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第30話 誓い
「どこ行くの?」
いつの間にか身支度を整えて、そっと出て行こうとする崇人を背後から呼び止めた。熟睡していた筈のリョウはベッドから体を起こして、その後ろ姿を心配そうに見つめていた。崇人は驚いてビクリと体を震わせると、その場で立ちすくんでしまった。
「もう、帰るよ。今日は仕事なんだ」
様子が明らかにおかしかった。リョウの方を振り返りもせず、ただぎこちなく端的にそう言った。ベッド脇のサイドボードに置かれたデジタル時計をリョウはちらりと見た。
「まだ朝5時だけど。そんなに急いで行かないといけないの?」
「・・・うん」
「本当?」
リョウはベッドから立ち上がると、背後からそっと抱きしめた。崇人の首筋に顔を埋めながら話を続ける。昨夜の余韻がお互いの肌に残っている。
「まだ行かないでよ」
「・・・うん」
「こっち向いて」
抱きしめる肩を引き寄せて、自分の方へ向かせた。振り返った崇人は、複雑な表情を浮かべながら辛そうな顔をしていた。
途端に嫌な予感が胸いっぱいに広がった。
何か言われた訳じゃないのに、崇人が急にどこか遠くへ行ってしまう気がしてならなかった。
――もう二度と会えない
そんな考えがふとよぎる。途端に感情が湧き立ちだしたリョウは、半ば乱暴にその場でキツく崇人を抱き締めると、着ている服を捲り始めた。今直ぐに全てを脱がせて、もう一度抱こうとする。『俺の事だけしか考えられなくしてやる』と躍起になった。
「リョウ!ちょ、ちょっと待って」
「何で?」
「何でって・・・。僕は、本当にもう行かないと・・・!」
「今から仕事って、嘘だろ。何でそんな事言うの?」
怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。眉間に皺を寄せてリョウは崇人をじっと見下ろした。
たくしあげられたシャツの隙間に入れられた手が、素肌の脇腹をなぞる。ゆっくり撫でまわされると、まだ残っている昨日の熱が反応して、ビクビクッと崇人は敏感に身体を捩った。
「何しに出てくつもりだったの?」
まさぐる手が上がって来て、過敏になった乳首を親指でキュッと押し倒してから弾いた。「あっ」思わず声が漏れる。正直過ぎる身体の反応に、顔が一瞬で火照って赤らんでしまう。はっ、と息が微かに上がってきて、崇人は咄嗟にリョウの胸を叩いて抵抗した。
これじゃダメだ。流されちゃいけない。後ろ髪を引かれる想いなのは分かってた事だろ。
リョウの瞳を目の前にしたら、彼と会話してしまったら――決心が揺らぐ。
その為に朝早く出て、僕は彼の目の前から消えるつもりだったのだから。
でも、この状況になってしまったからには逃げられない。別れの言葉をはっきり口にしないと、リョウには伝わらないはずだ。やっと想いが通じ合ったのに、面と向かって「さよなら」を言葉にするのは、あまりにも辛い。喉の奥がヒリヒリして焼け付く様に痛む。声を出すのが苦痛だ。だけど、もう別れのその時が来てしまったんだ。
「リョウ。君に好きだって言ってもらえて、本当に嬉しかった。幸せだった。・・・でも、どんなに好きでも僕らはもう一緒にいられない」
「・・・どういう事?」
納得がいかない。リョウは怪訝な顔をした。
「トラブルがあって・・・でもそれは、僕自身が蒔いた種なんだ。このままだと君や皆に迷惑をかける事が目に見えてる」
「何があったんだ?言えよ、崇人」
「僕の問題なんだ。僕一人で解決しなきゃ駄目なんだ。誰も・・・君を巻き込みたくない!」
リョウの腕の中で、崇人は下を向いて答えた。リョウの顔を直視できない。顔を上げて、目を合わせちゃ駄目だ。もう泣きそうだ。でも、絶対に涙を見せるな。
一瞬の沈黙の後、リョウが核心を突いてきた。
「崇人を悩ませてるトラブルって、『Utopia』が関係してるんだろ?」
ハッとして崇人は慄いた。はっきりと言い当てられて、心臓がヒュッとなった。曖昧なまま濁していては埒があかない。軽薄な嘘ではリョウを隠し通せない。――崇人はそう瞬時に悟った。
「・・・そうだよ。でも、言いたくない。言ったら絶対に君は関わろうとするだろ」
「そんなの、当たり前だろ!崇人が辛い思いしてるのに放ってなんて置けるわけないだろ!」
感情を露わにしながら、リョウは語気を強めて言った。
「駄目だよ。絶対に駄目だ。リョウは今、自分で道を切り拓いてようやく人生が軌道に乗ってる時なんだ。そんな君が僕と関わったばっかりに、被害を被るなんて絶対に許せない。君の未来を潰したく無いんだ」
冷たい汗がこめかみから流れる。緊迫した雰囲気に、体全体が緊張で震えてる。でも、精一杯に声を張って今の僕の気持ちを伝える。分かって欲しい。誰よりも君の幸せを願う僕が、僕自身のせいで君を不幸にするなんて耐えられないんだ。
「それは違う」
崇人の肩を力強く両手で掴むと、ぐいっと体から引き離した。込み上げてくるものを必死に抑えながら、リョウは崇人の眼をしっかりと見て訴えた。
「崇人の人生の一部に、俺はもうなってるんだ。崇人だって同じだろ。お互いを切り離して考えるなんて出来る訳ない。楽しい事も苦しい事も、全部二人で背負って分かち合わないと一緒に居る意味がないだろ」
「・・・っつ、でも、どうしたら良いのか、分からないんだ。自分でも何がどうしてこうなってしまったのか、正直分からない」
ポロポロと涙が次から次へと絶え間なく瞳からこぼれ落ちた。無理に押さえつけていた感情が、堰を切ったように一気に溢れて、気持ちの収集がつかない。
「一緒に考えよう。一人で抱えるなよ。崇人は何も悪くない」
リョウはもう一度、崇人をきつく抱きしめた。
この人は、僕を肯定してくれる。受け止めてくれる。僕を、心から安心させてくれる。
怖かった。ずっとずっと、怖かった。
何ひとつ悪い事なんてしていないはずなのに、僕はやっぱり排除される側、弱みに付け込まれる人間なのだと、あの日、遊羽人からのあの電話で改めて思い知らされた。
リョウに出会ってから、恋愛に浮かれていたバチが当たったのだと思った。
自分を守る為に、今まで家族や友達に散々嘘をついて騙して、本性を隠してきたんだ。身勝手な僕の言動で、山本までも傷つけた過去。嘘ばかりを積み上げてきた、これまでの出来事のひとつひとつが簡単に消えてなくなり、帳消しになる事はない。その事実を一生背負っていかなければならない自分の十字架の重圧に、僕はもう耐えきれないところまで来ていたんだ。
「・・・話すよ。何があったか、全部話すよ」
涙で赤く腫れた目元にぐっと力を込めながら、崇人はリョウの瞳を真っ直ぐに見つめながらそう言った。
***
「あの土曜日、約束に遅れたのは遊羽人からの電話を待っていたからなんだ。午前中に電話をするって言ってた彼の話を馬鹿正直に信じてずっと待ってた。結局、電話が来たのは15時過ぎ。僕は学校にバレる恐怖から身動きとれなくて、その時間までずっと職員室に居たんだ」
節目がちに崇人は、リョウへ洗いざらい全てを話した。中学の時に起こった山本との出来事から、何故『Utopia』へ行ったのか。自分の人生のほぼ全てを、包み隠さず話した。
結局その全てが繋がって遊羽人に弱みを握られる羽目になり、今まさに300万を要求されている事も正直に告白した。
過去の記憶を遡る事で、当時の感情が再び色濃く湧き上がってきて、時折声が詰まって苦しさを覚えた。でも、他の誰でもないリョウに対して自分の心に溜まった澱を吐露しながら、ありのままの自分を曝け出す様は、まるで贖罪をしているような気分だった。
本当にどうしようも無く、馬鹿げた話なんだ。あんな碌でもない男につけ込まれて金をせびられるなんて。そして、それから逃れられない不甲斐ない僕。
悔やまれるあの時の僕。我を忘れてしまう程に興奮していて、思慮が浅く、爪が甘かった。それ程までに、長年抑圧されていた性が爆ぜた瞬間の反動が凄まじかった。
でも、それがまさか職場まで探り当てられて脅迫電話を寄越して来られる展開になるとは思いもよらなかった。300万は話の流れで、遊羽人が瞬時に思いついて言い出したハッタリだと信じたかった。けれど、本名に仕事、それに生徒の遠藤さんまで巻き込む事をされては、簡単に受け流す事なんて到底出来なかった。
300万を渡したら全てが終わる確信なんてない。でも、渡さなければ終わらない。
話を終えた崇人は、少しだけ憔悴して見えた。脅迫されたあの日から、自分の中での矛盾と葛藤しながら、自問自答してきたのが目に見えて分かった。
遊羽人に屈せざえるを得ない悔しさがひしひしと伝わってくる。崇人は口に出しては言わないけれど、俺が『池之端』の人間であることも、俺を遠ざけようとした一因だと思った。向こうにその事を知られでもしたら、弱みに漬け込んで金を無心されるのは目に見えている。
リョウは小さく深呼吸をすると、崇人へ向かってはっきりと言った。
「300万を渡す必要は無い。俺も一緒にUtopiaへ行く。そこでカタをつけよう」
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