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第26話 すれ違う君と僕

 「崇人!待てよ、崇人!」  リョウが後ろから名前を叫んで走って追いかけてくる。わざと聞こえない振りをして、街の雑踏を逃げるように掻き分けて早足で歩き続けた。 「・・・崇人!」  やっと追いついて、崇人の肩をぐいっと引っ張った。無理にこちらへ体を向かせる。目が真っ赤だった。眉間に皺を寄せて涙が出るのを堪えながら、唇をワナワナと震わせていた。   「・・・っ、話す事なんて、無いよ」 「どうしたんだよ。急に何も言わずに出て行くなんて」 「・・・」 「さっきから様子がおかしいだろ」 「・・・」 「またダンマリかよ」    リョウが苛立っているのがわかる。後ろで緩く結んだマンバンヘアの前髪を、撫で付けるようにして掻き上げながら「はぁ」と大きく溜息をついた。空気がピリつく。リョウのその仕草が、ずっと前から無理矢理に押さえ込んでいた崇人の複雑な心情に決定的な亀裂を入れた。   「武井さんの事は悪かったよ。あの人、昔からそうなんだ。悪い人じゃないんだけど距離感おかしいっていうか、その――」 「友達だろ!・・・僕とリョウは、『友達』だろ?」    言葉を遮って崇人は声を荒げた。その勢いに、思わずリョウの顔が強張った。   「いいんだ。実際、そうなんだから。君がゲイじゃない事ぐらい、分かってたよ。僕とは成り行きでそうなっただけ。別にそれでいいよ。君とは、恋人でも何でもない。ただ何回か寝ただけ。それだけだ。だから、僕に関する全ての事をいちいち君に報告する義務なんてないだろ!」    叫びにも似た口調で、一気にそう言ってしまった。もう、歯止めが効かない。リョウの気持ちに寄り添って、彼側に立って状況を考えることなんて出来ない。気持ちのセーブがままならない。本心を剥き出しにされて、崇人は珍しく激しい感情を露にしていた。目の前には驚いた表情のリョウがただ呆然とつっ立っていた。    何か言ってよ、リョウ。・・・何か言えよ!   違う。お前は友達じゃない。恋人だ!って、今すぐに僕の言葉を否定してよ。今、この瞬間にだって一縷の望みに縋ってる。リョウの口からはっきり僕のことを「好き」だと、ただ一言だけそう言ってくれたら、僕は僕の全てを君に捧げる。元通りの平和で幸せな僕らに戻れるんだよ。『友達』と表現したのは咄嗟に出て来た言葉だって分かってる。僕がゲイだとバレない様に気を使ってくれたことぐらい、理解してる!  でも、でも今は駄目なんだ。リョウへの大きすぎる気持ちが限界を突破して破裂してしまった。もう、自分でも歯止めが効かない。後戻りができない。  お願いだ。お願いだよ、リョウ。今ここで、君からはっきりと最後の審判を下さないで。リョウがノンケでもゲイでも、どうでもいい。僕のことが、僕だけが好きだと今、ここで言ってくれよ!   「――崇人・・・俺・・・」    リョウは視線を外して気まずそうに口籠った。その姿を見て、崇人の中で何かが一気に崩れ落ちた。頭のてっぺんからつま先へ向かって、鋭利な刃物で串刺しにされたような痛みが貫いた。喉の奥が焼ける。熱くて痛くてむず痒くて、苦しい。息が吸えない。唾さえも呑み込めない。  この耐えられない苦しみには覚えがある。過去の光景が脳裏にまざまざと蘇ってくる。ずっと色褪せない記憶。あの時、山本が僕に見せた、怒りにも悲しみにも似た複雑な表情がフラッシュバックしてきた。足元からじわじわと黒い恐怖が昇ってくる。その重苦しい記憶と、今ある現実の景色に押しつぶされそうになって、崇人はその場から走って逃げた。リョウにかける言葉は見つからなかった。逃げるしかなかった。周りの風景を無視して、がむしゃらに、ただひたすらに人混みを掻き分けた。とにかくリョウから離れたかった。彼の存在を感じさせない遠いどこかへ、今すぐ飛んで行きたかった。    ――終わった。僕とリョウの関係は終わった。   「上手くいくといいね、その人と――」  不意に妹の友莉から言われた言葉が頭によぎる。胸に鋭利なナイフが幾つも突き刺さっていて抜けない。息が苦しいのは走っているせいなのか、何なのか、もう訳が分からなかった。ただただ深い悲しみと澱んだ苦しみだけが僕を占拠して、このぐちゃぐちゃの感情をどうしたら良いのか、答えを見いだせないまま僕はひたすら走り続けた。    ***    気づくと、記憶のないまま自宅玄関の前に立っていた。この状態でよく帰れたなと思う。気怠い身体を無理に動かして鍵を開けようとした時、ポケットから低い重低音が鳴った。スマホを取り出して画面を見ると、父からだった。   『明日の14時。新宿三丁目のコーヒーショップで待ってる』    メッセージを読むと、崇人は急に神妙な顔つきになった。今更もう、自分はどうなってもいい―― さっきまではそんな気持ちにしかなれなかったけれど、父からの連絡で頭の片隅に家族の顔がぼんやりと浮かんできて、少しだけ正気に戻れた。そうだ。家族に迷惑はかけられない。  Utopiaの遊羽人から300万を催促する電話があった日、僕は手持ちの現金を片っ端から掻き集めて、通帳の中身を確認した。冬のボーナスを合わせると、300万円に少しだけ足りない。生活費も全部注ぎ込んだら、すっからかんだ。  しかも、来月にはこの部屋の更新がある。正直足りないどころか、むしろマイナスだ。大学時代のアルバイトで貯めて来た貯金はすべて一人暮らしをする時に使ってしまったし、社会人になってからも薄給ながら堅実に貯めて来たつもりだった。けれど、今の僕に300万円は大金すぎる。このままだと、消費者金融に頼るしかない。でも、教師である僕がそんな簡単に借りて良いものか。返せる見込みがあったとしても正直、借金を背負うということに躊躇してしまう。  思い悩んでいるとコーヒーテーブルの上に置いていたスマホの画面が光った。メッセージが来ていて開くと、父からだった。  (父さんからメッセージ?初めてじゃないか?)  不思議に思いながら内容を確認すると、急だけれど話したい事があるから日曜日に会いたいとの事だった。父からこんなメッセージを受け取るのは初めてだった。正月に帰省した時は変わらず元気にしていたけれど、本当は何かあったんじゃ・・・  急に父の事が気になり出して不安を覚えた。土曜日はリョウの家に泊まるだろうから、新宿で待ち合わせすれば日曜日の午後だと時間を作れるはず。崇人はタタタッと素早く画面をタップして、『新宿で午後になら会えるよ』と急いで返事を返した。    ***    毎日悩んでも答えは出ない。金策に走ろうとも結局のところ、宛てなんてひとつも無い。いつ職場にまた遊羽人から電話が掛かってきて全てをバラされるのかと思うと、不安が常に付き纏う。このまま無視して相手の感情を逆撫でするような事は出来ない。かといって、300万はすぐに用意出来ないと素直に言うべきなのだろうか。払えない分は店で働いて補填してもらうような事を言っていたけれど、そんな事は絶対に出来ない。  教師の僕がゲイバーで副業だなんて、バレたら懲戒免職どころの騒ぎじゃない。それに、ゆくゆくは売春させられるのだろう。想像するだけでどこまでも堕ちてゆく道筋しか見えない。考えるだけで身の毛がよだつ。崇人は唇を噛み締めて、神妙な表情を浮かべた。    父へ、金銭面の援助を打診すべきか――    ふと、そんな事が頭に浮かぶ。  今更、家族に何かを頼るなんて。自立して実家から距離を取る事で、母から自分自身を何とか守って来たつもりだ。こんな不甲斐ない出来事に、易々と頼るわけにはいかない。それに、頼るからには理由が必要だ。父がどこまで『僕』について知っているのかは分からないけれど、面と向かってカミングアウトする事は相当な決意が必要だ。場合によってはお金がどうこうの話ではなくなる可能性だってある。  散々色んな事を考えたけれど、結局何の答えも出ないまま日曜日を迎えて、父と会う時間が迫っていた。リョウの雰囲気が残る新宿に、今足を運ぶのは正直辛い。こんな事になるのなら他の場所を待ち合わせにすれば良かったと後悔したけれど、もう遅い。とにかく手短に父の話だけを聞いて帰って来よう。曇った表情のまま、崇人は父の待つコーヒーショップへと向かった。  新宿三丁目から少し離れた場所にある、大通りに面したそのコーヒーショップは静かで落ち着いてはいるけれど、店内は混雑していた。先に入ってコーヒーを啜っている父の姿を見つけると、崇人は軽く手を上げて合図した。   「お前は昔から時間通りだな。コーヒーで良かったか?」    席に着くなり、父は時間をきっちり守る崇人に感心しながらコーヒーを勧めてきた。買いたてなのか、マグカップから湯気がゆらゆらと立ち昇っていた。   「突然連絡をくれたから、びっくりしたよ。――何かあったの?」    着て来たコートを脱いで、崇人は丁寧に畳みながら聞いた。   「いや・・・正月に言うタイミングはいくらでもあったんだけどな。正直、あの家の中では言い出しにくかったんだ」    父はバツが悪そうにして苦笑いする。   「父さんと母さんな、離婚しようと思うんだ」 「え・・・」 「といってもな、しばらくは籍が入ったまま別居になると思う。正直、母さんは離婚に反対していてまだ調停中と言った方が正確だけれど」 「・・・急にどうしたの?」    父親からの予期せぬ突然の発表に、崇人は面食らった。もしかして自分が原因なんじゃ――そんな不安が瞬時に頭をよぎり、胸がザワザワと波打ち出した。   「俺も三月で定年だ。人生を見つめ直す時が来たって訳だ。学生時代の友人が、葉山でペンションをやっていて、住み込みで手伝わないかって誘われてる」    父は息子へ素直に気持ちを吐露した。   「正直に白状すると、母さんと一緒に暮らしていくのはしんどいんだ。お前が家を出ていって、友莉もこの春出ていくだろ?二人とも社会人だ。丁度良いタイミングだと思ってな・・・」    言葉が出て来なかった。――僕のせいだ。 僕が僕自身について余計な事を口にしてしまったせいで、母は変わってしまった。  生活に起こる小さな出来事にも必要以上に過敏になり、取り憑かれたように僕を矯正しようと躍起になった結果がこれだ。僕が出て行ってからも恐らく家の中は変な違和感と居心地の悪さで溢れていたはずだ。僕が掻き回した家族。四人で暮らしていても、中身はバラバラでぐちゃぐちゃだった。父さんも友莉も、僕には何ひとつ言わない。あの日から、明らかに変わった家族の形に思う事や恨み言もあるはずだろうに。  崇人は居た堪れなくなって、下を向いた。しばらく押し黙った後に父親の顔を見上げた。   「父さん・・・ごめんなさい」    弱々しく掠れた声で謝る。息が詰まって、唇が震えて、上手く言葉を発せられない。   「ごめんなさい。こんな僕で、本当にごめんなさい・・・」    謝るしかなかった。謝る以外、何も出来なかった。 父は知っている。今、確信した。 どこまで理解しているかはわからないけれど、少なくとも僕の性自認について他人とは異なると分かっている。僕は両親の思う『普通』の子供にはなりえなかった。幸せな家族の形を壊した原因は僕だ。今の僕には「ごめんなさい」と、ただひたすら謝り続けるしか父にかける言葉が見つからなかった。   「何を謝る事があるんだ。お前のせいじゃない。離婚は父さんと母さん、二人の問題なんだ」    この世の終わりのような表情を浮かべて謝り続ける我が子の姿を目の前にして、父は何かに堪える様にしながら必死に崇人の謝罪を否定した。   「崇人・・・父さん、駄目な父親で悪かった。お前が大変な時に、気持ちに寄り添う事をしなかった。どうすべきなのか、分からなかったんだ――正直、今もお前に対してどうすれば正解なのかが分からない。そんな父親なんだ」    テーブルの上で湯気の立つコーヒーカップを見つめながら、伏し目がちにゆっくりと話し始めた。   「でも、でもな。お前は俺の子だ。大切な俺の息子だ。それは絶対に、未来永劫、変わらない」    珍しく強い語気だった。崇人の精神的な苦痛に歪めた表情が、思わず驚きに変わる。   「お前は俺たち家族に対して、自分が他人と違う感覚を持っている事に強く罪悪感を感じているだろう。そんな事はもう、思わなくていい。俺たちの事は気にせず、お前はお前の人生を生きろ」 「父さん・・・」 「家族の気持ちがバラバラになってしまったのは、家庭を顧みなかった不甲斐ない俺のせいだ。母さんがあんな風になってしまったのも、俺たち夫婦が日頃から会話をして意思疎通をきちんとしてこなかったせいだ。もう、何を言っても理解し合えないところまで来てしまった。お前のせいじゃない。崇人、お前はひとつも悪くない」    父は涙を流していた。嗚咽を漏らすわけでも、身体を震わせるわけでもなく、ただ涙の粒が静かに頬を伝って流れていた。こんなに強く真っ直ぐに、父から向かって来られた事なんて一度も無かった。  ずっと欲しかった言葉をやっと言ってもらえた。僕は家族に肯定して欲しかった。僕は今の今まで、こんなにも気弱で自信の無い、ゲイである自分の存在意義を見出せないどころか、失いかけていた。    僕は、僕の人生を生きていいの?ビクビクと怯えながら、もう家族の顔色を伺わなくていいの?――    無くしたと思っていた居場所が、突然帰ってきた気がした。父と母が離婚すれば家族の形は変わる。でも、家族の中でもう疎外感を感じなくていいんだ。僕が、僕らしく生きて良いと父から背中を押された事が、こんなにも誇らしく幸せに思えた。   「・・・父さん、ありがとう。ごめんね。ありがとう」    崇人は目頭を熱くしながら、震える声色で真正面から父を見た。   「だから、もう謝るなって。お前は自慢の息子だよ。いつも元気で居てくれたら、もうそれだけで十分なんだから」    眉尻を下げて父は優しく微笑んだ。    (父さんのこの笑顔・・・いつぶりに見たろう・・・)    思えば久しぶりに対峙した父の姿が小さくなったことに気づく。顔には皺が、髪には白いものが増えていた。自分の事ばかりで、父親の変化に気づけていなかった。見えていなかったと言った方が良いのかもしれない。    僕は大切な人の事、ちゃんと見えている――?    リョウの顔が頭に浮かんだ。困惑して狼狽えた君の顔。改めて思えば、酷い態度を取ってしまった。全てが混乱していて、余裕が無かったなんて言い訳にしかならない。  僕は、僕ばっかりだ。自分の気持ちしか考えていないじゃないか。僕がリョウに合わせて何でも我慢して言う事を聞いていれば、二人の関係は上手く行くと、勝手に信じて思い込んでいた。でも、結局のところ、それは自分が単純に傷つきたく無かっただけだ。リョウの気持ちを一度でも自分から聞いた事があっただろうか。彼の想いや考えを無視して、勝手に自分にとって居心地の良い関係にしたかっただけだ。聞くのが怖いという気持ちばかりが優先されて、大切な話からいつも逃げていたのは僕の方だ。  山本の事を引きずったまま、あの時のトラウマから逃げ続けるのはもう止めよう。リョウは、山本じゃないんだ。  例えもう関係が修復できなくとも、二度と会えなくなったとしても、彼を諦めたくないから、きちんと向き合って話さないと。臆病で気弱な僕のままでは、前には進めない。崇人は父親と話して気づけた事で、そう固く決意した。            

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