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第17話 池之端 良次郎②

 心臓がいつも以上に早鐘を打って、バクバクと音を立てているのがわかる。不安じゃない。緊張でもない。でも、それに似た言い表せないほどの震える何かが、自分の中で大きく膨らんだ。  ――都築誠志郎(つづきせいしろう)さんって言ったな。そう言えば、TVで見たことがある。  良次郎は自分へ向けられた、都築の真っ直ぐな視線を思い出した。この人の前では逃げも隠れも出来ない。でも、鋭い眼光のその先に、温かな光の様なものが感じられたのは何故なんだろう。良次郎の脳裏に、在りし日の母親の顔がふとよぎった。真綿に包むように、優しく微笑み抱きしめてくれた母。そんな慈しむような眼差しを、今更ながら赤の他人から向けられるなんて、思いもよらなかった。    (動揺してるんだ、俺……)    掻き乱されるような不思議な感情。良次郎はレストランでの出来事に戸惑いながら、直射日光の強く刺すアスファルトの遊歩道を複雑な思いで歩いた。    ********   「おぅ。お前、財布も持たずに飯食いに来たんだって?」    都築はどさっと良次郎の目の前に腰を下ろすと、フランクに質問してきた。   「……はい。あの、正直、自分でもよく分からないんですが、ふと思い立って自宅から飛び出してきていました。気づいたらこちらのお店に入っていたので。財布も携帯も、交通の定期すら持っていません」    都築はしばし黙って良次郎の顔を見つめた。外はこんなにカンカン照りの夏真っ盛りにも関わらず、少年は白い顔をして覇気の無い表情を浮かべていた。都築を目の前にしても全く動じることなく、まるでロボットのように無機質な様子で淡々と話しをする。   「俺ぁ、都築誠志郎って言うんだ。ここのレストラン『tsuzuki』のオーナー兼料理長だ。おめぇさ、財布がどうのこうの説明する前に、言うことあんだろ」  都築は腕組みをして椅子にもたれ掛かった。  言うこと?名前を名乗れってことか?良次郎は目元を細めて唇をキュッと結んだ。  池之端家の人間が食い逃げなんて、前代未聞だ。簡単に自分の名を出していいものか。別に逃げも隠れもする気は無いけれど、名前を出すことに抵抗を感じる。  名前のせいで、いつも事態は良くも悪くも大きく変わる事を良次郎はよく分かっていた。けれど、この状況を前にして逆らう事はできない。   「あの、私の名前なんですが……。池之端……良次郎です」   「名前?んなもんより、まずよ。ほら、もっと先に言うことがあるだろうよ。よく考えろ」   「え……」   「ごめんなさいだよ、ごめんなさい!おめぇ、飯食ったのに支払いできねぇんだろ。そんでそれを悪かったと思ってる。それならまずは、いの一番に謝罪するってのが筋じゃねぇのか」    良次郎は目を丸くして驚いた。自分の名前を聞いても目の前のオーナーだというこの中年の男は、全く気にする事も、動じる事もなかった。それよりも、まずは謝れと真剣に怒っている。子供がしでかした悪戯を実直に叱る大人そのものだった。驚きながらもこの人の言う事は最もだと、自分が謝罪の言葉を口にしていなかった事に申し訳なくなって、良次郎はすぐに頭を下げた。   「申し訳ありません。財布を忘れた事に気づかずにいたとはいえ、無銭飲食したのは事実です。本当に、申し訳ありませんでした」    すぐに姿勢を正して、深々とお辞儀した。都築は「おぅ。それで良い」と優しく微笑んだ。   「それにしてもお前さん、池之端のとこの坊ちゃんか。先代がまだ存命だった頃、親父さんと一緒によく食事しに来てくれてたぞ。父ちゃんに似てねぇから、お前は母親似なんだろうな」    都築は腕を組んだままガハハッと豪快に笑った。それを聞いて、良次郎の表情が曇る。レストランの雰囲気から食事の内容に至るまで、この店は星付きなのだとさすがに良次郎は気づいていた。父が利用していても何らおかしくは無い。けれど、またしても身内だ。自分のテリトリーにはいつも『池之端』がチラつく。こうしてふらりと考え無しに辿り着いた店ですらこの始末だ。結局、どこへ行っても『池之端』からは逃れられない。   「良次郎って言ったな。今回は許してやる。その代わり、明日の15時、またこの店に来い。夏休みだから自由も利くだろ?」    都築の意外な言葉に良次郎は思わず顔を見上げた。   「親からお代貰って払いに来いって訳じゃねぇぞ。こんな高額な昼飯代、高校生には分布相応だ。ちゃんと食った対価分を働いてもらうから、そのつもりでな」    そう言うと都築は「さ、帰んな」と、穏便に話し合いを終わらせて良次郎を帰路につかせた。    ********    働いたことはおろか、料理したことすら無い自分に、一体どんな事ができるのか。皿洗いや店内の掃除を任されるのかもしれない。いずれにせよ、こちらに非があるのだから何を言われても黙ってやるまでだ。  都築に昨日言われた通り、時間通りに良次郎は店にやってきて扉を開いた。   「……驚いた。本当に来ましたね」    良次郎の姿を目にすると、レセプションにいた半井が目を見張った。まさか本当に来るとは微塵にも思っていなかったようだ。  「昨日は申し訳ありませんでした」    深々と丁寧に半井に向かって頭を下げた。  この少年の所作は、まるでマナー本の教科書の様に美しく完璧だ。纏う雰囲気と身のこなしからして、上流階級の家柄なのだろうと予想はつくが、一体何者なのだろう。半井は頭を下げる良次郎を訝しげに見つめた。すると、お辞儀をする頭上から都築の声がした。  「おう。来たな。よし、それじゃ早速始めるぞ。そこのテーブルに着いてくれ」    前回と同じ、二人掛けのテーブル席だった。卓上には既にナイフとフォーク、白い大皿がセットされていた。言われた通りに良次郎は席についた。  「いいか。これから昨日と同じコースメニューを食事してもらう。ただし、サーブするのはお前だ。客として来店した『自分自身』へ接客するんだ」  「――どういうことです?」    状況が飲み込めず、良次郎は思わず目を細めた。都築の言っている事が全く訳が分からないといった表情で見上げた。  「つべこべ言わずにやってみろ。フレンチレストランで給仕がどんな風に料理を提供してくるか、お前なら嫌と言うほど見慣れてるだろうが」    さぁ、早くしろ。と言わんばかりに、都築は半ば強制的に厨房まで良次郎を連れて行って、テーブルに料理をサーブさせた。  「お前自身が席に座っていて、料理を心待ちにしていると思いながらやるんだ」    良次郎の所作を都築と半井は真剣な表情でじっと見つめていた。  自分で料理を運んできて、食べる。また運ぶ。食べる。この作業は一体何なのだろう。労働することで昨日の償いをする認識でやって来たというのに、俺は今、全く理解できない不可解な事をさせられている。言われた通りの事をしながら、この都築という人をチラリと横目で見ながら様子を伺って見るけれど、黙って俺の一挙手一投足を見ているだけで思考が全く読めない。  全ての料理が終わると、半井が信じられないといった様子で口を開いた。  「君は本当に高校生なの?完璧過ぎて恐ろしい。一体どこでそんなマナーを身につけたのですか?」    「どこって――知っている通りにしたまでです」  「それに君は、食事マナーとエチケットを必要とするレストランで相当食べ慣れていますね」    改めて良次郎を頭からつま先まで観察しながら吟味する。  「そりゃこいつが『池之端』のお坊ちゃんだからよ。食事マナーくれぇは朝飯前だろうよ。上流階級の所作ってやつを幼い頃から完璧に叩き込まれてる」  都築はうんうんと首を縦に振りながら満足気に話した。「池之端ぁ!?」半井は目を丸くして良次郎の方を振り返った。まさかこの少年がとんでもないVIPだとは思ってもいなかったようだ。  「おし。決まりだな。試す様な事して悪かったな、良次郎。お前明日から一ヶ月間、ここでウェイター見習いとして働け」  「は……?」  「は?じゃねぇよ。夏休み、どうせやる事ねぇんだろ。一日中部屋に篭って壁紙眺めてるくれぇなら、早起きしてお天道さん浴びろ。それから労働して汗を流す。良い青春じゃねぇか。それにちゃんと給料も出してやる。ただし、規定の高校生賃金だけどな」    突拍子も無い事を言いだした都築に、驚いたのは良次郎だけでなくチーフの半井も呆れ返って頭を抱えた。  「やっぱり!変な事を言い出すんじゃ無いかと思ってたんですよ、私は」   「良いじゃねぇかよ。お前もこいつの所作を見たろ?出来るバイトがひとり増えたと思えば。そらぁ、いきなり全部任せるってのは無理だけどよ。ま、ひとつ頼むわ、半井!」    相変わらずガハハッと豪快に笑って都築は半井の背中を叩いた。  「……仕方ないですね。本当、いつも勝手なんだから」    横目で上機嫌の都築を見ながら、半井は軽くため息をつく。   「ち、ちょっと待って下さい。いきなり働けなんて、そんな……」    勝手に話が纏まりそうになって、良次郎は慌てて二人の会話に割って入った。   「お前、最近自分の顔をちゃんと鏡で見てるか?」    都築は急に真剣な顔付きになった。突然妙な事を言われて、良次郎は何て言い返したらいいのか困惑してしまった。   「ひでぇツラしてるぞ。とても青春を謳歌してる17歳の顔じゃねぇ」    まるで痛々しいものを見る様な目でそう言った。    「帰ってじっくり自分の顔を拝んで見ろ。それで納得したら来い。明日、朝9時!爪切って来いよ」    自分の顔?それが何だって言うんだ。  この人の言っていることが全く理解できずにいた。とにかく、今日言われた通りにここへ来て、言われた通りの事をした。償いは終わったはずだ。これ以上、都築というこの男の提案を受け入れる義理はない。  それなのに、何でこんな事に――動揺の中に、小さな苛立ちが湧いて来た。  良次郎はアルバイトの件には何も返事を返さず、ただ静かに「ありがとうございました。ご迷惑をおかけした事、今一度お詫び申し上げます。失礼いたします」と丁寧にお辞儀をして店を後にした。  心の中を掻きむしられて、ぐちゃぐちゃにされた気分だった。此処へはもう二度と来る事はないだろう。けれど、何故だか都築に言われた言葉が自分の中でどうにも引っ掛かって仕方がない。  誰も居ない夕暮れの部屋。だだっ広いだけのリビングに、橙色の夕焼けの一部が差し込んで、陽の光でソファの色を変えていた。どこもかしこも静まり返った室内。出て来た時と何ひとつ変わらない自宅だ。なのに、なぜか無性に哀愁にも似た寂しさを急に感じた。燻る心情を抱えたまま、バスルームにかけこんで手を洗った。ふと見上げた自分の顔が、曇りひとつない鏡に映る。    (17歳の、顔じゃない……)    都築の言葉を思い出した。  生気を感じさせない青白い顔――そこに写る自分の顔は、明らかに知っている自分ではなかった。じっと見つめて対峙している自分自身が今している表情は、一体どんな感情のものなのか、全く読み取れない。まるでロボットだ。  『母親似なのかもな』  また都築の言葉が頭をよぎった。  母さんのこんな暗い顔、見た事ない――自分で思ってハッとした。俺はいつから、表情を無くしてしまっていたのだろう。自分がいつも、どんな顔をしていたのか、はっきりと思い出せない。久しぶりに真正面から見た自分の顔は、ただの見知らぬ他人でしかなかった。その事実に、良次郎は大きなショックを受けてズルズルとその場にへたり込んでしまった。                      

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