崇人は軽くパニックになってしまった。
「ぶはっ。驚きすぎだろ」
山本は肩を震わせながら、机に顔を突っ伏して笑った。
「え!だ、だってそうだろ?山本が突然、変なこと言うから……」
「変なことじゃないじゃん。発見だろ?いや、一緒に居たのになんで今まで気づかなかったのかなーって思って。よく考えたら、崇人の横顔見たの初めてかも知んない」
なぁ、メガネ取ってよ。と、山本は崇人に近づいて催促した。ワクワクして目を輝かせる、小さな子供のように無邪気にお願いしてくるから、崇人はどうしたら良いのか分からなくなった。山本に言われるがままに、そっとメガネを外す。
変な緊張と恥ずかしさで崇人の頬はうすく桃色に染まった。山本はしばらく言葉も発せず崇人を凝視した。手をぐっと握り締め、ごくりと唾を呑み込んで喉仏が動いた。
「……メガネ取ったよ。で、どうしたら良いの?」
崇人は困惑しながら顔をあげてチラリと横目で山本を見た。何か『特別』な事をされるんじゃないかと、自分の中で微かな期待があった。
けれど山本は、今までに見せたことの無い作り笑顔を崇人に向け、「帰ろっか」と、ただ一言だけ言ってきた。それから二人は終始無言のまま机の上を片付けて、言葉なく図書室を後にした。どの部活も今日は活動できなかったので学校はやけに静かだった。
誰もいない校舎。外で忙しなく鳴き続ける蝉の声だけが二人の耳に入ってくる。玄関へ向かってふたりは無言のまま歩き続けた。
(どうしたんだろう。何か怒らせる様な事、言ったかな……)
急に大人しくなった山本の態度に、崇人はふと心配になった。いつもの明るくて屈託の無い笑顔を見せる彼が、急にどこか遠くからやって来た別人のような表情をするから、複雑な気持ちになる。
それぞれのクラスの下駄箱に着くと、靴を履き替えた。崇人の上履きをしまう手が思わず震えた。この、訳のわからない気まずい空気を引きずったまま別れるのは嫌だ。僕が気づかぬ内に変なことをしてしまっていたのなら、ちゃんと山本へ謝りたい。
「崇人」
背後から名前を呼ばれて振り返ると、お互いの腕が触れ合う程近くに山本が立っていた。
崇人を見つめながら、山本の唇が自分の唇にそっと触れた。
15になったというのに背が伸び悩む小柄な崇人を、山本は下駄箱に腕をついて自分の体ですっぽり覆い隠しながらキスをしてきた。咄嗟の出来事に、崇人はびっくりしたまま表情が固まった。「え……」言葉は何も出てこず、ただただ、目の前の山本の顔を唖然と見つめるしかなかった。
「ごめっ……崇人が可愛すぎて、つい……」
山本は真っ赤になって、手のひらで自分の口を覆って狼狽えた。自分でも訳が分からないといった感じだった。けれど、熱の籠った視線は逸らすことなく真っ直ぐに崇人を見つめていた。
山本の熱に当てられて、体の奥底から昂った感情が一気に押し寄せてきた。崇人は無我夢中で山本のワイシャツの襟を両手で掴むと、ぐいと顔を引き寄せて今度は自分から唇を合わせた。
「僕も、したかった――」
微かに聞こえる空調の音と、窓の外で鳴く蝉の声。
シンと静まり返った下駄箱でふたりはもう一度、今度はお互いを慈しむ様にキスをした。
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