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第18話 池之端 良次郎③
フレンチの巨匠・都築誠志郎 。
下町の定食屋の次男坊だった彼は、自らの実力でその道を切り拓き、日本におけるフランス料理界の先駆者となった。その卓越した調理技術もさることながら、皿を彩る美的センスが抜群に素晴らしかった。一方で、下町の人情気質に溢れた竹を割ったようにはっきりとした性格は、常に周囲から注目され、誰からも愛される人でもあった。正に料理業界のトップランナーで、人望も人脈もある。
――三ツ星フレンチレストラン『tsuzuki』
彼のレストランで働くということはその道を目指す者にとっては憧れであり目標。そして独立を許された暁には、一流の称号を手に入れたと言っても過言ではないのだ。
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「おはようございます」
挨拶するも、仕込みに忙しい厨房からの返事は無い。ウェイター達とて同じこと。開店準備に勤しむ従業員たちは自分たちの支度に夢中だ。何人かは良次郎の挨拶に気づいて「おぉ」とか「おはよ」と、軽く返事を返してくれるが大多数が彼の存在を無視している。
自分が歓迎されていない事は初日からわかっていた。むしろ、困惑と嫌悪を持たれているのが皆の雰囲気か伝わってくる。それもそうだ。誰だって、こんな高級店に突然やってきた高校生のバイトに興味なんか無いし、目障りだろう。でも、やると決めたのは自分だ。都築さんに与えられたこの機会が自分にどう作用するかはわからない。けれど、彼に言われて初めて向き合った自分の顔は、明らかに死にかけた表情をしていた。その酷い有様に愕然とした俺は、都築さんを信じて働いてみようと決心したんだ。
昔から人との関わり合いは苦手だし、嫌われている方が正直楽だ。変に構われるよりよっぽどいい。
この店で働き始めて一週間が経とうとしていた。ウェイター見習いとしてチーフの半井さんについて指導を受けている。自分では出来る方だと思っていたし、要領さえ覚えれば対して難しくないと買い被っていた。でも、実際の接客はこんなにも神経を使うものなのかと、想像を遥かに超えた衝撃を受けたぐらいだ。おまけに、どこへも出かけず引きこもりがちだった生活がたたって、体力がついていかず初日から相当な疲労がのしかかった。
「楽な仕事など、この世にはありません。そして、どんな仕事にもプライドを持つ事が大切です。お客様は一期一会。ミスを挽回する機会など二度と無いのです。常に最高の接客を提供する気持ちを忘れてはいけません」
そんな様子の俺を見て、半井さんは細い所にまで逐一ピシャリと釘を刺す。都築さんは何も言わない。俺の働く様子を遠くから見ているだけだった。
疲れるし大変だけれど、俺は不思議と仕事にやり甲斐を見出し始めていた。人付き合いは苦手なくせに、接客は嫌いじゃ無いと感じる自分が意外でしかなかった。緊張感の中に、自分の対応ひとつでお客様の喜ぶ笑顔がある。そんな小さな出来事が、新鮮で嬉しいと感じていた。退屈な学校へ行くよりも、今の方が余程実りのある事をしている。本気でそう感じ始めてきていた。
午前の部が終わり、休憩を取って各自賄いを食べ始める時間。皆から離れた端っこの厨房が見える席に座って、自分も食事を取る。そこが俺の定位置となった。賄いを食べながら、いつも目に付く奴がいる。一人だけ黙々と料理を作り続けている、丸い体型をした男だ。
(あいつ、休憩も食事も取らずにずっと厨房にいるよな。何で皆、何も言わないんだ?)
料理を口に運びながら、ふと疑問に思う。さすがに高校生ではないだろうが、見た目からして自分と大して歳が変わらないんじゃないかと推測する。
良次郎は食べながらある事に気づいた。今日の賄いを作ったのは先週と同じ人だ。一流のシェフ達が交代で作る賄いはいつも美味しい。けれど、先週の水曜日だけは格別に味が違った。
今日は水曜日だから、やっぱり他の曜日と違う。一体、どのシェフが作っているんだろう。チキンを白ワインで煮込んだ料理に、サラダにかかったタップナードソース。フランスの家庭料理でもある代表的なメニューだ。基本的なものだからこそ、味の違いが明確に出る。微妙な繊細さが際立つ味付けは、丁寧な仕事が裏付けられている証拠だ。これは間違いなく都築さんが作っているに違いない。俺は勝手にそう決めつけて、それからは水曜日の賄いを心待ちにするようになった。
働き始めて三週間が過ぎた頃、事件が起こった。
いつも贔屓にしてくださっている政財界の夫人会がその日は貸切で予約されていた。会長の大田原様は政党の代表をご主人に持つ方で、良次郎も父親に何度か連れられたパーティで挨拶をした事がある有名人だった。食通で美食家。そして芸術や芸能にも造詣が深く、細かな事に口うるさい気難しい性格の人であった。それゆえに失敗は絶対に許されない。準備段階からいつも以上に神経を使って、店全体がピリピリとしていた。
そんな大切なお客様をお迎えするのに、都築さんは何を思ったのか突然「良次郎に接客を仕切らせろ」と言い出した。さすがに粗相があっては取り返しがつかない上に、入って間もないバイトの高校生にそんな大仕事を任せるなんて、あまりにも危険すぎると半井さんは大反対した。けれど、自分の仕事に責任取らせるのも大事な経験だと、都築さんは自分の提案を譲らなかった。
都築さんに期待されている。それが何よりも嬉しかった。たかだか数週間働いたくらいで、一流のウェイターになんてなれる筈がない事くらい自分でも分かっている。付け焼き刃なのは承知の上だ。けれど、この人の気持ちに応えたい。この人が理想とする仕事を自分も目指してみたい。良次郎はいつの間にかそう思う様になっていた。
コースは夏野菜をふんだんに使った、味も見た目も涼しげで軽やかな、けれど満足感のある女性に好まれる内容を用意していた。都築さんが考えたメニューで、各皿を担当するシェフたちは皆それぞれ気合いが入っていた。ところがメインが終わり、いよいよコースが締まる最後のデセール(※デザート)の提供になったところで、トラブルが発覚した。
カフェの準備が整って、デセール皿の様子を厨房へ良次郎が見に行くと、例の丸い体型をした男が数人の先輩シェフたちに詰め寄られていた。
「おいっ!花!どうなってんだよ、てめぇっ」
強い語気で会話する声が聞こえて来た。厨房に入って三年目だという伊勢崎さんが一際怒りを露わにして声を荒げていた。取り囲む先輩の誰かが「使えねぇデブ」と吐き捨て、「迷惑かけるのは幅取るだけにしとけよ(笑)」とくすくす嘲笑いながら攻め立てていた。
「あの、デセールをそろそろ出したいんですが」
何か問題が起きていると察したが、お客様たちがお待ちだ。状況を把握するべく、良次郎は揉め事に割って入って質問した。
「あぁ?何だ、てめぇ。見りゃわかんだろ。まだ皿が完成してねぇんだよ」
厨房の教育担当も兼任しているリーダーの伊勢崎は怒り心頭で苛つきを隠せずにいた。舌打ちしながらギロリと良次郎を睨む。
「ったく、どうしてこうも仕事ができねぇんだよ、お前は!てめぇのせいで皿が台無しだろうが!」
晩柑を使ったパイ菓子と果実が乗せられた皿の横をドンッと叩いた。側に置かれたステンレスのバットに目をやると、添えるはずだったエディブルフラワー(※食用花)が萎れて使い物にならなくなっていたのだった。
「え、あっ……そ、そんな……ぼ、僕、ちゃんと薄めた食塩水に浸けてちゃんと準備して……」
その太った男は真っ青な顔をして、ブルブル震えながら消え入りそうな声で答えた。
「ああっ!くそっ!どうすんだよ……花がなくちゃ彩りが最悪だろうがよ。都築さん戻って来ちまう。何て説明したら……」
大田原様に呼ばれて楽しそうに談笑している都築の姿を、厨房から不安そうにチラチラ盗み見て伊勢崎が言った。
良次郎は冷静にデセールの皿を見つめた。確かにこのまま提供したら、美的感覚にうるさい大田原様はお気に召さないだろう。
かと言って、色を足す為に季節を無視した食材を急に使うのは無理にミスを補ったように思わせて見栄えが良くない。
良次郎はふと昨日の水曜日、賄いに出たレモンカードを思い出した。今日の口直し用のレモンソルベを作る為に大量のレモンが余ったので、ブレッドに付けてどうぞ。と、おまけで作られたものだった。まだ沢山余っていたはずだ。水曜日の賄い担当、即ち都築さん作ったものだから、味が格別なのは間違いない。
これを晩柑のパイに添えて出す。レモンの皮を粗めにすりおろして振りかけたら、よりクリームの淡いイエローが引き立つし、見た目にも涼しげだ。パイの中身も柑橘類だから相性もいい。
急いで半井さんも呼んできて、良次郎は伊勢崎たちに自分の考えを提案した。それからレモンカードだけではまだ皿のインパクトが弱いので、普段は使わないアンティークの茶器と一緒に提供してはどうかと話した。丁度、レモンの花と実の柄をあしらったティーカップが揃っている。
黙って話を聞いていた半井は「そうしましょう。あれこれ悩んでいる時間がありません。皆さん、急いで!」と指示を出した。
インテリアとして飾られていたティーセットを棚から取り出して、急いで洗って磨き上げる。納得いかない不服そうな顔をしながらも、伊勢崎と周りの先輩シェフたちは渋々、言うことに従った。
都築がデセールの最終チェックをしに厨房へ戻ってきた。皿をチラリと一瞬だけ確認すると、伊勢崎の方を向いた。その視線にビクリと肩を震わせて、伊勢崎はしどろもどろで説明を始めた。これでは埒が開かない。半井は下手くそな伊勢崎の説明を遮って、簡潔に都築へことの次第を話した。都築はふぅ。と軽いため息を吐いてからテイスティングをして「よし。出していいぞ」と合格サインを出した。
デセールをサーブして回る良次郎に、大田原夫人が話しかけてきた。
「まぁ。素敵なティーカップ。これはアンティークね」
いつもとは違う凝った彩飾が施された茶器に目を凝らした。夫人は例年とは違う特別感のあるもてなしに、満足気になって紅茶を一口呑んだ。
「あら。今日は……いつものダージリンではないのね」
こめかみの辺りがピクリと動いて、急に声色が変わった。紅茶の銘柄にうるさい夫人は、いつもお気に入りの茶葉を指定していたのだった。
「本日の茶葉は晩柑とレモンの風味を損なわないよう、あえて癖の無いニルギリにしております。どうぞ、夏の日差しをたっぷりと浴びた柑橘の酸味を御賞味ください」
良次郎はニコリと清楚に微笑んだ。茶葉をニルギリに変えたのは良次郎の機転だ。
「レモンは風水学で鎮気の流れを変えて活力を与えてくれる果実と聞きます。夏の暑さにバテぬ様に、本日はスイーツから漂う爽やかな香りをご堪能していただき、御婦人方に少しでも安らぎを感じていただけたらと思います」
続けてスラスラと最もらしいことを婦人達へ向けて丁寧に説明した。
流れるように完璧な所作。すらりと伸びた美しい指先で皿を置く姿。神々しいまでに端正で美しい顔をした若い良次郎に、婦人たちは思わず感嘆のため息を漏らした。大田原夫人も例の如く、茶葉の事などすっかりどうでも良くなって上機嫌で良次郎を見つめていた。それからふと、何かを思い出したようで質問して来た。
「貴方、どこかでお会いしたことがないかしら?何処か別のレストランで働いていらした?」
思わず吹き出しそうになってしまった。それもそうだ。まさか池之端の息子がレストランで給仕をしているなんて、この人たちの考えには一ミリだって浮かばないだろう。
本来ならば、俺はこの人たち側にいる人間だ。池之端という温室を抜け出して、外の世界へ出て働いてみてやっと気づいた。自分はこの人たちのようにはいられない。出来ないのだと。最初から最後まで、完璧に敷かれたレールの上を聞き分けの良い振りをして本心を隠した所で、未来はままならない。ずっと胸の内で燻っていた違和感が、確信に変わる。
俺は、自分自身で道を切り拓いて行きたい。バッググラウンドを抜きにして自身の実力だけで自分の人生を生きたいんだ。
こうなったら俺はもう、池之端家には必要の無い人間だ。毒にも薬にもならない存在でいる事は、一族に害をもたらす不協和音以外の何者でもないのだと、自分の立ち位置が明確に分かったのだった。
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