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第9話 恋する自分
「イラついてんなぁ。女か?」
先輩の武井が横目でチラリとリョウを見た。
「違います」
リョウはワイングラスを丁寧に拭き上げながら、隣には見向きもせず、冷静な口調で一言だけ答えた。
「うっそだぁ!毎日スカしてる野郎の様子見てりゃあ分かるっつーの。お前に何かあった事ぐらいお見通しだわ!」
武井は大袈裟にリアクションを取ってリョウに食い付いてきた。この人は妙に勘の鋭いところがある。俺を揶揄う格好の面白いネタを見つけたと言わんばかりの期待する眼差しが正直、鬱陶しい。
「何でそう思うんです?別に、いつもと変わりないですよ」
リョウは表情ひとつ動かさず、黙々と作業に集中する。
「おーい。先輩に冷たくすんなよ!言葉にしなくてもさ、お前の顔に『悩んでます』って書いてあるのが見え見えなんだよ。いいか。女なんてよ、納得いかなくても、とりあえず謝っときゃいいんだよ。んで、その後に抱いてやれば大体は機嫌なんてすぐ直っちまうもんなんだよ」
鼻息荒く力説する武井の横で、リョウはグラスを見つめながら手を休めることなくせっせと動かし続けた。しばらくして、はぁ。と小さくため息つくと、武井の方へ視線だけ向けた。
「たかが女の話なら、もっと事は単純ですよ」
「え?なに?女で悩んでんじゃねーの?ていうか、たかが女ならって何だよ!お前、ちょっと顔良いからって上から目線のムカつく発言すんな!」
意外な反応に武井は思わず目を丸くして驚いた。それと同時にリョウの生意気な返しに怒ったフリをしながら、肩で小突いてきた。
「お前、明日は遅番だろ?今日飲みに付き合え!先輩に向かって偉そうに物申した罰だ。そんでお前のその辛気臭ぇ面してる理由、教えろ。根掘り葉掘り聞いてやるよ。洗いざらい暴露させるから覚悟しろよ!」
武井は肩に腕を回して、せっせと仕事に勤しむリョウの顔を覗きこんで宣言した。
「……俺の分、終わりましたよ。武井さん、残りのグラス20個よろしくお願いしますね。あと15分で開店ですけど」
曇りひとつない美しいワイングラスが目の前にずらりと並ぶ。リョウは満面の笑みを浮かべて残りをお願いすると、武井を置いてさっさとその場を後にした。背後から焦った武井の声が聞こえる。
「え?あっ!いつの間に!?何だよ!ひとりでさっさと真面目に仕事しやがって!いいか。今日、絶対飲みに行くからなー!」
武井さんは一見、チャランポランで適当な先輩の素振りをしておきながら、国内のソムリエコンクールを史上最年少で総なめにしている実は凄い人物だ。それにも関わらず、仕事中とそうでない時の人格がまるで違う。ギャップが大き過ぎて思わず笑わずにはいられない。
都築さん亡き後、俺は今、5つ星ホテルでソムリエとして修行している。先輩の武井さんは、俺のことを何故かとても気に入ってくれていて、何かと世話を焼いてくれる。ソムリエの更にその先、ソムリエ・エクセレンスを目指している俺にとって、彼からは学ぶ事だらけだ。
繊細な舌と味覚センス。ワインに関する莫大な知識。それに何よりも完璧で洗練された所作の美しさから接客マナーにおいて、非の打ち所がない。
まず俺が目指すべき目標がこの人になる訳なのだけれど……良い歳した大人のくせに、どうにもこうにも恋愛ゴシップ好きなのが玉に瑕だ。なんでも俺みたいな一匹狼のタイプは、つい構いたくなって放っておけないのだと(無理矢理に連れて行かれる居酒屋で)呑んでる最中に言われたことがある。
俺もなんだかんだ言いながら、この人を尊敬しているし、何よりも一緒にいて居心地がいいのは確かだった。都築さんが亡くなってから、とてつもない大きな喪失感に襲われていた俺にとって、彼の破天荒だけれどプロフェッショナルな姿は、新たな道を示してくれる一筋の光と言っても過言じゃなかった。
リョウは武井に気づかれない所でくすりとひと笑いしてから、開店に向けて気を引き締めた。
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武井と(結局強引に連れて来られて)呑んだ後、リョウは酔い覚ましも兼ねて遠回りして歩いて帰る事にした。
実際は酔っている訳でもないけれど、新宿東口の人混みと騒音が今のモヤモヤした行き場のない心情を少し楽にしてくれるので居心地がいい。街を照らす明るすぎるネオンと足早に行き交う人々の中に埋もれてしまえば、俺が何者であるかなんて、誰も気にする人はいない。
自分の話をするのは、今でも苦手だ。
都築さんと知り合って、この世界に入ってからは少しは人並みにコミュニケーションが出来るようになったとは思う。けれど、むしろ自分の事が話題に上がるのを避けたいが為に、人との交流を絶ってきた人生だ。自分でもわかり得ない複雑なこの感情を、そう簡単に上手く言葉にして他人へ説明なんて出来る訳もない。
それでも何とか頑張って、ぎこちないながらもざっくり掻い摘みながら、この燻っている気持ちを説明してみた。武井さんは珍しく、うんうん。と黙って焼き鳥を頬張りながら話を聞いた。話の最後に一気にビールを流し込むと、ケロっとした顔で「お前、そりゃ恋してんだな」と、あっさり言ってきた。
「えっ!」
驚くしかなかった。武井から発せられた予期せぬ意外な言葉がまるで信じられなかった。
『恋』? 何だそれ。俺には無縁の言葉だろ。正直、その言葉の意味が俺にはまだ理解出来ずにいる。家の前で倒れていた奴を介抱して、その後に色々あって……(その後の事は武井さんには言えなかったけれど)連絡先を聞き忘れて、でも相手がまた自分の所へ会いに来てくれるをこの二週間ずっと待っている。
これだけの話で、どうしてそれが『恋』に結びついて、その上それが『恋』だって断定できるんだ?
「お前の事だから誰かに執着するなんて、今までなかったんだろ?まぁ、その見た目じゃ相手から来る事の方が多いだろうし、自分から行かなくても幾らでもお前と関係を持ちたいって子達が次から次へと湧いて出てきただろうよ。ほら、いつだか居たよな。お前を追っかけて店まで突き止めて来た女。泣いて騒いで、捨てられた!って店の中で叫びまくって……あれは大変だったよなぁ」
武井は「懐かしいなぁ」と、一人勝手に当時の出来事を思い出してニヤニヤしだした。
「……その話、もう忘れてくださいよ」
隣でリョウは苦虫を噛み潰したような顔をする。
「あん時もさ、お前はいつも通りのポーカーフェイスで、その女に対して一ミリも情なんて有りません。って顔しながら淡々と対処してたよな。そんな奴が突然、ボケッとした間抜け面で気もそぞろな様子なんだから、どっからどう見ても非常事態だろ。いやぁ。でも、お前にも人並みの感情があったんだなって俺は安心したよ。都築さんがいなくなってからはさ、お前は輪をかけて、機械みてぇに冷たい感情の無い表情してたからさ。尚更心配だったんだぜ」
ちびちび酒を口にしながら、優しく微笑んで話す武井さんの表情は、都築さんが俺に接してくれる時と同じ、心強くて安心するものと似ていた。不意に思い出してしまい、心臓がギュッと締め付けられて切なくなった。
都築さんを亡くしたショックは確かに大きかったけれど、自分の中では変わらずちゃんとやれていて、周りに気を使わせていないつもりだったけれど武井さんにはお見通しだった。改めてこの人は俺のことをよく見ていて見守ってくれていたんだと感じる。都築さんの代わりを買って出てくれているわけじゃないけれど、感謝してもしきれない。
「ま、変なトラブルに巻き込まれてたとかじゃなくてよかったよ。お前から恋バナなんぞ聞く日がまさかくるとはな!青天の霹靂だぜまったく。その子と上手くいくといいな。お前には幸せになって欲しいんだよ」
武井さんは別れ際に、明るく笑いながらそう言って帰って行った。
実際もっと突っ込まれて有る事無い事、面白おかしく揶揄われるのかと思った。相手が女性だと勘違いをしてはいるけれど、意外なほどあっさりしていたのでなんだか拍子抜けしてしまった。
『恋する自分』が、武井さんの言う通り本当なのかどうかを確かめるには、やっぱりもう一度、崇人に会う必要がある。
ふと、ゲイバーの『Utopia』の名前が頭をよぎった。
崇人があの日、そのBarに行っていたか確証は無いけれど、薬を盛られていた事実とフゥの話がどうにもリンクして仕方がない。
リョウはスマホを取り出してBarの所在を検索し、店へ行ってみる事にした。もしかしたら、崇人の事を知っている奴がいるかもしれない。彼に繋がる僅かな希望を求めて、リョウは真夜中の新宿を横断した。
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