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第10話 運命ならばまた会える
『Utopia』はリョウの自宅からそう遠くない距離に在った。これなら崇人が意識を朦朧とさせながら、家にまで歩いてきていてもおかしくは無い。
遠くからでもわかるほど、チカチカ光るネオンとスポットライトの照明が、やけに明るくて思わず目を細めた。ちょうど店に入ろうとする男が目についたので何気なく直視してみると、まさかの本人だった。
「崇人!」
リョウは全速力で走って叫んだ。
ドアに手を掛けて入ろうとした瞬間、崇人は自分の名前を呼ばれて、ビクリと大きく驚いて固まった。
(誰……?)
恐る恐る声の方を振り向いて見ると、その瞬間、時が止まった。会いたくて会いたくて仕方がなかったリョウがそこに居た。
「え、リョウさん……?」
「まじかよ。まさか、本当に本人がいるなんて」
「え、え……?何で、ここに?」
眩しいネオンの灯の下で、二人は驚きながらも、また会えた喜びで細胞がふつふつと沸き立つのを感じた。他のものは目に入らない。世界が一瞬のうちに静止したみたいだった。周りの景色は一気にぼやけて、お互いの姿だけ、はっきり輪郭を伴って浮き彫りにさせた。
「崇人の事、知ってる奴がいるかなって思って来てみたら、こんな偶然あるんだな」
リョウは息を切らしながら、口元を綻ばせてそう言った。
その瞬間、『Utopia』のドアの向こうから人の声が近づいて聞こえてきた。崇人は「まずい。誰か来る」と感じて、咄嗟にリョウの腕を取ってその場を離れた。
「え?ちょっ、え?」困惑するリョウを強引に引っ張って走らせる。Barから少し離れた裏路地に入ると、ぼんやりと電燈が灯る電柱の下で、二人して立ち止まって息を切らせた。
「(――ハアハアハア)ごめんなさ、い。リョウ、さん。急、に走らせ、て……」
「いや……(――ハアハア)一体、(――ハアハアハア)どうしたんだよ?(こいつ足速ぇな)」
二人は肩で息しながら呼吸が整うのを待った。
「知り合いの声がしたので……つい。貴方を巻き込みたく無かった。リョウさんの顔を見られたらまずいと思って。強引に走らせて、本当にごめんなさい」
「いや、別にそれはいいんだけど。それより巻き込みたくなかったって、どうしたんだよ?何かあの店とトラブルでも抱えてんの?」
崇人の顔色がサッと青くなった。
「あ、えっと……」
「あの日、崇人が薬盛られたBarって、Utopiaだったんだろ?もしかして、と思って俺はこうして探りに来てみたんだけど」
「……はい」
「よく行ってる所なの?」
「ち、ちがっ!あのBarにはリョウさんと会ったあの日が初めてで。あの夜、店内の様子がおかしいと思って、ギリギリの所でなんとか逃げて来たんです。でも、後日、自分では知り得ない弱みを握られてるのがわかって……。今日、それを取り消してもらうためにもう一度あの店へ行こうとしていたんです」
「弱み?どんな事されたのかは知らないけど、薬盛られたあの店にまた独りだけで行くのはさすがに危なすぎるだろ。訳を話してよ。何か手助けできるかも」
崇人は一瞬、話すのを躊躇うような顔をした。けれど、リョウから発せられる逃げられない圧がひしひしと伝わる。これはもう正直に言うしかないと観念して、事の次第を説明し始めた。
*******
「なるほどね。話はわかった。結論から言うと、動画は撮られていない。信じ込ませる為のただのハッタリだな」
俯く崇人が驚いたようにパッと顔を上げた。
「もし本当に撮られているなら、とっくにネットに上がって晒されてる。そもそもレイプっていう犯罪行為をしてるんだから、アンタの許可なんかいちいち取る訳がないだろ?」
気落ちしていた崇人の表情が一転して明るくなった。リョウの言葉がストンと腑に落ちたらしい。
「そう、です……よね。本当に、そうだ。あれ。何で僕、そんな簡単な事に気付けずいたんだろう……」
「まぁ、急に訳わかんねぇ脅し言われたら誰だって判断鈍るし、怖いよな」
リョウは崇人をジッと見つめた。
その眼差しから、突然リョウに会っている実感が一気に湧いてきて、崇人は思わず頬を赤らめて恥ずかしそうに目を逸らした。
(急に色々ありすぎた。リョウさんにやっと会えたのに。こんな展開だし、こんな所でまた会うなんて嘘だろ……)
急に襲って来た困惑から、崇人はギュッと唇を噛み締めた。すると同時に腹がキュルルと鳴った。
「え、あ、お腹……」
考えてみれば緊張して何も食べていなかった事を思い出した。慌てて腹を押さえて恥ずかしがる崇人を見ながら、リョウは、ふふっ。とはにかんで笑った。
「ラーメン好き?俺も丁度呑んで来たところだから、食いに行かない?」
**********
注文して待っている間にリョウは崇人をまたジッと見つめていた。
カウンターで隣同士に座る距離が近過ぎて、崇人はリョウの事を直視できない。彼からの視線が痛いほど刺さって、「何でずっと見られてるんだろ……」崇人は不思議に思いながらも緊張で萎縮したまま、ただドギマギしているしかなかった。
「お待たせしましたー!」
ラーメンが目の前にドンっと置かれて、おずおずと崇人は箸を割った。リョウは先にさっさと食べ始めていて、麺を啜りながら、ぱらりと落ちてくる束ねた前髪を耳に掛け直した。
(あ、この前と一緒だ……)
崇人は出会った翌朝、コーヒーを運んで来てくれた時のリョウの横顔を思い出した。思わず下半身にぐっと力が入ってしまう。
この人、何て綺麗にラーメンを食べるんだろう。リョウの美しい所作に、思わず食べるのも忘れて見入ってしまった。
「食べないの?」
リョウは箸を止めて不思議そうに問いかけた。崇人は我に返って、慌てて「いただきます!」と言って食べ始めた。その様子を見ていたリョウは、ゆっくりラーメンをつつきながら話しかけてきた。
「あのさ。また来てくれるって言ってたから、この二週間いつ来るのかなって正直待ってて。あ、お礼が欲しいとかそういうんじゃなくて。なんて言うか……」
「あっ、そ、そうですよね。伺いますって言っておいてこんなに日が経っちゃって……実は先週の金曜日の夜、リョウさんの家にお伺いしたんです。終電まで待ってたんですけど、お留守だったんで明日また伺おうと思っていたところで」
「え。そうだったんだ……ごめん。俺の仕事、シフト制だから休みが不定期で。帰ってくるのも店が閉まった後だから深夜1時過ぎとかになったりするんだよな」
「 (……やっぱり仕事だったんだ) あの、仕事って何されてるんですか?」
「ソムリエだよ。今は新宿のグランドホテルで働いてて……というか、勉強させてもらってるに近いかな。まだまだ修行中の身なんだ」
優しい眼差しだけれど、どこか憂いを帯びた表情でリョウは答えた。
「す、すごい!だからか!腑に落ちました!リョウさんの仕草が何ていうか、すごく品があるというか、優雅というか……思わず見惚れちゃいました」
ニコッと白い歯を見せながら、少し恥ずかしそうに微笑んでそう言ってきた崇人を見て、リョウの心臓はドッと早鐘を打った。
(うわっ、何だこれ!?なんか急に胸が苦し……)
体が痺れる感覚がして、ふわふわ落ちつかなくなる。この感じをどう受け止めたら良いのか分からず、リョウは困惑した。言葉が出てこなくて思わず黙ってしまう。変に緊張したまま何とか残りのラーメンを食べ終えて、隣で美味しそうに咀嚼してる崇人をチラリと遠慮がちに横目で見た。
サラサラと流れる様に揺れる、絹糸のように艶やかな髪の毛。思わず手を伸ばして触れたい衝動に駆られてしまう。
(触りたい……)
カウンターの上でリョウはぐっと拳を握って、その気持ちを押さえ付けるようにして耐えた。
**********
「リョウさん。ありがとうございます。お腹が鳴ったのは僕なのに、ご馳走していただいて……なんだか申し訳ないです」
「いや、いいよ。気にしないで。俺が誘ったんだし。口に合った?」
「はい!すごく!久しぶりに美味しいラーメン食べました!新宿にこんな穴場のお店があったんですね」
崇人は嬉しそうに目を輝かせて答えた。
「家族に料理人がいてさ。まあ、すげぇ太ってる奴なんだけど。でも味覚は物凄く繊細で、そいつのオススメの店なんだ。たまに一緒に食べにくるんだよ」
(『そいつ』?変な呼び方するな。その人、本当に家族なのかな……)
「あ、そ、そうなんですね……リョウさんの家族の方の……」
リョウの『そいつ』呼びが引っかかって、崇人は思わず固まってしまう。表情がぎこちなくなって、視線が泳いだ。
「てかさ、なんで敬語なの?さん付けとかいらないよ」
「え!」
リョウは不思議そうな顔をして、また崇人をじっと見つめていた。崇人も身長は低い方じゃ無い。けれど、リョウは崇人よりも額ひとつ分くらい大きい。奥二重で切れ長の、吸い込まれそうに美しい目元をした彼に見下ろされて、崇人は動揺した。リョウの醸し出す圧倒的な雰囲気に呑み込まれそうになる。思わず緊張で言葉が震えた。
「あ……えっと……りょ、リョウ……」
「……うん」
(あ、やばい……)
眉尻を下げて優しく微笑むリョウの表情を見て、崇人は心臓が止まるかと思った。
(『リョウ』って名前を呼ぶだけでこんな顔見せられたら、僕は――)
これからどうするんだろう。まだ、帰りたく無い。胸がきゅうっと締め付けられて、リョウから視線を離せない。
期待しちゃ駄目だ。期待しちゃ駄目だ。
頭ではちゃんと分かってる。先の事はなるべく考えない様にして、今は、リョウといるこの時だけを楽しく過ごす事に集中しないと。
「えっと……」
ただ黙り込んだまま見つめ合う二人。リョウはこの状況を何とかしようと、言いたい事もまとまらないまま、無理に話を切り出そうとした。
(え……どうしよう。こういう時どうしたらいいんだ?まだ一緒に居たいから、家にくる?って言っていいのか?いや、それじゃヤりに来いって言ってるようなもんだよな。それやったら、セフレ一直線だろ。したいはしたいけど、崇人とセフレになりたいかって言ったらそうじゃない気がするし。なんか、もっと色々話したいし、一緒に過ごして崇人のことを知りたいって気持ちのが強いっていうか……)
頭の中でグルグル考えが回って、その後の言葉が続かない。いつもなら、こっちからどうこうしなくても向こうから家なりホテルなり誘われていたし、自分がYesかNoかを決める立場だった。いつだって受け身で選ぶ立場だったから、今更ながら自分から相手を誘う仕方がわからない。
その時、困り果てるリョウのスマホが震えた。喧騒から少し離れた夜の街に、着信を知らせるバイブ音が低く唸った。
「あ、ちょっとごめん」
電話口に出ると、リョウの表情が変わった。
「――はい。はい、わかりました。今からそちらへ向かいます」
電話を切ると、リョウは神妙な顔つきに変わっていた。崇人の方へ振り向くと、バツが悪そうにした。
「崇人、ごめん。俺、行かないと。さっき言ってた家族の奴が交通事故にあったらしくて、怪我してるみたいなんだ。今、病院から電話かかってきた」
「交通事故!?それは大変じゃないですか。早く行ってあげてください!」
まさかの展開に、崇人も驚いて思わず声が大きくなった。けれど、やっぱり今夜もリョウと一緒にいられない運命なのかと、不謹慎ながらも内心がっかりしてしまった。
突然降って湧いた再会は偶然なだけであって、必然ではなかったと感じてしまう。仕方の無い事とはいえ、僕ってやっぱり、ツキが無いよな……。
「あのさ、また会える?ていうか、また会いたいんだけど……」
落ち込む素振りを隠しきれない崇人へ、少し気まずそうにしながら遠慮がちにリョウが問いかけた。その言葉ひとつで目の前が明るくなって、崇人の気持ちは途端に舞い上がってしまう。
「も、勿論ですよ!」
「ははっ。また敬語に戻ってる」
「あっ。う、うん。僕も会いたいから……嬉しい」
慌てて連絡先を交換すると、リョウは駅まで送れなくてごめんな。と謝った。お互いなんだか名残惜しくて、急がないといけないのに二人して離れる一歩が踏み出せない。
崇人は右手を差し出して、リョウの手にそっと触れた。
「帰ったら、連絡するね。それから、ご家族の方が無事でありますように」
笑顔で手を振りながら、崇人は駅へ向かって帰っていった。
差し出された指先はひんやりと冷たく、まるで深雪の様に柔くて儚い。強く握り返して、彼の掌を温めてから離せばよかったとリョウは少し後悔した。
眩しすぎる夜の新宿の街中へ消えてゆく崇人の背中を、何度も振り返りながら確認してしまうのは何故なのだろう。手が届きそうで届かない、憧れにも似た甘くて苦い感情に、自分の中で何かが新しく芽吹いた様な気がした。
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