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第7話 本田崇人③(※内容の一部に暴力表現があります)

 夏休みがあっという間に終わって、新学期が始まろうとしていた。結局、山本とは彼の家にお邪魔して以来、一度も会えていない。  父の休暇に合わせての家族旅行に、塾の講習。おまけに夏風邪を引いたせいで、休み中の登校日も学校へは行けず仕舞いだった。もっとも行った所で光化学スモッグと熱射病の警報は相変わらず毎日鳴っていたから、サッカー部の練習もあったのかどうかは分からないけれど。  僕は携帯を持たせてもらえていないし、山本へ直接連絡を取れる手段がない。だからこそ、9月が待ち遠しすぎて早く学校へ行きたくて仕方がなかった。  山本の家でキス以上の事をした『あの日』から、僕は独りで慰める日々が続いていた。互いの肌の質感や感触、下着の上からなぞられた秘所への熱い刺激を思い出しては、興奮で感情と下半身が昂って仕方がない。  早く続きをしたい。もっと二人でその先まで……なんて言ったら、山本は引くかな。  悶々としながら行為の続きを想像して過ごした残りの夏休みが、もう遠い昔の事のように思える。山本に会いたい。会いたくて会いたくて堪らない。あの太陽みたいに眩しくて明るい笑顔を、早く僕に向けて欲しい。  *********    新学期初日、僕は山本の姿を探すのに必死だった。陽キャの友達に囲まれる山本へ会いに、独りで彼のクラスまで赴く勇気はまさか僕にあるはずもない。  だから全体集会で講堂に集まった時は、必死で山本の姿を探した。相変わらずみんなに囲まれて雑談している彼を見つけると、久しぶりの山本の姿を目の当たりにして感動すら覚えた。思わず大声で名前を叫びそうになったくらいだ。  けれど、胸が弾んだのも束の間で、いつもの山本と様子が違うことにすぐに気がついた。  あの、いつもの眩しさ溢れる笑顔が無い。仲間と一緒に笑っているのに、瞳には靄がかかっていて、どこか虚ろって見えた。   (休みの間、何かあったのかな……)    僕は心配になりつつも、図書室でまた落ち合った時に話を聞いたらいいか。その時はそんな風に悠長に構えていた。  それからなんとなく日々を過ごしていたら、あっという間に一週間が経ってしまっていた。  毎日図書室で待っていても、山本は来ない。新学期の翌日から始まったサッカー部の練習を相変わらず窓から毎日眺めていたけれど、山本は校舎側に背ばかりを向けて、練習風景を見下ろす崇人を見ようと顔を上げる事もなかった。  さすがにおかしいと思って、休み時間に山本の姿を探して教室の前をウロウロしてみた。廊下から彼の姿を見つけるや否や、気づいてほしくて思わず熱い視線を送ってしまう。山本もそれに気づいて僕の方をチラリと見た。目と目が合った。気づいてくれたとホッとしかけたところで、山本は直ぐに素っ気なく視線を外すと、何事もなかったように友達との会話に戻ってしまった。崇人の姿どころか、まるで何も見えていないような素振りだった。   (今、無視した……?)    胸の内がザワザワと大きな音を立てて波立つ。手のひらがジワリと汗ばみ、思わず足がすくんだ。鉛のように重くなった足を引き摺りながら、山本のクラスを離れて自教室へ戻った。   (僕、何かした……?)    自分の席に座ると、感情の無い冷たい瞳で崇人の方を一瞥した山本の姿が、まざまざと脳裏に蘇ってきた。  会えなかった休みの間に山本は心変わりした?  やっぱり、男の僕とをしたのを今更悔やんだ?  僕を……僕の存在を『気持ち悪い』と思った……?  崇人の心に不安の塊が一気に押し寄せてきた。最悪なシチュエーションばかりが頭に浮かんで、身体が震え出して鳥肌が立つ。    「なんで……」    崇人は静かにそう呟くと、山本の仕打ちに目の前が真っ暗になった。その日一日は、もう何も考えられなくなってしまった。  ********  山本に無視されてから、彼を見るのが怖くなった。無意識のうちに彼の姿を探していたはずの僕は、逆に意識して彼を探さないでいるようになった。  二人で過ごしたあの時間は一体何だったのだろう。僕は山本が大切な友人で、いや。それ以上に特別で……。  初めてそのままの僕を受け入れてくれた人だ。  僕は山本が好きだ。彼も僕が好きなはずだ。僕たちは好き合っているはずだろう?あの日、帰り道で約束したじゃないか。またすぐ会おうって。  何が何だかわからない。山本の気持ちがまるでわからない。僕と会わなかった数週間の間に、一体何があったのだろう。崇人は自問自答を繰り返すも、答えに辿り着けず頭を悩ませた。食欲も失せて、何も手につかなくなっていた。  このまま何も無かった事にするのは簡単だ。夢を見ていたと思えば、それまでだ。山本への気持ちを押し殺して今まで通りの元の生活に戻れば良いだけだ。そう考えれば考えるほど、彼との甘く痺れる触れ合いを思い出してしまって、全てを諦める事に後ろ髪を引かれる。   (やっぱり、ちゃんと話さないとだめだ!)    このまま燻っていても何も解決しないし、先へ進めないと思った崇人は山本の部活が終わるのを待って、思い切って直談判してみることにした。  *******  サッカー部の練習が17時に終わる。ミーティングや片付け、着替えを考慮して17時15分には部室の前に待機しようと崇人は意気込んでいた。  図書室で気持ちを落ち着かせて、山本へかける言葉を考えていた。自分の気持ちを正直に口にする事で山本の気持ちをまた取り戻せるのなら、僕の想いを全部伝えようと決心した。  山本と対峙する不安と恐怖が無いと言ったら嘘になる。けれど、なんとか自分自身を奮いたたせて部室へ向かう。  時間少し前に着くと、一年生の二人が部室の戸締りをしている所だった。崇人に気づくとぺこりとお辞儀してから、話しかける間も与えず、あくせくと足早に立ち去ってしまった。   (え!いない?こんな早くに全員、もう帰った……?)    部室の周りはシンと静まり返っていて、さっきまで人が居た気配すら全く感じられなかった。ここへ来るまでの間にサッカー部の面々にすれ違うことすら無かったので、崇人は不自然なこの様子を訝しげに思った。図書室へ向かう前にグラウンドで練習しているのは確認済みなので、今日は絶対に活動をしていたで間違いない。活動時間を超えての校庭使用は禁止されているからまだ練習しているのはあり得ない。それに練習が終わってからこんな短時間で部員全員が帰宅しているのも今まで見た事がない。何かトラブルでもあったのか……。  崇人は気になって、サッカー部の用具が仕舞っている倉庫の方を覗いてみることにした。この時間の教室は鍵が掛かっているので入れないし、最後の頼みの綱である倉庫にいなかったら、山本はもう家に帰っていることになる。決心が揺るがないうちに今日は何が何でも山本へ自分の心情を告白したかった。  校庭の裏側にある倉庫へ、緊張で足元がもつれそうになる。けれど、なんとか気持ちを奮い立たせて向かった。近づくにつれて倉庫にうっすらと灯りがついているのが確認出来た。  やっぱり、まだここにいたんだ。崇人は中の様子を伺おうと、西陽が照りつける倉庫のドアの前へそっと耳を傾けて近寄った。  その瞬間、『ドンッ』と強くボールを壁へ打ち付ける音が響いた。突然の衝撃にびっくりして、崇人は「わっ」と思わず声をあげて尻餅をついた。   「おい。なんか今、声しなかったか?」   「え。まじか?ちょっと確認しろよ」    中から部員たちの声が聞こえてきた。  まずい!と崇人は焦ったが隠れる場所も暇もなく、ガチャリと内側からドアが開いた。  中には三年生の部員が五人、同じ方向を向いて立っていた。倉庫の四隅には山本がぽつんと独り、直立不動で立っていて、真っ青な顔色をしていた。崇人が目の前に現れると、まるで谷底に突き落とされる寸前の恐怖に怯える表情へ一瞬で変わった。   「あ?誰だこいつ?」    ドアを開けた部員が崇人を見て顔をしかめる。  崇人はドアの向こうの物々しい雰囲気をすぐに察して、瞬時に目玉をギョロギョロと左右に動かして状況を確認しようと努めた。微妙に震えながらも何とか立ち上がって山本を呼び出そうと一歩前へ出た。   (右の壁奥に誰かいる……)    前へ踏み出した瞬間、室内の様子が視界に入ってきて崇人はハッとなった。生徒が独り、正座させられたまま顔や体を真っ赤にして腫らしていた。口や瞼の上は切れて血が滲んで固まっている。  少年の周りにはサッカーボールが幾つか転がっていて、所々に飛び散った血が点々としていた。恐らくまだ一年生であろう幼い生徒はひどく怯えて震えていて、目が合った瞬間、『助けて』と即座に崇人へ涙目になりながら合図を送ってよこした。   「な、何てことしてるんだ!やめろ、やめろよ!今すぐに!」    崇人は咄嗟に声を荒げて叫んだ。  集団リンチを目の当たりにした崇人は驚きや怖さより、目の前で虐げられている彼をただ助けなきゃいけないと身体が勝手に行動していた。   「あはっ。どっかで見たことあると思ったら、やっぱそうだ。そいつ、カズマのホモ友じゃん」    ドアを開けた奴の後ろに居た、ひときわ横柄な態度の生徒がニヤニヤ嗤って小馬鹿にしながら言ってきた。  副キャプテンの棚岡だった。山本と連携プレーをしていたから否が応でも視界に入ってきてその存在を覚えている。  ――『ホモ友』  その言葉を聞いて、周りにいた生徒たちが一斉に崇人の方を見て嫌悪に満ちた視線を落とす。   「てか、何で部外者のコイツがここに居んの?かずまが恋しくなって後つけてきたか?」    その場にいる全員がクスクスと嘲り嗤う。  山本は崇人の方を見ようともしない。わざと視界に入らないように右腕を抱えてずっと下を向いている。  崇人は決心してドアを押し入り、一年生であろう生徒の元へ急いで駆け寄った。ポケットから取り出したハンカチで腫れた目元から切れて滴る血を拭ってやる。   「おい。なに部外者が勝手に入ってきてんだよ!てめえ、ふざけんな!」    ボールを小脇に抱えた、恐らく少年へ向けて何度もボールを蹴っていた奴が怒鳴る。   「こんなことして……年下の子を相手に信じられない!いじめじゃないか!リンチじゃないか!今すぐ、先生に報告させてもらう」    一方的に傷つけられたボロボロの後輩の姿を見て、沸々と腹の中に渦巻くような怒りが湧いてきた。いつの間にか弱いはずの自分はどこかへ消えて、崇人は毅然とした態度で抗議した。理由は何であれ、こんな卑怯な行為をしている彼らに対して心底軽蔑した。 〈バンッ!〉  崇人の横顔スレスレにサッカーボールが勢いよく飛んできて、後ろの壁に強く当たった。   「そいつを庇うならお前も同罪だよ。つーか、急に現れて一体何なんだよ、てめぇはよ」    部員たちの苛ついた視線に思わず怯みそうになる。部外者が急にしゃしゃり出て邪魔しに来た現場は、部員たちの怒りの矛先は崇人へ向かった。   「てかさ、これ見ちゃったんだからヤバいってわかるよね?」    棚岡がゆっくりと崇人に近づいてきて、さも愉快そうにニヤついた。   「お前が先生にチクるとか、そんなのはマジでどうでもいいんだけどさ、さすがに勝手に入ってきて正義ヅラしだすとか。俺たちの立場ないんだけど」    目が笑っていない。  棚岡は同じ中学三年生とは思えない、やけに迫力のある奴だった。山本が廊下でよく声をかけてくれた時、冷たい視線で僕の方を見ていたのを記憶している。だけど、まさかこんな暴力行為をする奴だとは思わなかった。  崇人は自分が次に何をされるのか大体の予想がついて、思わず恐怖に鳩尾が唸った。一瞬、目をギュッと瞑って覚悟した。棚岡は崇人の首の後ろに手を回すと、襟足の髪の毛をぐいっと強く引っ張った。反動でメガネが弾け飛んで床に音を立てて落ちた。   「女みてぇな顔してんな、コイツ」棚岡は崇人の顔をまじまじと見つめて、ぼそっと呟いた。ビリリと頭皮に痛みが走って思わず「いたっ」と、甲高い声が出た。   「おい、かずまぁ!お前のホモ友がイキってきた責任、お前が取れよな」    微動だにしない強い力で引っ張りながら、棚岡は山本の方へ振り返って叫んだ。  瞬間、頭の中が真っ白になった。ゆっくり瞼を開くと、山本の方を見た。山本はビクリと体を震わせた。脂汗を掻いて視線は泳いでいた。   「そうだ。ホモ同士、ここでヤってみたら見逃してやるよ。チンコしゃぶったり、ケツの穴使ってヤるんだろ?ほら、やってみろよここで。余興だ、余興!」    軽蔑した目をしながら棚岡は高笑いした。   「う……」言葉にならない声を山本は漏らしながらたじろいだ。周りからは「ウケる」「キモっ」「マジで無いわ」散々見下して揶揄う声が聞こえてきた。   (な、んで……)    崇人は真っ青になりながら震える唇で棚岡へ必死に抵抗した。抗っているはずなのに、声が出せない。ぱくぱくと口を動かすだけで、喉の奥が詰まって言葉が出ずに消えてゆく。   「……なんだよ。部活の輪を乱してまでコイツと会ってキモいことしてたんだろ?簡単だろーが。早くやれよ、和真。何してんだよ!」    棚岡は苛つきながら下を向く山本の方を睨んだ。襟足を依然、強い力で引っ張りながら崇人の体を倉庫の壁へ打ち付けると、制服のスラックスに手をかけた。   「やらねーなら、こっちで脱がしてお前の所へ押し付けに行ってやるよ」    やめろ。やめろ、やめろ、やめろ!!!  崇人は恐怖と羞恥に慄いた。  棚岡の手が崇人のベルトを外そうとしたところで山本が叫んだ。   「やめろ!!!」    あまりの大声の迫力に、全員が一瞬止まってから山本の方を振り返った。   「俺がホモとか気持ち悪ぃ事、勝手に言ってんじゃねぇよ。こいつがなよなよしたカマ野郎だから、遊びでちょっとからかってただけだ。こんな気味悪ぃ奴、友達でも何でもねぇよ。一緒にすんな!」    山本は声を震わせながら、暴言を吐き捨てた。崇人を必要以上に傷つけているくせに、こちらを睨みつけて大声を出すその姿は、今にも泣き崩れ落ちてしまいそうなほど脆弱でみっともなかった。  この人は一体誰だ?本当に僕の知っている山本なのか?山本のあまりに変貌した姿に崇人は軽く目眩がしてきた。   「あっそぉ。あんなに仲良さそうにイチャついてたくせにな。――だってよ!ホモ野郎。和真に裏切られてやんの。つか、胸糞悪ぃんだよ、お前ら!」    棚岡は籠に入っているサッカーボールを掴むと、腕を振り翳して山本へ投げつけた。顔を庇った腕に勢いよく当たって、大きな音がした。   「まぁ、もう飽きた。どうでもいいわ。変な邪魔入ったけど、クソ生意気な一年も締めれたし、和真みてぇなクソキャプも潰して辞めさせたしな。満足だわ」    その言葉に崇人は驚いてもう一度山本の方を見た。  どういう事だ?山本がサッカー部を辞める?あんなに真剣に向き合っていたサッカーを?なんで……?  山本は小刻みに震えながら真っ白になっていた。  表情が読み取れない。恐怖に慄いているようにも、悲しみに打ち震えているようにも、逆に、全てどうでも良いからとにかく早くここから逃げ出したい様にも見えた。  突然、リンチに合っていた一年生が悲鳴のような大声で泣き叫びだした。張り詰めていた緊張が極度に達したようだった。泣き声が響き渡った瞬間、顧問と数人の教師が倉庫に乗り込んできた。   「何やってるんだ!お前らぁ!」    鬼の形相で叫ぶ顧問の後ろに、先ほど部室に鍵をかけていた一年生の二人が先生の後ろに震えながら隠れてこちらの様子を伺っていた。   「何って。見ての通り、ミーティングっすよ。まぁ、白熱はしましたけど」    棚岡がしれっと答えた。あまりに堂々としているので、先生たちも一瞬、怒りを忘れて思わず言葉に詰まって怯んでしまっていた。グズグスとしゃくり上げながら泣きじゃくる一年の元へ擁護の先生が駆けつけると、そっと肩を抱いて倉庫から連れ出した。   「と、とにかく喧嘩するにも度が過ぎているぞ!話は生徒指導室で聞く。お前ら、早くここから出ろ!」    顧問はたじろぎながらも、棚岡たちを倉庫から荒々しく掴まえて外へと出した。それからサッカー部ではない部外者の僕を見つけるとギョッとして驚いた。   「本田じゃないか。君はサッカー部じゃないだろう。なぜここにいるんだ!それから、メガネどうしたんだ?」    落とされてひび割れたレンズのメガネへ視線を落とした。  図書室で屈託のない笑顔で微笑む山本に『メガネ取ってみてよ』と言われた光景が急にフラッシュバックしてきて、どうしようもない焦燥感で胸がいっぱいになった。  倉庫を引き摺るように重い足取りで出ていく山本に向かって、崇人はすがる様な声で「和真...!」と叫んだ。初めて名前を呼んだ。ずっと、ずっと面と向かって呼びたかった彼の名前。  一瞬だけピタリと立ち止まって崇人の方を振り返った山本の目には、今にも溢れ落ちそうなほど涙が溜まって潤んでいた。何か言いたげな表情で口元をまごつかせたが、震える唇を噛み締めるばかりでついに言葉は何も発せられなかった。   (なんで泣くんだよ……山本、何か言ってくれよ)    山本を引っ張る顧問から「とにかく、本田からも説明してもらうからな!」と厳しい口調で叫ばれた。けれど、先生から言われた言葉すらも、まるで他人事みたいにぼんやり耳に入ってくるだけだった。去り行く山本の姿しか今は認識できない。考えられない。頭に浮かぶのはひたすらに「なぜ?」という疑問しかなかった。結局、山本の事が何も分からないまま僕らの関係は、突然断ち切られてしまった。  僕だけが夢を見ていたのかもしれない。山本と過ごした時間は、触れた肌の熱は全て幻で、僕と山本は一緒にいたようでまるで違う方向を見つめていたことに、今更ながら気づかされる。どれだけ恋というものに僕は浮かれきっていたのだろう。始まりがあれば、終わりがある。けれどこんなにも突然に、こんなにも残酷に、ぷつりと糸が切れたような終わり方があるなんて想像すら出来なかった。  鋭利な言葉の刃でえぐられた僕の胸は、大きく深い穴が開いたままだ。そこへヒューヒューと冷たい風が容赦なく吹きつけて、えぐれた傷口をこれでもかと突き刺すように痛めつけてくる。  僕は一体、何だ。山本にとっての僕は。僕にとっての山本は――  触れ合ったひと夏が、随分と遠い昔の事のように思えた。震えるほど歓喜した彼への情熱が、今はとてつもなく苦しい。感情と肉体が別々の場所に切り離されて、それぞれが激痛に声を荒げていた。  ********* 「たかちゃん!」    夜の9時を過ぎた時分に家へ帰宅した。玄関を開けると、母が真っ青な顔色をして立っていた。その表情はとてつもなく心配している風を装ってはいるけれど、同時に正体不明の謎の怒りもチラチラと見え隠れしていた。   「担任の先生から電話があってびっくりしたわ。一体何があったの?あなた……メガネは?それにそのワイシャツの汚れは何なの?」    黒く血がこびりついた薄汚れてボロボロの状態の僕を見るなり、母の声色が変わった。  とにかく疲れていて今は正直、母と話すのも億劫だった。   「喧嘩があったって聞いたけれど、誰に何をされたの?あなたはそんな事に巻き込まれる子じゃないでしょう。一方的にいじめられたのね?そうなんでしょう?ねぇ、たかちゃん。何があったのか言ってちょうだい」    帰って早々、金切り声でしつこく責め立ててくる母にうんざりした。   「別に何とも無いよ。ちょっとトラブルに巻き込まれただけ。明日、説明するよ」    母の顔も見ずに僕は下を向いたまま自室へ駆け込んで鍵をかけた。すかさず母が追いかけて来て、ドアの外で喚きたてる。妹も何事かと部屋から飛び出して「どうしたの?」と僕の部屋の前へ集まって来た。  甲高い声で扉の向こうから何か騒いでいるけれど、僕にはその言葉を聞く元気も、返答する力もなかった。母の甲高い耳障りな声も、どこか他人事の様に遠いものに聞こえる。とにかく今は眠りたい。もう、本当に疲れたんだ……  翌日は土曜日で、僕はほぼ丸一日ベッドの中でうずくまったままでいた。汚れた制服を着たままで、着替える気力さえなかった。時間の感覚をすっかり無くしていた。窓から差し込んだ夕陽の眩しさでようやく目が覚めて、のそりと起き上がった。眠ったような気もするし、ずっと起きていた様な気もする。胃が空っぽの状態でも食欲どころか水一滴すら欲しくなかった。  しばらくして、ぼんやりしながらも風呂に入って汚れを洗い流したい気持ちが湧いてきた。部屋の鍵を開けてそっと出てみる。母がそれに気づいて血相を変えて僕の部屋まで上がって来た。   「たかちゃん。先生と電話で話して全て聞いたわ。あなた、一年生を守ったんですってね。お母さん、あなたがいじめの標的になったんじゃないかって気が気じゃなかったわ」   「……別に守ったりなんかしてないよ」   「それで思い出したの。たかちゃん、夏休みにお友達のお家へ遊びに行ったじゃない?山本くんって子だったわよね?あのお友達もサッカー部で今回の事件に関わってるって先生がおっしゃってた。こんな不良のお友達と知っていたなら、お母さん、遊びになんて絶対に行かせなかったわ」    母の怒りに満ちた甲高い声が、気怠く重い身体にビリビリと響いた。その声に耳をつんざかれて、崇人は思わず不快な表情を見せた。   「……山本は関係ないよ」   「嘘おっしゃい!」    母は急に大声で怒鳴った。   「今までこんなこと一度もなかった。いつも真面目で優しいたかちゃんは一体どこへ行ってしまったの?あの子がたかちゃんを変な方向へ連れて行こうとしているんでしょう?」   「変な方向って、何……?」   「そうよ。あの子と仲良くなってから、たかちゃんの様子がおかしいもの。毎日図書室で勉強してるって言ってたけれど、あきらかに帰りも遅いし、すぐ部屋に閉じこもる。何か悪い事を企んでるんだわってお母さん毎日毎日心配で胃が痛かったのよ!あの子が全ての元凶ね。嫌がるたかちゃんを無理矢理に引き込んで悪い事させてるって先生に抗議の連絡をするわ。あちらの親御さんとも話して一切の縁を切ってもらわないと!それから――」    白熱する母の言葉を遮って、僕は叫んだ。   「うるさい!もう、やめろよ!山本は悪くない!」    崇人が生まれて初めて出した怒鳴り声に、シンと一瞬、室内が静まりかえった。すると、母親の顔はみるみる内に怒りの感情を溜め込んで歪み始めた。温厚な息子が声を張り上げて歯向かってきたことにショックを受けたと同時に、母の考えを否定された事が癇に障ったのだと崇人はすぐに気づいた。   「親に向かって……貴方……何言って……」    母は崇人を真っ直ぐに見つめて、呆気に取られながらも言葉の端を震わせる。崇人も負けじと睨み返す。自分の力では何も解決出来ない自身の不甲斐なさがどっと押し寄せてきた。他の誰でもない。貴方の子供である僕自身に落ち度があると、何故分からないんだ。気持ちを察してくれない理不尽にも似た怒りが母に対して沸々と湧いてくる。次第に興奮してきた崇人は掌をきつく握りしめながら喉の奥から声を振り絞った。   「こんな事になったのも、僕が……僕があいつを好きになったせいだ!」   「……え?」    母の表情がピタリと止まった。   「僕は同性が好きなんだよ。僕が山本の事を一方的に好きになって、一緒にいたかっただけだ。ただ、それだけ。あいつから酷いことなんて何ひとつされてない!それから、僕らは悪い事をしたり、誰かに迷惑なんてかけてない!」   「え……?たかちゃん?何言って……」    母の顔を見て、ハッと我に返った。  眉間に皺を寄せて、苦痛に歪む表情をしていた。息子の発した言葉の意味が、全く理解できない。まるで時が止まってしまった様だった。  喉の奥が焼ける。喉仏のあたりが急に締まって、唾も飲み込めない。内側がただれたみたいにゾワゾワ、ムクムクと違和感が襲ってきて焼けるように熱くなった。声を発せようとも、何も言葉にできない。  固く結んだ手のひらは汗ばんで、握りしめている感覚がいつの間にか無くなった。   「お母さん…………ごめん」    長い長い、永遠とも思える沈黙の後、やっと口から捻り出した一言。  恐怖と絶望が混じった、僕への嫌悪感に溢れる母の顔を見てしまっては、ただ謝る以外は何もできなかった。  言わなければ良かった。  なぜ、言葉にしてしまったんだろう。一生、隠し通すと自分自身に誓ったはずだ。  山本を守ろうとして、咄嗟に口に出してしまった真実。もう手遅れだ。全てが終わった。母は自分を責め、家族からは狂人扱いされるだろう。  息子の思いもよらないカミングアウトに、母は言葉を無くして呆然とその場に立ちつくしていた。  僕はいたたまれなくなって、風呂場へ走って逃げ込んだ。浴室の壁にもたれながら、熱いシャワーのお湯を頭上から降り注いだ。自分でも何が何だか分からないぐちゃぐちゃの感情と一緒に、溢れて止まらない涙が排水溝へ吸い込まれるように流れていった。  

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