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第15話 例え君が誰でも

 つま先が寒い――  ぼんやりした意識の中、足先でシーツの波間を掻い潜って毛布を探った。コツっと骨ばった足にぶつかる。  (リョウ・・・?)  崇人は重たい瞼を無理に開きながら、ゆっくり横を向いた。すぐ隣でリョウが静かに寝息を立てて寝ていた。  カーテンレールの隙間からタクシーのヘッドライトの眩しい光が一瞬差して、まだ外は暗いのだと分かる。リョウを起こさない様に気遣いながら、崇人は体を少しだけゆっくりと起こして、ベッドサイドの棚に置かれたライトのセンサーに手をかざした。暖色の光が柔らかく枕元を照らす。ライトの前のデジタル時計は4時42分を表示していた。  僕はいつの間に眠ってしまったんだろう。リョウに抱かれながら、段々と視界が狭まって意識がフェードアウトしていった気がする。寝ぼけた頭が冴えてくると、二人とも素っ裸のまま力尽きて寝てしまっていた事実に気づく。  (リョウと僕はついに・・・)  不意に、挿入された時のリョウの表情が思い出されて、一気に恥ずかしさが込み上げ照れだす。崇人は顔を赤らめながら、自分の腹に手を当てて撫でた。  (まだ入ってる気がする。変な感じ。僕は・・・本当に、リョウとしたんだな・・・)  正直、いっぱいいっぱいだった。リョウの匂いや動作、口から漏れ出た吐息のひとつひとつが、いちいち崇人の五感を刺激して止まなかった。キャパオーバーを通り越して何が何だか分からないと言った方がしっくりくる状況だったと思う。とにかくリョウと一秒でも早く繋がりたかったから。彼に触れたくて、触れられたくて堪らなかった。初めて誰かと肌を合わせたくせに、自分から積極的に求めにいってしまってたなんて、我ながら大胆だったなと思う。自分自身の行動を思い出して思わず苦笑してしまう。  長いまつ毛を伏せた瞳に、通った鼻筋。規則正しく呼吸する微かに開いた綺麗な唇――  リョウの寝顔を崇人は静かにじっと見惚れていた。  このまま・・・この幸せな気持ちのまま、ずっと一緒に居たい。リョウの長い前髪がパラリと顔を隠すように落ちて来そうになったので、急いで指で掬い上げようと目の前へ人差しを伸ばした瞬間―― 「・・・はよ」 パチリと目が開いて、リョウは眠そうに言った。 タイミングにびっくりして、指を差し出したまま思わず固まってしまった。 「あ、お、おはよ・・・」 「――今、何時?」  前髪を掻き上げながら上半身をのらりくらりと起こして、欠伸をしながら聞いた。 「まだ5時前だよ。ごめん、起こしちゃったね」 「そっか・・・早いな」  暗い部屋の中で目の前をボーッと見つめながらリョウは呟いた。それからベッドから這い出て床に散らかったデニムを拾い上げて履くと、「風呂いれるよ」と言って洗面所の方へスタスタ歩いて行ってしまった。 離れた所で灯りがついた。間接照明だけの薄暗い部屋で、ベッドに取り残された崇人は独りドキドキしていた。  (一晩過ごした翌朝って、一体どんな顔して接したらいいんだ!?)  正解を知る訳もなく、セックスしている時よりも今の方が断然緊張してる。  (リョウは変わらないな・・・なんか、僕だけがいちいち動揺してる)  とりあえず自分も服を着ようと、ベッドからそっと抜け出して全裸のまま立ち上がった。その瞬間、パッと部屋の電気がつく。リョウが着替えの服を差し出して目の前に立っていた。突然明るくなったタイミングで、何も纏わない自分の姿が彼の前で生々しく曝け出されて「うわっ!」と、思わず大きい声を上げて驚いてしまった。 その様子にリョウは「あははっ。悪い!」と快活に笑った。ふと、二人の視線がばちっと合った。なんだか急にこっ恥ずかしくなってきて、崇人は自分の身体をギュッと抱きしめたまま下を向いた。それから探る様に、チラリとリョウを見上げた。  崇人のこういう何気ない無意識の仕草が、相手の感情を大きく揺さぶって焚き付けてくる事を本人は気づいていない。色素の薄い茶色の前髪がサラサラと流れて、隙間から甘くつぶらな瞳でこちらを覗いてくる。その視線がリョウの心臓を鷲掴みにする。ドッと急に大きな音を立てて鼓動がうるさい。  (まともに崇人の顔が見れない。本当、この前から何なんだよこれ・・・)  リョウは服を手渡して「風呂、先に入ってきていいよ」と、ぎこちなく伝えた。  渡した瞬間に手が触れた。恍惚な表情を浮かべてゆっくりと快楽の中へ堕ちてゆく、崇人の乱れた昨夜の姿が急にフラッシュバックしてきて、思わず体が反応してしまいそうになった。リョウは何とも言えない表情をしながら、「コーヒー淹れるよ」そう言って、さっさとキッチンの方へ引っ込んで行ってしまった。 ***  朝風呂って気持ちがいい。そうでなくとも、汗と体液で身体中がベタベタしていたから、熱いシャワーが心地良い。「はぁ」と溜息をつきながら、しばし頭からお湯を浴びて一息つく。身体に昨夜の余韻がまだ残ってる。思わずニヤけてしまって、恥ずかしいけど今はやっと抱き合えた嬉しさが溢れて仕方ない。リョウの匂いのするシャンプーとボディソープで身体を洗っていると、なんだか今だに彼に抱きしめられている気がしてきて、洗い流したはずの下半身がまた熱く昂ってきそうになる。崇人は深く考えないように気持ちを切り替えて、慌てて石鹸の泡を流した。  風呂から上がるとリビングには鼻腔をくすぐるコーヒーの良い香りが漂っていた。崇人に気がついて、リョウはキッチンカウンターの上にマグカップを置くと、カウンター越しにあるスツールを引きながら「どうぞ」と案内してくれた。 「いい匂いだね。淹れてくれてありがとう」  この前とは違った種類の豆の匂いだ。一口飲むと、ほわっと口の中に澄んだ香ばしさが広がった。  「着替えも貸してくれてありがとう。何か・・・至れり尽くせりで申し訳ないよ」 「気にしなくていいよ。さすがに風呂あがってすぐにYシャツ着るのは心地悪いだろ」  隣のスツールを引いてリョウも横並びに座った。 「リョウはコーヒー淹れるの上手だね。これ、豆から挽いて丁寧にドリップして淹れてるでしょ。軽やかだけどインスタントとは全然違うから分かるよ」 「朝だからスッキリした味が良いかなと思って。抽出時間短くしたんだ。気に入ってくれたなら良かったよ」  リョウは嬉しそうに柔らかく微笑みながら、美味しそうにコーヒーを飲む崇人の姿を見つめた。 「リョウは飲まないの?」  そう言えば、前に淹れてくれた時も飲んでいなかった事に気づく。 「飲めない訳じゃないんだけど・・・ソムリエ試験に向けて味覚を保つ為に口にしなくなってから、自然と飲まなくなっちゃったな」  自分の事は気にせずに飲んで欲しいとリョウは言う。 「俺の恩人が・・・フレンチのシェフで都築誠志郎さんて言うんだけど、めちゃくちゃコーヒーにうるさい人だったんだ。その人に頼まれてよく淹れてたんだよ」 「え!都築誠志郎!?」 「知ってる?」 「知ってるも何も、超有名人だよね。分かるよ!でも、あの・・・大変だったね。確か、少し前に他界されてるよね。・・・ニュースで見たよ」  バツが悪そうに、崇人は控えめな声で言った。 「再来月、三回忌なんだ」  リョウは視線を落として、コーヒーカップを握る崇人の手元を悲しげにじっと見つめた。  そうだ。俺の家に来る人なんて、誠志郎さんとフゥくらいしかいない。コーヒーを切らしてるといつも怒られるから、豆をストックして置く癖が3年経った今でも抜けない。身内以外の誰かに淹れたのは、そう言えば初めてかもしれない。 『時間をかけりゃあ、美味くなるって訳じゃねぇ。でも、時間をかけなけりゃ知り得ない味ってもんもあるんだぜ』  そんな風に御託を並べて、俺に淹れるのが面倒くさいコーヒーを用意させてた誠志郎さんの姿がまざまざと目の前に蘇ってきた。いつもなら、思い出す度に懐かしさでいっぱいになって、胸を針が刺す様にチクチクと痛い。でも、今は目の前に崇人がいてくれる。誠志郎さんの話をフゥ以外の誰かと話すのは正直緊張するけれど、今は何だか不思議と気持ちが少し楽だ。 「フゥはさ、誠志郎さんの甥っ子なんだ。それでいて弟子でもあって・・・だから俺たち、かなり前から知り合いで、誠志郎さんに鍛えられた者同士でもあるんだ」 「そうなんだ。だからなんだね。あんなに美味しくて芸術的なオードブル、初めてだったよ」  昨夜のご馳走を思い出して、崇人はうんうんと頷いて納得した。都築誠志郎といったら、かつてメディアを賑わせていた有名シェフだ。そんな人と関わりがあるなんて、リョウってやっぱり只者じゃない。 「外、まだ暗いけど、崇人は今日何か予定ある?」  デジタル時計をちらりと横目で見て聞いた。 「実は・・・今日はこれから休日出勤なんだ」  現実を思い出して崇人は思わず大きな溜息をついた。 「日曜日だけど午前中に提出しないといけない報告書の作成があって。教師の冬休みは無いに等しいよ」  ははっと、崇人は困った様に苦笑いしてみせた。 「そっか。先生も楽な仕事じゃないよな。俺も午後から仕事だけどさすがに時間あるから、駅まで送るよ。とりあえず俺もシャワー浴びてくる」  リョウは立ち上がって浴室の方へ歩き出した。それから思い出したように慌てて振り返ると、「ゆっくりしてて」と崇人に伝えた。 「ありがとう」思わず崇人の表情も綻ぶ。  別に「好きだ」とか「付き合おう」とか言われた訳じゃない。今だってリョウがどんな気持ちで僕と一緒に居てくれているのか、正直言って分からない。少なくとも嫌悪感は抱かれていないと分かるけど、友達以上恋人未満って感じなのかな。これから僕たちはどうなるんだろう。怖くてその先が聞けない。そもそも、こういう事をする相手って他にもいるのかな。今の俺に与えてくれる優しさを、他の誰かにも同じ様にしてるのかな。そう思うと、飲んでいたコーヒーの苦味が急に増した気がした。  リョウのあの雰囲気にあの見た目だから、男女問わず恐ろしくモテるとは思うけど―― 「嫌だな」  無意識のうちに崇人はポツリと呟いた。  自分だってまだリョウの事をよく知らないくせに。彼に抱かれた途端、こんなにも独占欲が沸々と沸き上がってくるなんて。自分の幼稚な嫉妬深さに気づかされる。  (今はまだ二人で居られるんだ。リョウを独占出来るんだから、暗い顔をしない様にしよう)  コーヒーを全部飲み干すと、スツールから降りてマグカップを台所の流しへ置きに行こうとした。ふと、カウンターの端に無造作に置かれた一枚の葉書が目についた。  宛名には『池之端良次郎(いけのはたりょうじろう)』と書かれていた。  リョウの本名――驚きに思わず息を呑んだと同時に、昨晩お店で皆から言われた彼の名前についての疑問全てに合点が言った。  彼の、特に『名字』を知らない人は、この国には居ないんじゃ無いかと思う。それくらい有名な名前だ。義務教育を受けた者ならば皆その名前を暗記したし、日本史のテストに必ず出たはずだ。 『あいつは自分の名前にコンプレックスがあるからね』  思わず新堂さんの言葉が頭によぎった。 「俺の本名だよ」  背後からリョウの声がした。  驚いて振り返ると、リョウはフェイスタオルでガシガシ頭を拭きながら風呂から出て来ていた。ベッドに腰を下ろすと、真顔で崇人を見上げた。 「――そうなんだ。新堂さんがリョウの事を『良次郎』って呼んでたから何となくは分かってたよ」 「まぁ、なんて言うか。色んな意味で呼びづらいよな、俺の名前」  お前が思ってる事は分かっているよ。とでも言いたげな口振りだった。 「ご大層な名字が付いてるけど、家族とは疎遠なんだ。むしろ絶縁してると言っても良いぐらいで・・・。だから名前の事は気にしなくていいし、あんまり構えないで欲しい。これからもリョウって呼んでよ」  何となく少し気まずそうに、崇人の様子を探りながらそう言った。  大人しくリョウをじっと見つめながら聞いていた崇人は、眉尻を下げて柔らかく微笑むと、リョウが首に掛けていたタオルを掴んで彼の頬を優しく撫でて拭いた。 「髪から水滴垂れてる。ちゃんと拭かないと風邪引くよ、」  一瞬、リョウは呆気に取られて崇人を見た。直ぐに俯いて「ははっ」と笑みを溢した。  (崇人って、本当ずるい――) 「リョウって普段はめちゃくちゃクールなのに、たまに抜けてるよね」 「え、そうかな?そんな事、初めて言われた」  二人の間に、たわいもない会話が続く。  崇人といると、居心地が良い。俺の全てを丸ごと受け止めて、肯定してくれる。俺たちはまだ数回しか会っていないし、お互いの事をまだ殆ど知らない。でも、こんなにも誰かに気持ちを引っ張られるのは初めてだ。朝起きた瞬間、崇人が隣に居て何だか凄く安心した。そういえば、誰かと同じベッドで一緒に眠ったのは初めてかもしれない。  崇人の隣は、胸がじんわりと温かくなって、それから痺れて昂る高揚感を感じる。興奮なのか緊張なのか、ドクドクと心臓が脈打つ。崇人と、離れがたい。こんな事、本当に初めてだ。一緒にいるこの時間が楽しくて嬉しいのに、何だかもう切ない――                            

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