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第27話 覚悟

 これを渡せば、何かが終わって何かが始まる――  100万円の束が2つと、端数の万札。  崇人はテーブルの上に積んだ札束をじっと見つめた。これで僕は本当の一文無しだ。残りの足りない分と来月の家の更新料は消費者金融から借りるしかない。返済と生活費の事があるから、来月の給料日まで金の引き渡しをもう少し引き伸ばしてもらえる様に頼みに行くしか無い。  でも、本当にこれで終わる?  もう二度と奴から絡まれないという保証はあるのか?    ――いや、もう、覚悟を決めよう。金を用意しない限りは、どのみち今の状況からは逃げられない。リョウには金輪際、独りであのBarには行くなと釘を刺されたけれど、話をつけに行くしかない。こんな風になってしまったのも、そもそも自分の浅はかな行動が招いた結果なのだから、自分自身で片をつけなければいけないんだ。  あれから、もうすぐ一週間が立とうとしているけれど、リョウから連絡は無い。何度も彼にメッセージを打とうとスマホばかり触っている毎日。でも結局、書いては消しての繰り返しで、彼へ送る言葉が見つからないままだ。あれだけはっきり啖呵を切って走って逃げてきたんだ。リョウから連絡なんて来るはずがない。まして、僕からだって今更何をどう言ったらいいんだ。  僕のことはもう、面倒くさくて重い奴と飽きれているかもしれないな。あんなにモテるんだから、もしかしたら既に新しい良い人がリョウの隣にいたっておかしくない。僕らには縋るような思い出らしい思い出なんて無いし、二人で過ごした時間なんてほんの僅かだ。簡単に忘れられて当然だ。このまま、時が流れて記憶は風化していくだけ――  悪い方にしか考えが頭に浮かばず、振り切れない悲しみと澱んだ絶望が崇人に纏わりついてくる。  嫌だ――そんなの、嫌だ。  リョウの側にいたい。君の隣で笑っていたい。キスしたい。僕は君と一緒に並んで歩いていきたい。それが僕の本心。望む事。 僕の望みは叶わない可能性のほうが高いと分かってる。でも、自分の気持ちに素直になって、リョウとちゃんと向き合おうと決心したじゃないか。例え届かない想いでも、もうこれ以上一緒に居られないと分かっていても、君に真正面から伝えたい。正直、怖いよ。リョウの顔をまともに見て話せる自信なんてないよ。でも、一歩を踏み出すんだ。過去の呪縛から抜け出して、臆病で気弱な僕と決別するんだ。前へ進む為に。    ***    ――カランカラン    真鍮のドアチャイムが高く鳴った。   「いらっしゃいま――あらっ!崇人くんじゃない!」    夕方の営業時間が始まるとすぐに、崇人がフゥの店のドアを開いて入店してきた。思いがけない人物の登場に、まだ客の入りがない店内でアレックスと談笑していたフゥは驚いて声を張り上げた。   「こんにちは。フゥさん、アレックスさん。いや、もう『こんばんは』かな」    崇人は気まずそうにしながらも、ぎこちない笑顔を作って二人に挨拶した。フゥの大声に気づいて、奥で作業していたみっちくんがひょこっと顔を出してにこやかに手を振ってくれた。   「嬉しいわぁ♡来てくれて。座って座って!」    そんな事はお構いなしに、フゥは嬉しそうにしながらキッチンから目の前のカウンター席へ座るように誘導した。「Hi !」とアレックスさんもいつもの様に手を挙げてニコニコ笑顔で挨拶してくれる。この場所はいつ来ても変わらない。朗らかで優しい、穏やかな空間。崇人は全身でしみじみと感じた。   「平日の夜に会えるなんて新鮮だわぁ〜。今日はお仕事帰りなのかしら」    淡い水色のガラス瓶から、グラスへ水をなみなみ注いでフゥは明るく質問してきた。崇人は柔らかく微笑む。   「今日は仕事を早く終わらせて、どうしてもここへ来たかったんです。――お腹空きました!何か注文しても良いですか?」 「勿論よ!好きなもの頼んでちょうだい♡オススメはこちらよ〜」    軽くウィンクしながら、壁に吊されたボードに書かれた本日のスペシャリテについて説明をしてくれた。  1月の半ばも過ぎれば、外は寒さが増して身体の芯から凍りそうだ。漂う美味しそうな湯気が鼻をくすぐる牛肉の赤ワイン煮込みと、アレックスさんオススメのフルーティーな風味のワインを注文した。柔らかな灯りに包まれる、ゆったりとした店内でいただく温かくて優しい味のフゥの料理は、寒さに縮こまる崇人の体と心に沁み渡った。   「・・・美味しい」    今にも泣き出しそうな詰まった声でポツリと呟いた。その様子を見て、フゥが優しい口調で改まって聞いてきた。   「元気にしてたの?」 「・・・はい。この前は、すみませんでした。いきなり飛び出して行ってしまって」 「いいのよ!そんな事!気にしないで」    フゥは顔の前で手をぶんぶんと振りながら、大丈夫と微笑んだ。   「武井がズカズカとお構いなしに割り込んでくるからよ!全く、あいつは悪い奴じゃないんだけど、距離感おかしいのよね!」    その時の様子を思い出しながらフゥは憤慨した。   「ははっ。リョウと同じ事言ってる」    聞いた事がある台詞に、思わず崇人はくすりと笑った。   「リョウもね、働き始めの頃はいつも武井に絡まれてうんざりしてたのよ〜。ま、人となりが分かってからは仲良くやってるみたいだけど。懐かしいわね〜」    自然とリョウの話になってしまう。それはそうだ。だって、僕らに共通しているのは『リョウ』なのだから。  リョウから離れるという事は、今ここにいる皆ともお別れをするという事だ。ありのままの自分を受け入れてくれる場所を探して『utopia』へ行ってはみたけれど、簡単に見つかるはずもなかった。むしろ予期せぬ意外なこの店が居場所だったなんて。そして、ここへ僕を繋いでくれたのは他ならぬリョウ自身――  崇人は一瞬、下を向いた。表情を曇らせながらもぎこちない笑顔を見せて話し始めた。   「・・・武井さんは、悪くありません。今日、ここへ来たのは皆さんに会いたかったからです。もう、会えないかもしれないから・・・最後に皆さんと話たかったし、こんな僕を受け入れてくれて、ありがとうと伝えたかった」 「ちょっ、ちょっと待って!もう会えないって、どういう事?」    崇人の言葉にフゥやアレックス、みっちも動揺した。店内が一気に静まりかえる。   「リョウと・・・話します。真剣に話します。もしかしたら・・・いや、恐らく、もう二度とリョウと会う事はないかもしれない。だから彼と話し合いの場を設ける前に、皆さんともう一度会いたかったんです」 「ね、ねぇ・・・ちょっと、どうしたのよ崇人くん。確かに話し合う事は大事よ。でも、だからって私たちともうこれっきりなんて、そんな悲しい事言わないで頂戴!」    思いもよらない展開に、フゥは真剣になって反論する。   「例えリョウと円満に離れることが出来ても、僕はもう貴方たちと一緒に居ない方が良いんです。・・・理由は言えないけれど、迷惑がかかるかもしれない。だから、笑顔でお別れしたいんです」    翳る表情の中に、覚悟が見えた。   「リョウと別れるつもりなの?何があったのかは分からないけれど、貴方たち、お互いを誤解し合っているんじゃない?ほら、リョウは言葉が圧倒的に足りないから――」    フゥは何とか考え直せないかと崇人に問いかける。崇人は静かに首を横に振った。   「リョウと僕は始まっても終わってもいないんです。ただ、僕が一方的に彼を追いかけ回していただけ。だから、僕の気持ちをちゃんと伝えてキッパリ振られれば、この辛くて苦しい想いも断ち切れるんじゃないかと思うんです」 「え、ええ〜・・・待って待って――」    カウンターのコーナーに大人しく座っていたアレックスが混乱して焦りだしたフゥを諌める。   「決めつけや推測はお互い不幸にしかなりません。アナタの正直な気持ちを伝えて。言わない後悔は一生付き纏いますから。頑張って、タカヒトさん」    そう語るアレックスの瞳の奥が、一瞬だけ暗く翳った様に見えた。それはまるで、自分にもそんな経験があると暗に語っているようだった。   「――ありがとう。アレックスさん」    ぐっと込み上げてくるものを必死に押さえながら、崇人はアレックスの目を見てゆっくり頷いた。  ここへ来る前にやっとの思いで送ったリョウへのメッセージ。返事はまだ来ない。でも、リョウは必ず答えてくれる。逃げずに向かい合ってくれると、僕は信じてる。  器の中の熱々の牛スジ肉の塊にそっとフォークを差し入れる。簡単にほろりと解けた。フゥさんの料理からは、包み込まれるような温かい優しさが溢れ出てくる感じがして、何だか涙が湧いてきそうになる。  その時、勢いよくドアが開いて外の冷気が崇人の背中を撫でた。ドアベルがからんからんと残響を奏でる方へ顔を向けて振り返ると、思いがけない人物が立っていた。   「――リョウ」    持っていたフォークが手から床へ鋭い音を立てて滑り落ちた。崇人はただただ目を丸くして、突然現れた目の前のリョウの顔を見つめるしかなかった。                          

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