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第19話 池之端 良次郎④
慌しかった夫人会の会食は、何とか無事に終わった。良次郎はどっと疲れて、体が鉛の様に重い。さっさと着替えて帰ろうとロッカールームへ向かっていると都築が呼び止めた。これから従業員を集めて急遽ミーティングを行うという。
「さて。今日のことだけどな。まず、伊勢崎。お前はシェフ・ド・パルティ(※部門シェフ)のリーダーを降りてもらうぞ。理由は言うまでもないな」
調理スタッフの面々を集めて、都築ははっきりと伊勢崎に向かって降格を口にした。伊勢崎は何か言いたげな言葉をぐっと呑み込んで、「はい」と悔しそうに小さく返事をした。
「それから、富士男。お前の今の仕事は何だ」
都築はするどく睨みを利かせて、例の太った男へ厳しい口調で質問した。
「あ・・・え、あの・・・パティシエ・・です・・・」
自信のない、消え入りそうな声だった。
「そうだ。お前は今、パティシエだろう。菓子に集中して取り組むべきお前が、何故スープや前菜を作っているんだ」
「あ・・・」と、喉の奥から小さく声を漏らすと、富士男という名で呼ばれた太った男は真っ青になってしまった。この男だけではなかった。コミと呼ばれる、それぞれの部門の見習いに相当する何人かの料理人たちの表情も、次々と血相を変えて冷や汗をかき出した。
「お前がいつ、啖呵切って先輩たちへ意見するのか。それとも、後輩をいびってテメェの仕事を押し付けて、楽しようとしやがるこいつらの所業が明るみになるのか。どっちが早いか俺と半井はずっと見てたって訳よ」
場がシーンと静まり返った。誰もが皆、気まずい思いに言葉を失っていた。
「この店はありがてぇことに星が付いてる。贔屓にしてくださってるお客様が大勢いらっしゃる。だが、決してデカい店じゃねぇ。従業員の数も少ない。ひとりひとり、やる事が多くて負担が大きい。とんでもなく大変だ。んなこたぁ、この俺が一番よく分かってる。でもな、」
都築はひと息置いてから声を荒げた。
「調理過程を蔑ろにして、食材に敬意を払わねぇ野郎たち。俺はこいつらが一番許せねぇ。料理人の風上にも置けない奴らだ!」
都築さんは本気で怒っている。いつも休憩時間、あいつが休む間もなく何かを作っていたのは、先輩たちから管轄外の仕事を押し付けられていたからだったのかと、良次郎は今更ながら合点がいった。富士男を都合良く顎で使っていた先輩コミ達に向かって、都築は続けて真剣に怒鳴った。
「自分の仕事は責任を持って、誇りを持って仕事しろ!互いにプライドを持って挑んでいるからこそ、厨房でも信頼関係が生まれるんだ。お前らのスペシャリテは一体なんだ。テメェの料理を簡単に人任せにしちまうほど料理人の意地もプライドも捨てちまってんなら、お前ら全員辞めちまえ!」
***
結局のところ、デセールに使うはずだったエディブルフラワーは富士男をいじめていた先輩たちが仕掛けた悪戯だった。まさか全てが萎れてしまうなんて事態はさすがに想定外だったようだけれど。事前に確認する義務を怠った伊勢崎に至っては、リーダーを任されたと天狗になって仕事をおそろかにしていた証拠だった。
都築さんは豪快だけれど、曲がった事は大嫌いで、一本筋の通った人だ。料理への情熱、料理人としての誇りが人一倍強い。この人の作り上げた皿を見ればわかる。まだ高校生の良次郎でさえ、都築の仕事ぶりには目を見張るものがある。
「あの・・・さっきは機転を効かせてくれて、どうもありがとう。すごく助かったよ」
例の丸く太った男がミーティング後におずおずと良次郎の所までやって来た。礼を言いにきた割には目も合わせず下ばかり向いて、もじもじ体をくねらすばかりで挙動不審そのものだった。
「別に、問題無いです」
良次郎は表情を変える事なく、淡々と返事を返した。何もこの男を助けようとしてやったことじゃない。恩を感じさせて、変に勘違いされるのは御免だ。早くこの場から立ち去って帰ろう。良次郎が一歩踏み出したその時、都築が「二人ともこっちへ来い」と手招きしながら呼んだ。
まだ何かあるのか。良次郎は渋々、都築の元へ踵を返して戻った。
「おう。座れ、二人とも」
都築が二人を目の前に並ばせて座らせた。
「良次郎、お前は今日よくやってくれた。咄嗟にあそこまで機転を効かせるなんて、普通じゃなかなか出来ねぇ事だぞ」
良次郎の働きぶりを、都築はあらためて褒めた。それから、こほんと咳払いをして本題を話始める。
「デセールで出したレモンカード。お前は何故これを選んだ?」
「昨日食べて美味しかったからです。味も見た目も、ただの賄いとして出すには勿体ないくらいのクオリティだったので提供するのに問題ないと思いました」
「なるほど。それでお前はレモンカードをどう食べた?」
「ブレッドに付けて食べました。それに、賄いのローストラムのソースにも使われていましたね。隠し味の梅肉と良く合っていました」
「うーん。やっぱりお前凄いな。よく隠し味が分かったな。それをすんなり当てられる奴、なかなかいねぇぞ」
良次郎の言葉に都築は感心した。
「だってよ、富士男。良かったな、お前の料理をこんなに褒めてくれる奴がいて」
隣の太った男の方を向いて、都築はニヤッと歯を見せて笑った。
「え!」
思わず声を上げて驚いた。隣に座る、この男が例の水曜日のシェフだったのかと衝撃の事実を知ってしまった。
あんな繊細で深みのある味を、この男が?
てっきり都築さんが作っているものだと思い込んでいたから、ショックが大きい。失礼だけれど、人は見た目によらないとは正にこのことだ。隣で富士男は褒められて、下を向きながら嬉しそうにはにかんでモジモジしている。
「そこでだ。良次郎、お前ソムリエ目指してみねぇか?」
突然の都築の提案に良次郎は目を丸くして再び驚く。
「お前の完璧な接遇マナーに卓越した味覚センス。ソムリエに向いてんだよな。色んな食を知っているのも利点だ。それにほら、働くの楽しいだろ。初めて会った時より随分と顔色も表情も良くなったぞ」
ちょっと待ってくれ。急にソムリエ目指せだなんて話が急展開すぎてついて行けない。確かに働いてみて、言葉にするのは難しいけれど、何らかの手応えを感じているのは間違いない。でも、ソムリエだなんて今まで生きて来て考えた事もない選択肢だ。
「別に今ここで一生の職業にしろって言ってる訳じゃねぇぞ。学ぶのに損はねぇ資格だ。飲酒を伴うから本格的な訓練は成人してからだけどよ、今から勉強はじめりゃ一流目指せるぞ。そんで大学行きながらここでソムリエのバイトすりゃいいだろ」
がははっと都築は豪快に笑いながら軽い調子で提案した。困惑する良次郎を他所目に、今度は富士男に話かける。
「さて、問題の富士男だ。お前ぇよぅ、もうバレてんだからコソコソおどおどして過ごすのやめろ。いつまでそうしてるつもりだよ。コミの先輩共にいじめられてたのだって、お前が隠そう隠そうとするから、逆に弱みにつけ込まれるんだ」
ビクリと体を震わせて、富士男は恐る恐る都築を見上げた。
「お前の父ちゃんも姉ぇちゃんも言わねぇだけでとっくに気づいてんだからよ。誰もお前を責めたり悪くなんて言わねぇよ。もういい加減、腹括って堂々としろや。そんで小せぇ事にビクビクしてねぇでもっと真剣に料理に向き合え!」
「き、ききき、気づいてる・・・?い、いい、いつから!?」
顔面蒼白になりながら、富士男は前のめりで質問した。
「お前が高校辞めるって言いだした時にゃ皆分かってたぜ」
しれっと答える都築に、富士男は「そんな・・・」とショックを受けながら、しばし放心状態になっていた。
「こいつぁな、俺の甥っ子なんだ。知ってるかもしれねぇが俺の実家は下町の洋食屋でよ。兄貴が継いでるんだ。この富士男はそこの長男。料理のセンスは本当にピカイチなんだが、いかんせん自分に自信が無くてな。その気持ちが皿に思いっきり出てるんだよ」
困ったようにため息を漏らしながら都築は説明してくれた。気づいてるって何の事だろう?と良次郎は引っかかった。隣の富士男はさっきまで白い顔をしていたはずなのに、今は真っ赤に顔色を変えてブルブル震えていた。
「もうお前ぇも二十歳過ぎたんだからよ、料理人としてどうあるべきかちゃんと考えろ。そんでよ、お前はうちで良次郎と一番歳が近ぇし、何より作る料理が信頼に値する。だから二人でタッグ組んでお互いのスキルアップに協力し合え」
「は?ちょっと待ってください。まだソムリエの件の返事だってしていないのにタッグ組めだなんて」
良次郎は慌てて都築の突拍子もない提案を制止した。
「夏休みが終わるまで、まだあと一週間ぐらいはあるだろ。ソムリエの件はそんだけ時間ありゃ決心つくだろうよ。とりあえず明日から二人は一緒に訓練するぞ。分かったな。話は以上だ。帰っていいぞ」
そんな無茶苦茶だ。都築さんが強引な事は知っていたけれど、突然こんな得体の知れない奴とペアを組めだなんて意味がわからない。
都築が去った後も、二人はそこから動けずにいた。本当に、何をどうして良いのかお互い分からなかったのもある。困惑を隠せない良次郎だったが、この富士男という名の男の作る料理は間違いなく美味しいのは分かっている。都築さんはやると言ったら必ずやる男だ。明日からは否が応でもこの男と仕事をしなくちゃならない。
良次郎は何だか腑に落ちない気持ちのまま、とりあえず探る様に富士男へ挨拶してみた。
「あの、よく分かんないですけど。とりあえずよろしくお願いします。・・・『富士男さん』」
良次郎に名前を呼ばれると、その大きな体をビクッと揺らして無言のまま下を向いた。それから両手で顔を覆って、急にわっと金切り声を上げて叫んだ。
「やめてよっ!嫌いなのよ、その名前!」
急に女々しい口調に変わって、キッと良次郎を睨んだ。
「二度とアタシの前でその名前を口にしないで頂戴!叔父さんと同じ苗字で呼びにくいなら『フゥ』って呼んで!」
あまりの急激なキャラ変に、良次郎は唖然としてしまった。
(こいつ、まさか《そっち》の方だったのかよ・・・)
本人は家族にも隠し通してるつもりだったみたいだけれど、富士男がゲイでオネエなのだと早い頃から周りにはとっくにばれていたのだ。本人なりに世間体を気にして本性を隠して頑張っていたけれど、逆に変な雰囲気を生み出してしまっていたらしい。
「こうも強く言われちゃったら、アタシも本気で行くしかないわね。もう、どう見られたっていいわ。アンタ、名前は何て言ったかしら?」
さっきまでの暗くてオドオドした様子から一変して、強気な『フゥ』が今度は良次郎の目をまっすぐ見つめながら聞いてきた。良次郎もフゥから視線を逸らさずに答える。
「池之端――池之端 良次郎です。俺も自分の名前嫌いなんで。よろしくお願いします」
一瞬、良次郎の発言にキョトンとしたフゥだったが、すぐに大笑いし出した。
「あっはっは。アンタとは何だか気が合いそうな予感がするわ。こちらこそよろしくね。ところで高校生なんだって?一体どういうことよ――」
吹っ切れた途端、フゥはマシンガンの如く良次郎へ向かって質問し始めた。
まさかここからフゥと家族同然の関係性になるなんて、この時の良次郎には思いもよらなかった。
ただ、何気なく一歩を踏み出した足元から、予期せぬ方向へ波紋がどんどん広がってゆく。暗く虚無でしかなかった良次郎の生活は、この日を境に一気に変わってゆくのだった。
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