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第22話 本田崇人⑥

 僕の高校生活は、誰もが羨むキラキラと輝く理想的な青春時代。そう他人の目には映っていたようだ。  入学すると同時にすぐ陸上部に入った。理由は特に無い。放課後すぐに家へは帰りたく無かったし、ただ、頭を空っぽにして走ることで全てを忘れられる気がして気持ちが良かった。単純にそれだけで選んだ。  小さかった僕は高校3年間で20センチも背が伸びた。急にみしみしと夜中に音を立てて、脚の骨が伸びてゆく。痛くて痛くて堪らなかった。変わりゆく自分の外見は、まるで『過去と決別して別人に生まれ変われ』と母の為に体が勝手に自分自身をカスタマイズしているようで、怖くて仕方がなかった。  彼女が出来た。マネージャーの子だった。二年に上がったと同時に、向こうから告白されて付き合った。正直、彼女と毎日どうやって過ごしていたのか、殆ど思い出せない。記憶が無いんだ。結局、軽いキスのその先がどうしても出来なくて、高校卒業と同時に振られた。  今でも思う。ただひたすらに、彼女に対して申し訳無かったという気持ちと罪悪感しかない。最初から彼女を特別に見れないのだから、早々に別れてしまえばよかったんだ。でも、僕は臆病で卑怯な奴だから、自分の正体が周囲にバレるのを恐れて、必死になって彼女を隠れ蓑にしていた。  最悪な中学時代が過ぎ、最低な高校時代だった。そうまでして自分の性癖をひた隠しにしたかったのは、『僕が傷つけた山本』の存在がずっと側にあったからだ――    ***    中学受験の第一志望で入学した一貫校を辞めて、新しい高校に入学する事になった僕を意外な人物が最寄りの駅で待っていた。春休みも終盤、あと数日で高校の入学式を迎える日曜日の夕方だった。   「本田先輩!」    駅の改札を抜けた所で背後から呼び止められた。聞き覚えの無い声だった。僕に声をかける後輩なんて誰も居ない。居るはずがない。不思議に思いながら振り返ってみると、サッカー部の倉庫でリンチに合っていた例の一年生が僕へ向かって丁寧にお辞儀をしていた。   「あ・・・えっと、佐藤くん、だよね?」 「はい。佐藤真紘です。お久しぶりです、本田先輩。突然なんですけど、お話ししたい事があるので少しだけ時間を貰えませんか?」    彼は僕が倉庫で助けに入った時よりも、背が伸びて少し大人っぽくなっていた。  あれから、学校で一度も会うことはなかったけれど。どうして僕が今日、この時間に、この駅にいると知っていたんだろう。不思議に思いながらも言われるがまま佐藤の後ろをついて行った。ついた場所は駅から少し離れた所にある、ベンチと滑り台がポツンと一台だけ置かれた小さな公園だった。二人でベンチに座ると、佐藤はなぜかあらたまって僕の方へ体を向き直した。   「僕も最寄りの駅がここなんです。実はしょっちゅう本田先輩の事を見かけてて。先輩が毎週日曜に隣駅の図書館を利用してるって知ってました。だから、ここの駅前で待ってたら会えるなと思って昼頃からずっと待ってました」 「え!昼から!?」    崇人は思わず声を上げた。そんなに長い時間、僕を何の為に待っていたんだ。   「どうしても伝えたい事があって」    佐藤はぎゅっと口を結んで、今にも泣きそうな表情を見せた。   「実は、明後日イギリスへ戻ります。結局あの出来事のあと、怖くて学校へは行けてなくて・・・。それで、親と話し合って、向こうの寄宿舎へ入る事に決めたんです」    拳をきつく握りしめ、瞳を潤ませながら真っ直ぐに崇人を見つめた。   「本田先輩、あの時は助けてくれて本当にありがとうございました。僕は・・・僕は、助けてもらったのにちゃんと顔を見て、一言もお礼を言えてなかった。それがずっと心残りで――」    佐藤は悔しそうにも、辛そうにも見えた。   「先輩が高校は他校に行くって、サッカー部の一年の奴らから先週聞いて。僕のせいだなって思って。本当、申し訳なくて・・・」    苦しそうな表情。あの倉庫での一件で、絶望の淵に立たされたのは、山本と自分だけなのかと思い込んでいた。実際、心にも体にも消えない傷をより深く残されていたのは佐藤だったのだ。   「・・・ありがとう。佐藤くん。君のせいじゃないよ。それとこれとは関係ない事なんだ。でも、君から『ありがとう』と言ってもらえて、僕も何だか救われた気がする」    助けたことは偶然に過ぎなかったけれど、彼の真剣な思いが伝わって来て、僕の目頭も思わず熱くなった。まだ中学生の僕らには色々ありすぎた。ひとりじゃ到底抱えきれないほどの揺れる不安定な感情を、僕らは共有している。どうすれば良かったのかなんて、わかるはずもなかった。    「あの、山本キャプテンは今、どうしていますか?」    佐藤から突然『山本』の名前を出されて、視界が一気に歪んだ。頭の中がぐわんぐわんと揺れて、目眩にも似た立ちくらみが突然襲ってくる。これまで意識的に山本の存在を思い出さないようにしていた崇人は、力が抜けてベンチからずり落ちそうになる自分の体を必死に固定しようと何とか耐えた。   「・・・僕、山本キャプテンの事を本当に慕ってたんです。あの人がキャプテンだったから、僕はすごく部活が楽しくて、きつくても頑張れてたんです」    佐藤がポツリポツリと話始めた。    「でも、山本先輩がキャプテンを下ろされてからは凄く変わってしまって。それで意見したらあんな事に・・・。僕は、セクシャルは人それぞれだし、プライベートなものだと思うから。山本キャプテンは悪くないのに――」    聞いていてハッとした。頭で考える前に、口が先をついて崇人は佐藤へ問いただしていた。   「セクシャルって・・・どう言う事・・・?」    急に真剣な声色で質問してきた顔面蒼白の崇人を見て、佐藤は自分がふいに溢した発言のせいだと気づいて、途端に慌てだした。   「ご、ごめんなさい!違うんです。詮索するとかじゃないんです。あの、実は・・・山本キャプテンと本田先輩がその、付き合ってるんじゃないかって三年の先輩達が言ってて・・・」    棚岡たちだ。あの日、倉庫にいた三年のメンバー達の姿が崇人の脳裏に次々と浮かび上がってきた。   「――付き合ってないよ。確かに一時期、『友達』として仲良くしてた時はあったけど、今はもう・・・」   「写真・・・」   「え?」   「夏休みに山本キャプテンとどこかへ出掛けてませんでしたか?その時、棚岡先輩たちに写真を撮られていたのは知っていますか?」    頭の中が真っ白になった。どういうことだ。  写真?一体いつ、どこで何を撮ったんだ。  崇人は若干、パニックになった。必死に山本と会っていた日の事を隅から隅まで思い出そうと記憶を辿った。   「僕は実際、写真を見た訳じゃないんですけど・・・なんか話では、手を繋いで歩いていて、その、駅の改札でイチャついてた所を撮ったって・・・」    視線を外して気まずそうに佐藤はそう言った。   「先輩達が写真を撮ったっていう日が、ちょうど部活が休みの日で。その日は三年の先輩たち何人かでスパイクを見に行く約束をしてたみたいなんですけど、急に山本キャプテンがドタキャンしたみたいで。それなのにって・・・」   「――で、僕と会ってるのがバレて皆から反感を買った」    崇人はまるで独り言の様に佐藤の話の続きを呟いた。佐藤は静かに首を縦に振ってうなづいた。   「それで――それで山本はキャプテンを降ろされて、皆から突然蔑ろにされていたの・・・?」    訳もなく体が震える。膝の上で手を握ろうとしても、指先に力が入らない。  あの時だ――あの、駅で僕が山本の肩に頭をもたれかけた「あの時」を見られていたんだ。当時の光景が鮮明に崇人の脳裏に浮かび上がってくる。   「・・・先輩たちは山本キャプテンのやり方に前から反発していました。特に棚岡先輩は山本キャプテンの事を良く思っていないのは分かりやすかったです。行き過ぎたライバル心がいつも剥き出しでしたから。部活全体でそれをひしひしと感じていて、正直、雰囲気は悪かったです」    崇人は押し黙った。頭の中がぐちゃぐちゃに絡まって整理できない。   「僕には直接的な暴力でしたけど、山本キャプテンは三年の先輩達から言葉の暴力をあからさまにずっとされていて・・・部活のメニューだけじゃなくて、そういう空気に耐えられなくて僕は棚岡先輩へ意見したんです」    佐藤は思い出して辛そうにした。いくら時間が経っても消えないものはある。窓の外から山本がボールを蹴りながら、颯爽と眩しく走り去る姿を、僕は今でも鮮明に思い出せる。 「君は、勇気があるね。先輩達を相手にたった一人で意見をするなんて、なかなか出来る事じゃないよ。辛い経験と引き換えにはなってしまったけれど、君は他の部員たちを守ったんだ。凄いことだよ。尊敬に値するよ」  佐藤の目を真っ直ぐに見つめながら崇人は力を込めて言った。堪えきれぬものが湧き上がってきて、佐藤は顔を真っ赤にして大粒の涙を流しながら泣き出した。 「ありがとうございます」と震える声でお礼を言った。涙に濡れた眼をゴシゴシと強く擦る佐藤へ、崇人はリュックのポケットからハンカチを取り出してそっと手渡した。 「あの日、倉庫で起こった出来事を忘れるなんて、これからも絶対に無いと思う。でも、その記憶に捕らわれたまま生きていくのは辛すぎる。僕らはもう、棚岡たちと会う事は二度と無いんだ。前を向いて、先へ進もう」  よくもこんな殊勝な事がスラスラと口に出来たと思う。自分自身が一番、山本の事を引きずっていると言うのに。でも、これから外国で新たな生活を始めようとしている彼に向かってネガティブな事は言いたくなかった。  今はとてつもなく深い傷を負っているけれど、彼には明るく前向きに過ごして行って欲しい。もう、日本の学校で起こったあの出来事は、忘却の彼方へ葬り去って仕舞えばいい。自分にはそれが出来ないから、君が僕の代わりにそうして欲しい。キリキリと締め付ける複雑な胸の内を隠しながら、崇人は佐藤へ力強くそう伝えた。  夕暮れの日曜日は穏やかで、西陽が柔らかくベンチに座る二人を照らす。終わりと始まりを感じさせる黄昏時は、橙色の光が眩しくて温かかった。  僕は隣に座る佐藤の肩をぽんっと叩いて言葉をかけた。    「イギリスに行っても、頑張れ」    全ての事に疑心暗鬼になっている今の僕から、信じられないほど素直な気持ちでそう言えた。彼の未来を本当に心から応援していた。――もうすぐ、新しい春が来る。  人の縁は不思議だ。思いがけない出来事がきっかけとなって繋がっていったりするのだから。佐藤が駅で僕を待っていてくれたこの日から、お互い大人になった今日の今日まで、僕と彼は途絶える事なく連絡を取り合う仲になるなんて、誰も予想出来なかったはずだ。  彼は僕がゲイだと知る唯一の友人となった。佐藤の拠点は今でもロンドンで、帰国する度に必ず連絡をくれて遊びに行ったり、食事をしたりする。かつての先輩後輩という垣根を超えて、本来の僕自身を曝け出せる、唯一気が許せる相手だ。  いつか、佐藤にリョウを会わせたい。僕の『恋人』だって堂々と胸を張って紹介出来たなら、きっと彼は自分の事のように喜んでくれると思う。あいつの事だから、大袈裟に感動して泣くかもしれないな。それくらい、他人の気持ちや想いに一生懸命になれる、良い奴なんだ。  そうだな。そうなったらきっと良い。  そんな日が、いつか訪れたら――          

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