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第16話 池之端 良次郎①
自分は人より恵まれていると思っている。でも、人より優れていると思ったことなんて一度もない。
そんな事を口にでもすれば、周りからは白い目で見られるのは考えなくてもわかる。世間の目というものは子供に対しても容赦がない。例えそれが事実であり本心だとしても、『池之端』の家に生を受けた者ならば、世間一般とは大きな差が生まれながらにしてあるのだという事を否が応でも知らされるし、心得なければならなかった。
あの頃の俺は、全てに対して虚無だった。希薄な家族関係。友人と呼べる仲間は一人もいない。心から信頼できる大人は周りに誰もいなかった。でも、別にそれで構わなかった。特に困ることも、辛いと感じることもなかったからだ。
君は『特別』だから――物心ついた頃から老若男女問わず、人からよく投げかけられる言葉だった。
あまりにも言われるものだから、皆の言う『特別』に嫌悪を抱くようになった。誰かに褒められても、讃えられても、嬉しくも誇らしくもなかった。実際、麻痺していたのかもしれない。そこに幸せを感じる気持ちは、母親がこの世から去ったずいぶんと幼い頃に、既に消えてなくなっていたと思う。自分という個人の中に、人より秀でるものや負けない何かがあったとしても、どうしても『池之端』の名前が先に勝ってしまう。何処へ行っても、何をしても、他人の記憶や心情に残るのはただひとつ。
あいつは、『池之端』の人間だから――
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近代日本の経済の一躍を担った一族のひとつが『池之端家』だ。
家祖である『池之端 生太郎 』が明治維新後に開いた質屋業を始めとし、銀行に商社、鉄鋼業などありとあらゆる分野で多角的にビジネスを成功させてきた巨大財閥。
池之端家は家族の絆が非常に深かった。長男の生太郎 を筆頭に、次男の良次郎 、三男の愛三郎 が協力し合いながら、それぞれの分野で一大企業の礎を築いてきた。現代の今なお、池之端家には直系の男子三人に同じ名を継がせる風習が残されている。近代日本史を学ぶ際に、歴史の教科書には必ずこの池之端家の名前が出てくる上に、三人兄弟の名前が今なお、子孫へ引き継がれているという話を教師の与太話として授業で扱う。どこの学校でも行われる鉄板の話だった。
今なら思う。『クソ爺、ふざけんなよ』と。あんたがくだらないルールを作ったばっかりに、子孫がとんでもない迷惑を被ってるんだよ。胸ぐら掴んで、直接文句を言ってやりたい。そう、何度思ったことか。
でも、そんな風に思える様になったのも、都築さんやフゥに救われたからだ。
都築さんに出会うまでの俺の人生は、無感覚で無関心、諦めと静寂しかなかった。ただただ敷かれたレールに乗っかるだけ。そこに目標や個人の意志は無く、覇気すらも感じられない。ただ『池之端家』の人間として日々の時間を言われたままに過ごして生きてゆく。それが自分の人生なのだと、幼児の頃から当然の事だと思っていたし、悟っていた。周りがやたらと自分を話題にして必要以上に騒ぎたてるから、人と関わるのが億劫になり、すぐに距離を取って孤立を選んできた。放っておいて欲しい。
俺が『池之端』の人間でなければ、こんなにも他人は寄ってたかっては来ないはずだ。
高校から大学受験を視野に入れて、所有する都内のタワーマンションの最上階に兄と二人暮らしを始めた。二人暮らしといっても、兄は大学院に通いながら、既に家業を手伝っていたので多忙のあまり家で顔を合わせることは殆どなかった。週に4回、ハウスキーパーの人が来て掃除と食事の支度をしてくれるので困りはしない。実質、一人暮らしと何ら変わらない。気楽だった。
実家は正直、居心地が悪いから。自分が8歳の時に実母は病気で亡くなっているし、後妻の絢子さんは長年の不妊治療の末に最近赤ん坊を産んだばかりで、新しい命の誕生に家の中が湧き立っていたからだ。
一族の将来を背負って立つ、期待される兄と純真無垢な赤子の弟。唯一、中途半端な存在の俺は、こうしてタワマンの中で元気に迷惑かけず生きていれば誰も何も言ってこない。誰にも干渉されず、会話する必要もない。ただ、学校と家を往復をするだけの毎日。それが良くも悪くも、何も思わなかった。
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ちょうど高校2年の夏休みに入った所だった。夏の課題は早々に終わり、やる事が何もなかった。あとは受験に向けて朝から晩までひたすら勉強をするしか、時間を潰す方法はなかった。
部屋にいると、何もわからない。今日がどれほど暑いのか、街の様子はどうなのか。40階建のタワマン最上階から外を見下ろすなんて事はする気も起こらないし、下手したら時計を見ないと時間の感覚さえわからないままだった。部屋の温度、湿度、調光の具合まで、何から何まで完璧に保たれた部屋にたった一人。ずっと独り。
食事を摂るのも水を飲むのも億劫になって、自室のベッドの上に寝転び、じっと天井を見つめた。何か考えが浮かんでくるでも、反抗的な感情が芽生えてくる訳でもなかった。ただただ静かで、虚無だった。
そんな生活を三日ほど送ったところで、外へ出た。本当に、なぜ急に思い立って外へ出たのかは自分自身、今でも不明なままだ。考えも目的も持たず、ただひたすら街を徘徊していた。
7月の終わり。その日、午前中に気温は既に35度を超えていた。蜃気楼が見えるなと思っていた街中は、ふらついて眩暈がする自分の視界のズレだと気づく。そう言えば、何も食べていない。自宅の冷蔵庫にびっしり詰め込まれたままの、何ひとつ手をつけていないハウスキーパーが作っていった料理を思い出した。思い出すと同時に腹も減ってきたが、さすがに喉がカラカラに渇いて、おでこからこめかみにかけて頭がズキズキしてきた。どこか入れる店は――
ふと目についた白い外壁の洋館。門から玄関までのアプローチには夏の花の白いペンタスが満開に咲き誇っていて、まるで別世界のように美しい風景だった。扉に『tsuzuki』と書かれている。
フレンチのレストラン――何でもいい、早く水と食べ物。何とかしっかり歩いてレストランの扉を開けた。
「いらっしゃいませ」
レセプションから蝶ネクタイを閉めたボーイが伺いにきた。少しだけ怪訝な表情をしてみせたが、上から下まで良次郎を見定めると「ご予約はいただいておりますでしょうか?」と声をかけた。数回、やり取りをして席に案内された。直ぐにでも水が欲しくて、メニューを殆ど見ないで早々にランチの魚のコースを頼んだ。ウェイターがミネラルウォーターを注ぎに来たと同時に、一気に水分を体内へ流し込んだ。
「外はさぞお暑かったでしょう。どうぞ沢山召し上がって下さいませ」
良次郎の飲みっぷりを見て、ウェイターは優しく声をかけて何度もグラスへ水を注いだ。のぼせていた頭は次第に冴えてきて、良次郎は店内を見渡した。客は他に2卓ほど。室内はこじんまりしているが、どこもかしこも洗い立てのパリッと糊の効いたシャツを羽織った時のような、清潔で居心地が良いスッキリとした雰囲気だった。出されたコースメニューはどれもとても美味しくて、あんなに食欲が湧かなかったのがまるで嘘のように、良次郎はぺろりと平らげてしまった。こんなにのんびりと、穏やかな気持ちで食事をしたのはいつぶりだろう。
遠い遠い記憶の彼方にある、まだ健在だった母を囲んで食事した以来かもしれない。そんな風なことを呑気に考えていたら、ふと、とんでもない事に気づいてしまった。――財布がない。
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「こんな子供が独りで来店した時点で、そもそもおかしいと思うでしょう、普通」
支配人の半井がピリついた口調で、良次郎を席へ案内させたウェイターに向かって言った。店の午前の部が終了したにも関わらず、店内には良次郎だけが依然、テーブルにポツンと独りで座ったままであった。
「うっ、すみません……若いな。とは確かに思ったんですけど、まさか高校生とは思わなくて。だって、なんか妙に堂々として肝座ってません?あの子……」
「見える見えない。そういう問題ではありません。少しでも違和感を感じたら、まずは私に相談するのが先でしょう」
レセプションの柱の影で、良次郎の姿を見つめながらひそひそと、これからどうするべきか二人で押し問答を繰り返しながら議論していた。店内で1万5千円のランチコースを完食後、良次郎はウェイターを呼びつけると「責任者の方を呼んでいただけますか」と、臆する事なく堂々と伝えた。言われたウェイターはてっきり何か粗相があったのかと、ヒヤヒヤしながら半井を呼びに行った。それがまさか客からの無銭飲食の申告を聞くことになろうなど、この店始まって以来の出来事であった。
「正直に申し上げます。僕は財布を持たずに飲食しました。財布どころか携帯も、何も無いです。家に帰って直ぐに現金を用意して戻って来ます。どうか、しばし支払いを待ってはいただけないでしょうか」
悪い事をしているというのに、この堂々たる姿。半井も思わず「はい」と頷きそうになってしまうほどの優雅さであった。聞くところによると、高校生だと言うが、本当か?こんなに圧倒される雰囲気と気品を持ち合わせた10代なんて未だかつて出会ったことがない。しかし未成年がらみは自分ひとりでは決めかねる案件だとし、半井はこの店のオーナーであり料理長でもある都築誠志郎に報告へ行った。話を聞いた都築は厨房から直ぐに出てきた。
「いってぇ、どんな野郎だよ」とぶつくさ呟きながら良次郎の目の前にドカッと椅子を引いて座った。それから二人でいくらか会話すると、急に二人一緒に席を立った。
「こいつ、帰らせるぞ。明日の昼!今日と同じ時間に来るから覚えといてくれ。おい、またな坊主。ちゃんと約束は守れよ」
良次郎は深々と頭を下げて「ありがとうございます」と礼を言った。あっさり解決したその様子に、半井とウェイターは思わず顔を見合わせて驚いた。
「一体どんな会話なさったんです?念の為、何か私物を預かったり、学校へ連絡しなくて良かったのですか?」
「んなもん必要ねぇだろう。本当に悪ぃと思ってんなら来るし、そうじゃなかったら来ない。それまでだろうよ」
「しかし、何らかの事情があったのかもしれませんが、これは立派な犯罪行為ですからね。未成年だからって大目に見てると最近の子たちはつけあがりますよ」
「わかった、わかった。それより俺ぁ、小一時間、昼寝すっからよ。時間きたら起こしてくれ。全く最近、頭痛くてしょうがねぇや」
都築はコキコキと首を鳴らすと、背伸びしながら裏手へ消えていった。
「……なんか、嫌な予感がしますねぇ」
半井は長年の勘から、都築がまた得意のお節介を焼くつもりではないのかと推測した。見所のある困った若者を見るとほっとけない人なのだ。都会の一等地で3つ星レストランを経営するフレンチの巨匠と言われる男が、実は下町人情に溢れた熱血漢なんて、ちぐはぐもいいところ。
「全く、あの人が拾ってくる捨て猫の世話をするのは、いつも私なんですけどね」
半井はため息をつくと、どうしたもんかと明日への心配を感じながら、さっさと夜の部に向けての開店準備に着手した。
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