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第24話 逃げられない
冬休みが終わり、新学期が始まった。毎年、正月休みは憂鬱過ぎて休みが明けても、暗い気持ちを引きずったままでいるのが恒例になっていたけれど、今年はリョウと沢山過ごせたお陰で心が軽くて晴れやかなのが嬉しい。
正月の帰省は相変わらずだったけれど、妹に思いがけない言葉をかけられたのがずっと胸に残っていて、少しだけ自分のアイデンティティに対して前向きな気持ちにさせてくれていた。僕が母とギクシャクしだしてから、妹にだいぶ気を遣わせている事は前から分かってた。
僕は家族の中で唯一、妹とだけは普通に会話をしていたから、日常生活で起こった大抵の出来事については彼女も知っている。ただし、僕の性自認を除いてはだけれど。これだけは、いくら仲が良い兄妹でも自分の口から白状する事はできなかった。仲が良いからこそ、余計に躊躇われてしまっていた。
***
久しぶりに家族で囲んだぎこちない夕食後、妹の友莉がコンビニへ一緒に行こうと言いだした。アイスを買いたいから着いてきてよと。
「お兄ちゃん、変わったね」
「え・・・」
「なんて言うか、明るくなったっていうか」
冷たい空気がピンと張りつめる夜道を歩きながら、友莉が白い息を吐きながら言ってきた。
「好きな人いるでしょ。付き合ってんの?」
珍しくグイグイと突っ込んでくるものだから、僕は言葉に詰まってしまう。
「あ、いや・・・まぁ、うん・・・」
「ふーん。良い感じなんだ。お兄ちゃんとめっちゃ相性良いんだろうね、その人」
「なんでそう思うわけ?」
「高校の時さ、あんなに可愛いマネージャーと付き合ってたのに全然楽しくなさそうだったもん。あの時と比べたら、今は幸せオーラっていうか・・・顔つきがめちゃくちゃ嬉しそう!」
驚いて一瞬目が点になった。その後、思わずぶはっと吹き出してしまった。
「顔つきが嬉しいって何だよ」
友莉も一緒になって笑う。そんなに浮ついた表情をしてたかな?妹の前だと気が緩んでるのかもしれない。
「元気そうで良かったよ。お兄ちゃん、全然帰ってこないしさ。まぁ、お母さんがうるさいから実家に居たくないって分かるけどね」
ふと何かを思い出して、嫌気が差したような顔を妹は大袈裟にして見せた。
「・・・お母さん、何か言ってた?」
「まぁ、相変わらずだよ。今はお兄ちゃんより私の方にうるさいよ。もう就職先だって決まったんだから大学の最後くらい自由にさせて欲しいのにさぁ。卒業旅行も国内にしろとか口出してきて、うざいの何のって」
「ははっ。相変わらずなんだな」
「そう。だからさ、お母さんは変わらないから、お兄ちゃんは気にせず自由にしてたらいいよ。上手くいくといいね、その人と」
何気なく伝えられたその言葉に、僕はふと、妹はもしかして全てを知っているんじゃないかと感じた。決定的な事は何も言わないけれど、僕の事を彼女なりに想ってくれていると伝わる。こうして一緒に向かうコンビニだって、もしかしたら実家の息苦しさから僕を解放しに連れ出してくれたのかもしれない。
「アイス、2個選んでいいよ。今日の分と明日の分な。明日帰るから一緒に買いに行けないし」
「え!本当?やった!」
友莉は崇人の隣で軽くガッツポーズして喜んだ。本当の事なんて、妹には何一つ伝えられていない。特大の秘密を抱えてる兄なのに、こうして僕の事を気にかけて応援してくれている。
なんだか思いがけず胸がいっぱいになって、リョウの事を思い出した。彼と出会ってから、人生が目まぐるしく動き出した気がする。僕は一生たった独りで、ひっそりと生きていくものだと思っていたのに。
――リョウに会いたい。君に、今の僕の気持ちを伝えたいよ。
***
「本田先生、業者さんからお電話ですよ」
そろそろ帰ろうかと職員室のデスクの上を片付けていると、同じく残業していた社会科の先生から声をかけられた。
(業者?何か連絡取るような事があったっけ?)
全く覚えの無いまま、何気なく電話に出た。
「お電話代わりました。本田です」
「あはっ。マジか。マジで本当に働いてたんだ〜!鎌かけてみて正解だったね。久しぶり、本田崇人くん」
「はっ、あっ・・・!」
息が止まった。この声、この喋り方。忘れようにも忘れられない。――『Utopia』のあの男!
崇人は凍り付いた。けれど、出来るだけ不自然にならない様に咄嗟に取り繕った。
「いつもお世話になっております。どういったご用件でしょうか」
「へぇ〜。学校だとそんな感じなの?つれないねぇ。そんなんだから、こっちも思い切って君の職場にまで電話してるんだよ。ずっと待ってるのに会いに来てくれないからさぁ」
気怠く装う声色に、湿った狡猾さが見え隠れする。崇人は職員室に残る教職員たちへチラチラと視線を向けて様子を伺った。隣の島のデスクでPCをカタカタ操作するのに夢中で、崇人の電話にはとりわけ気にしている様子でもなかった。
「所用がありまして、手短に用件を仰っていただけると助かります」
「用件も何も、早くコート取りに来てよ。ポケットにここの学校の封筒が折り畳んで入ってたの見つけてさぁ。連絡先知らなかったから助かったよ」
遠藤眞を補導しに向かった際に、菱川から渡された封筒の存在を瞬時に思い出した。まずい。ポケットに突っ込んだまま、その存在を忘れていた。
「・・・その件については、お断りしたはずです。資料についてもそちらでご処分お願いします」
崇人は顔面蒼白になって血の気が引いた。あまりのショックに意識が朦朧となりかける。でも、不自然にいきなり電話を切る事は出来ない。何とか気持ちを立て直して、電話を続けた。
「あやふやなまま電話したのにさぁ、聞いても無いのにご丁寧に本田先生は2年3組の副担任だって教えてくれたよ。この学校の先生たち、親切だよねぇ」
さも嬉しそうに声を張り上げて、男は電話越しに話してくる。
「そうそう。2年生といえばこの学校の生徒ちゃん、うちの系列のコンカフェに遊びに来てるよ。偶然ってあるもんなんだね。凄いよねぇ、いまのJKってめちゃくちゃ羽振り良くてびっくりだよ。今度会ったら言っとくよ。本田先生もうちの系列店のゲイバーに遊びに来てるんだよ〜ってね」
受話器を持つ手が震えた。握りしめる感覚が無くなってきて、思わず受話器を滑り落としそうになる。頭の中が真っ白になって、色々反論したくても唇がまごつくだけで言葉が出てこない。喉の奥がヒリつく。唾ばかり何度も呑み込んで、冷や汗が止まらない。
「もしもーし?本田先生、聞いてる?」
「・・・はい」
消え入る様な声でやっと返事をした。
「300万」
「・・・え?」
「300万で撮った動画と交換したげる。ついでに生徒ちゃんにも秘密にしとくの、サービスで付けたげるよ」
崇人の額に、じんわり脂汗が滲んできた。
こいつはまだ、僕の事を諦めていない――まだ終わってなかったんだ。リョウに相談したことで、僕はすっかり安心しきっていた。どこまでも追いかけてくる執拗な詮索。どす黒くて粘つく不快な何かが、自分の足元に絡みついて離さない。崇人は楽観的に考えていた自分の迂闊さを悔いた。
「俺、優しいからさぁ。今月まで待ってあげる。万が一、全額用意できなくても安心してよ。うちでWワークして働けばすぐ金なんて稼げるし。君、肌も髪も綺麗だからさ、売り専向いてるよ。脂ぎった変態のジジイ達に人気あるよ(笑)」
電話の向こうで、男は心底楽しそうに笑っていた。リョウはこの男の言う事はただのハッタリだと言っていた。それは多分、本当にそうなのだと思う。でも、今は状況があの時と変わってしまった。自分が何とか無理矢理に作り上げてきた、セクシャルとは無縁の日常生活の中にまでこの男は侵食してきた。それに、遠藤さんまで巻き込もうとしている。崇人は「では検討してから、結果をまたご連絡いたします」とやっとの思いで言葉を捻りだした。
「土曜日は出勤してる?午前中にもう一度電話かけるよ。その時、受け渡し場所とか教えるから。良い返事待ってるよ🎵」
楽しげにそう言うと、男は一方的に電話を切った。受話器を握りしめたまま、崇人は固まってしまった。受話器の奥で電話が切れた機械音が耳にこだまする。その様子に気づいて、PCに集中していた社会科の教師がチラリと崇人へ視線を向けた。
自分が今、どんな様子で、どんな顔をしているのか考えもつかない。ただひとつ理解できたことは、決着をつけない限り、あの男から逃げる事はできないという事だ。
全身が総毛立ち、悪寒が走る。地に足つかない感覚に陥って、声をだすのも辛い。なんとか取り繕って「では、失礼いたします」と、相手が居なくなった電話の向こう側へ声を発した。
崇人はフラフラとそのまま音も立てずに立ち上がると、教員用のトイレの個室に入って鍵を掛けた。扉を背にしてズルズルと力無くへたってしゃがみ込むと、どう足掻いても逃げ切れない自分の性に対して、後悔とやるせなさがどっと押し寄せてきた。
目の前が真っ黒に塗り潰されて、視界が良く見えない。そのドス黒い闇に、自分自身も一緒に巻き込まれてグチャグチャに掻き消されていってしまうような恐怖が、崇人に纏わりついて離れてくれなかった。
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