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第11話 パンドラの箱が開く時
「――で、今日は話す気になった?」
遠藤眞 は右へそっぽ向いて、窓の外をずっと眺めたままだ。
反抗的な態度というより、僕とのやり取りにうんざりしている様にも見えるし、彼女を取り巻く全てに対して、耳を塞いで放棄しているようにも見えた。
冬のどんよりとした天気の中、生徒指導室の窓に陽の光が一瞬だけ雲をかい潜って彼女を照らした。眩しそうに目元を細めた横顔は、まだ幼さを残す17歳の少女の顔だった。けれど、すぐにまた仏頂面へ表情を戻す。崇人の方を一向に見ようともしない。
「遠藤さん。もうすぐ冬休みだよ。このままだと、休み返上で学校に来てもらわなくちゃならない。君だってこんな事、一刻も早く終わらせたいだろう?」
「……だから、何度も言ってんじゃん。別に興味本位でやっただけで、あの日が初めてだったって」
「先生たちが心配しているのは夜の仕事に興味がある事じゃなくて、高校生が堂々と飲酒を伴う場所で深夜まで働いていた事実に対してだよ。君だって違法で悪い事をしているとわかってやっていただろう。学生の本分は勉強だよ。君がその職業に就きたければ、大人になってからいくらでも働けるよ」
眞はチッと舌打ちして崇人を睨む。
「別に働きたくてキャバやってたわけじゃない。お金が欲しいからやったって事ぐらい、わかんだろ」
「どうしてそんな事をする必要があったの?ご両親に嘘をついて、秘密にしてまで欲しかったお金は一体何に使いたかったの?」
「別に……お金はみんな欲しいじゃん」
そう言うと、眞はまたそっぽをむいた。
堂々巡りだ。
遠藤眞に事情聴取をするのはこれで5回目。高校2年の女子生徒から複雑で難解な心の内を他人へ吐露させるのは、着任3年目の若輩の僕からしてみればかなり手強い。
彼女のクラスの副担任であり、女子高生と年の近い妹がいるから自分たちよりも乙女心がわかるだろう(と言っても、僕と妹は3歳しか違わないのに)というこじつけられた理由から、僕は素行の悪い彼女の生活指導を学年主任から無理矢理に押し付けられているのだ。12月に入ってから、ずっとこの調子で放課後に彼女と対峙している。
「ご両親はあれから何ておっしゃってるの?僕から連絡しようにも全然繋がらないし、音沙汰が無いから正直、困っていて……ちゃんと話は出来ているのかな?」
「は?親?」
眞はサッと表情を変えて、低い感情の無い声で呟いた。
「親らしき人たちならたまに家で見かけるけどね。それぞれ仕事と不倫で忙しいみたいだから、私みたいなのには興味も無いよ」
「えっ……?」
崇人は思わず動揺してしまった。生徒の口から親が『不倫』していると堂々と出てきた事に衝撃を受けた。
「あの人たちとまともに会話しようとか、期待するのは無理。話になんないから。自分たちが誰かの親だって事すら忘れてる人たちだよ」
お嬢様学校と呼ばれる私立の女子校。
都内の一等地に所在していて学費や寄付金も高い。裕福な家庭の子女が多数通うこの高校は偏差値とはまた別のところで、ある種、選ばれし子供達しか通えない学校でもある。両親を『あの人たち』と他人行儀に呼び捨てるこの子も、家庭調査票を見る限りでは恵まれた環境に身を置くひとりだ。あくまで書面の上では、だけれども。
この子の横顔を見ていると、胸の内に潜むどうにもやり切れない、誰にも言えない感情を持て余しているように思えて来る。堂々と校則を破り、髪を明るく染めてキャバクラのバイトをしていた理由は、思春期特有のものだと一言では片付けられないはずだ。もっと根深いものが潜んでいる。
不貞腐れる彼女の姿は籠の中の鳥そのものだった。どんなに豪奢な檻に暮らしていようと、与えられた環境が他の鳥より立派で豊かであっても、親鳥の許可なく自由に羽ばたく事は出来ない。足枷の付いた逃げられない毎日。出口の見えない生活。そんな日々が容赦なく続く。血の繋がる彼らと、いっそ全くの他人になれたら、どんなに楽なのだろう。けれど、未成年の自分は親の庇護の元で暮らすより他はない。
形は違えど、親に対して絶望する気持ちを崇人も知っている。この子は親に対して何も期待していないし、望んでもいない。この年齢にして既に繋がる努力を諦めているのだと悟った。
――誰にも分かる筈が無い。この、不安定で脆い、けれど決して崩れることはない現実の中で、感情に蓋をして生きる事の辛さを。
崇人はかつての自分と、色を失った生気の無い目を見せるこの女子生徒が急にシンクロした。
「形だけで良いから反省文を書いて」
二人の間に流れていた沈黙を破って、崇人は真剣な表情でそう伝えた。その内容に、眞は不思議そうな顔をしてこちらを向いた。
「君が起こした行動に対して、君が心から反省していると学校側が納得する内容を僕から学年主任の相澤先生と担任の菱川 先生へ報告しなきゃならない。だから、それだけはどうしたってやってもらわなくちゃこの件は終われない。僕からはもうこれ以上、君が何をどうしたかったのか……深くは聞かないよ」
崇人は眞の瞳を真っ直ぐに見つめながら伝えた。
キャバクラで働いていた理由を知ったところで、全てが解決する訳でも、彼女の家庭状況が改善される訳でもない。
理由は何にしろ、現状が変わらない限り彼女の問題行動が落ち着く事はないだろう。
「……何、急に」
「遠藤さん。君を問い詰め無い代わりに今日から終業式までの毎日、ここで一時間だけ僕と話をしよう。何だっていいよ。毎日の出来事でもいいし、好きな食べ物の話だっていい」
「は?何でそんなことしなきゃいけないの?キモいんだけど」
眞は怪訝な顔をしながら崇人を見た。
「反省文ひとつと、副担任との雑談だけで済むならこんな簡単な事ないだろう?君だって高校2年のこの時期に、退学になったら困るはずだ」
「……」
「もう今日は帰っていいよ。明日、反省文を持って同じ時間にここへ来てください」
眞は無言のまま鞄とコートをひったくると、崇人を睨みつけるようにして指導室をぶっきらぼうに出ていった。パタパタと走る乾いた軽い足音が放課後の静かな廊下に響きわたった。
「親って、何なんだろうな」
崇人は夕暮れの薄暗い指導室の机に腰掛けて呟いた。
自分と母親の関係ですら解決出来ていないのに、生徒の親子関係に偉そうに口出しなんて出来る訳が無い。なら、せめて学校だけは彼女の居場所で在ってほしい。誰にも否定されない、心が落ち着ける空間。そんな場所が今の彼女には必要なのだと崇人は思わずにいられなかった。
********
翌日の放課後、時間通りに生徒指導室へ来ている彼女を見て思った。やはり根は真面目なのだろう。提出された5枚にわたる反省文を目の前で読む。その間も、やはり眞はそっぽを向いて窓の外を眺めていた。
「――華やかな夜の世界に興味がありました。自分も背伸びして綺麗なお姉さんたちの様にキャバクラで働いてみたいと思ってしまいました。ほんの出来心で後先考えずにやってしまった事を深く反省しています。これからは高校生らしく――
……はい。では、反省文はこれで良いよ。伝えた通り、他の先生方にも読んでもらうからね」
崇人は机の上でトントンと形式だけの反省文の紙を揃えながら言った。
「菱川にも見せるの?嫌だな」
眞はポツリと呟いた。
「遠藤さん。菱川先生だろ?君の担任なんだから当然読むよ。どうして菱川先生に読まれるのが嫌なの?」
「キャバに乗り込んできた時の菱川、本田先生は見てなかったの?私を補導する振りして、本当は菱川がキャバに女を物色しに行きたかっただけなんじゃねーの?って思ったけど。今思い出しても相当キモいわ……」
「だから、菱川『先生』と呼びなさい」
崇人はジロリと眞を見て注意する。
――11月最後の金曜日。期末テストが終わったその日、崇人と菱川、それから生活指導の女性教員である山下の3人は、歌舞伎町のとある雑居ビルの一室へ乗り込もうとしていた。
事の発端は、差出人不明の投書が学校宛に送られてきたことから始まる。
『高等部2年3組の遠藤眞は歌舞伎町のキャバクラで年齢を誤魔化してバイトしている』
店の住所と地図がご丁寧に添付されていて、いかにも早く捕まえに行ってくださいと催促している内容であった。同級生の誰かが差出人である事は容易に考えがついた。内容が事実であるかどうかの他に、いじめや嫌がらせの可能性もあった。事が大きくなる前に直ぐに真偽を確かめる必要があると、生活指導の山下が担任と副担任をつれて現地へ赴く事になったのだった。
「本田先生は若いから、キャバクラとか行ったことないんじゃ無いの?」
菱川はくたびれたコートのポケットに手を突っ込みながら、ネオンと雑音が入り混じる歌舞伎町の路地をのらりくらりと歩きながら崇人へ聞いてくる。
「そうですね。僕には無縁の世界です」
背筋を張って前を向いて歩きながら、崇人は表情を崩さずに淡々と答えた。
「本田先生はイケメンだからなぁ。彼女も切れないタイプでしょ?キャバなんか行かなくても女には困らなそうよな。でも、キャバ嬢と彼女は全然違うのよ。素人とプロの違いだよなぁ。エロさも楽しさも、違うんだよな〜。先生、今夜もしかしたらハマっちゃうかもよ?やっぱ若いキャバ嬢は良いよ、若いのは」
菱川は無精髭の生えた顎をさすりながら、ニヤニヤして独り言の様に語りかけてくる。
「スマホで検索すると女房が履歴見たりしてうるさいんでね。学校でキャストの一覧コピーして来たから本田先生も見てよ。やっぱりナンバー張ってる子は女のレベルが違うよ」
そう言いながら、崇人へキャバクラのHPから出力したコピー紙が入った学校の封筒を手渡しして来た。
「はぁ」と気のない返事をして崇人はしぶしぶ受け取った。補導しに行くのであってプライベートでキャバクラへ遊びに行くわけじゃないのに、全くこの人は何を考えているのだろう。こんな調子で女子校の教師をよくやれているなと呆れながら思ってしまう。
(たかが封筒とはいえ、学校の備品をこんな事に使うなんてどうかしてる)
崇人は中身を開いて確認することもせず、受け取った封筒を折り畳むと、コートのポケットへ隠すようにして突っ込んだ。
「着きましたよ。このビルの3階です。遠藤眞が本当に働いていた場合、なるべく刺激しないようにして慎重に行動しましょう。同性である私がメインで動きますからね」
生活指導の山下の声に力が入る。四角四面で融通の効かない山下に、ちゃらんぽらんな菱川。崇人は今更ながら本当にこのメンバーで歌舞伎町の店と対峙できるのか不安でたまらなくなった。だからといって、一番年次が低い自分が偉そうに意見出来る訳がない。
雑居ビルの中とは思えない重厚なドアを開くと、煌びやかなシャンデリアと賑わう店内の活気がどっと押し寄せてきた。「いらっしゃいませ」黒服が頭を下げて出迎えたと同時に、山下は一人で勝手にズンズンと店内へ押し入っていってしまった。
さっきの話と違うだろ!と、崇人は彼女の咄嗟の行動に驚きながらも、慌てて後を追いかけた。
そこからは言わずもがな修羅場そのものだった。
勢いよく乗り込んでくる彼女の姿を見つけた眞は、血相を変えて卓から逃げ出した。その現場を見つけた山下は物凄い勢いで彼女を引っ捕まえて、店長を出せと大声で叫んだのだった。
「や、山下先生!慎重に行くんでしょう?こんなに騒いだらいくら何でもまずいですよ!落ち着いてください!」
崇人は必死になって山下を制止しながら、小声で一生懸命に耳打ちした。騒然とする店内で菱川だけは我関せずといった感じでジロジロと女性キャスト達を見渡して値踏みしていた。全く役に立たない上に、鼻の下を伸ばして嬉しそうにしていた。
物凄い剣幕の山下と逃げ惑う眞。それを諌めようと取り囲む黒服と崇人。何もかもが滅茶苦茶だった。その後、お互い警察沙汰はまずいと判断してビルの外へ出て店側と話し合い、やっとのことでひと段落した。
遠藤眞の両親とは連絡がつかず、代わりに祖母の家に同居する彼女の叔母が迎えに来た。その間、眞は妙に落ち着いていて、我々の誘導に素直に従うも、終始神妙な顔つきをしていた。今思えば、違和感だらけだ。
「ごめんなさいね。つい、カッとなっちゃって」山下は平謝りするも興奮状態はまだ続いている様に見えた。更年期なの。と言いながら、ハンカチで汗ばんだ顔を仰いだ。この人は生活指導に向いていない。一日の締めくくりがこのドタバタの寸劇で、崇人はかなり疲弊してしまった。もうこれ以上は付き合っていられないと、崇人はJRではなく地下鉄で帰る事を選んで二人とは違う方面へ歩き出した。
「これから彼女さんの家かな?本田先生も元気ですねぇ」何も役に立たなかった菱川は相変わらずニヤニヤしながら詮索してきた。もう、早く彼らから離れてひとりになりたかった。
新宿は滅多に来ない。意識的に避けていたと言った方が正しいかもしれない。とりわけ、新宿三丁目のその先へはわざと近づかない様にしていた自分がいる。仕事の延長とはいえ、今夜は疲れた。
(教師の仕事も楽じゃ無いな……)
そんな事をぼんやり考えながら歩いていると、いつの間にか地下鉄の入り口を通り過ぎて、大通りから外れた見知らぬ路地に出てしまっていた。
何やってるんだろう。早く戻らないと……
ハッと気づいて辺りをキョロキョロ見渡した先で、電飾の眩しい看板の灯りに照らされながら、男同士がキスをしているのが視界に飛び込んで来た。
崇人は思わずパッと目を逸らした。心拍数がドクドクと上がって、疲れているはずの体が妙な興奮で一気にザワザワと総毛立ってきた。
恐る恐る視線を戻して、目立たぬようにそっと盗み見る。
男に囲い込まれる形で壁側に押し付けられ、深いキスをされているもう一人の男の脚は、ガクガクと小さく震えていた。それは、恐怖を感じているようにも、悦んでいるようにも見えた。和彫りの刺青が手首までびっしり彫られた腕を、壁に押さえ付けている男の首筋へと伸ばす。受け身の男も蛇のようにニュルリとうねりながら、それに答えるかの様に自分の腕を伸ばした。刺青の腕へ、さもいやらしそうに、ねっとりと絡ませてから男の後頭部を優しく撫でて抱きしめた。
薄暗い雑居ビルが立ち並ぶガヤガヤとした路地裏で、その光景はまるで火花を散らしたように鮮烈で刺激的だった。
次の瞬間、和彫りの刺青の男から刺すような視線を感じた。気づかぬ内に二人を凝視していた自分自身にハッと気がついて、我に返った。腹の底から突き上がってくる、この得体の知れない昂る感情をどうして良いかわからない。崇人は苦虫を噛み潰した様な顔しながら、その男達を横目に足早に路地を通り過ぎた。
青白く光を放つ電飾に書かれた店名が、視界の隅に映る。
『Utopia』
*********
呆然としたまま自宅に帰ってきた崇人は、ドアの鍵を静かに閉めると、玄関先でしばらく動けずにいた。
もう二度と表には出さないと固く誓って蓋をしたはずの欲望が、いつの間にか沸々と湧き上がってきて、もはや逃れられないほどに全身を侵食していた。男達の触れ合う生々しい残像が脳裏に焼き付いて離れない。唇同士が触れる、あの痺れる感覚を体が覚えていた。忘れたくても、忘れえぬ甘く切ない感触。
崇人はコートのポケットからスマホを取り出すと、『Utopia 新宿』と打ち込んだ。瞬時に検索結果が表示され、崇人は緊張から感覚を失った指先で、店のHPをゆっくり慎重にクリックした。
『ゲイ専門Bar』『初心者歓迎』『ノンケNG』
Barの内装の写真を見るよりも先に、店の媒体が気になって焦って調べてしまう。
(客層は20代から30代メイン。ゲイオンリー。女性厳禁。ここでゲイバーデビューしている常連多数……)
既に出来上がっている輪の中に飛び込む勇気は無いから、こういうコミュニティに足を運ぶのは正直気が引ける。でも、ここなら全くの初心者にも行きやすそうなBarだ。もしかしたら店先で激しくキスしていた二人もお客さん同士だったのかもしれない。
(もし、もし僕がこの店に行ったら……)
そう思うと、今まで抑圧されていた彼ら達への憧憬と興奮が堰を切って溢れ出してきた。
同性への恋愛感情と性欲に蓋をして、がんじがらめに縛って二度と開けるものかと厳重に鍵をかけたはずなのに、再びそれらを解いて手にしてみようとしている。こんな思いもよらないタイミングで、暗く先の見えなかった未来に僅かな期待を見出している自分がそこにいた。
崇人は鞄を開けて手帳を取り出すと、スケジュールを急いで確認した。
土日も出勤して色々片付ければ、来週の金曜日なら早く上がれるはず。21時には『Utopia』に行ける……
つい、笑みが溢れてしまった。
自分が疲弊していたことなんてすっかり忘れて、崇人は胸を躍らせた。信じられないくらい嬉々として、鼻歌混じりにコートをハンガーにかけた。
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