32 / 35

第32話 正体

 驚いて絶句する崇人とリョウの方へ、アレックスは目尻を下げて満面の笑顔を向けて振り返った。   「everything is gonna be all right. (何も心配いらないよ)私に任せて」    アレックスに掴まれた男の腕は、依然として微動だにしない。男はギロリとアレックスを睨め付けて、地面を叩くようにして腕を下に勢いよく振り下ろした。アレックスの手がやっと離れて、男は色彩豊かな和彫が彫られた腕を慎重にさすった。彫り物の上からでも掴まれた部分がしっかりと分かるほど、赤く鬱血して腫れ上がっていた。   「チッ・・・」    小さく舌打ちすると、急に現れたこの外国人の男へ鋭く睨みを効かせながら、あらためて上から下まで値踏みするように見下ろした。   「訛りのある英語。差し詰めシンガポール辺りって所か。華僑のチンピラが一体何の用だ」    アレックスのこめかみがピクリと動いた。   「へぇ。これだけの会話でよく分かりましたね。貴方は僕が思っていたより馬鹿じゃなさそうだ」    以前から自分の事を知っていたかのような口振りに、男は警戒する目つきに代わった。   「あ?てめぇ、勝手に出てきて何言ってんだ、おい」    隣で黙って様子を見ていた遊羽人が、丁寧に見せかけて、その実かなり威圧的なアレックスの態度にとうとう我慢できずに楯突いた。しゃしゃって来た遊羽人の存在なんてまるで視界に入らないアレックスは、男に向かって話を続けた。   「彼らは私の恩人である人の大切な家族。街のゴミ屑のような貴方達とは本来交わる事が無い人達です。これ以上、関わるのはやめて欲しい。手を引いてくれませんか」    得体の知れない緊張した雰囲気が漂っていた。リョウと崇人は豹変した凄むアレックスの姿に、ただただ言葉を失って呆然としていた。初めて会った時から感じていた何か引っ掛かる違和感が、リョウの中で今、ようやく確信に変わった。この男は堅気じゃない。俺たちとは別世界に生きる人物だ。 男は小さくため息をついて、大きな傷がついた瞼の目を細めた。 「始まっちまったもんを他所の奴が勝手に割って入ってきて、終わりにしろと吠える。それじゃ筋が通らねぇだろうが。俺たちはこいつらとビジネスの話をしに来てるんだ。あんたは当然無関係。さっさと消えろよ」  そう言って後ろのポケットから煙草を取り出すと、火をつけてフーッと煙をアレックスに向かってひと息吐いた。鼻腔がツンと詰まる。嗅いだことのない、嫌にもったりした煙だった。くゆる煙の中でこちらを睨め付ける瞳は、今にも喰ってかかって来そうな瞳孔が大きく開いた大蛇のようだった。変に鋭くて、気味が悪い。  話が平行線を辿りそうな一触即発な雰囲気に、崇人は自分たち3人の身の危険を感じた。万が一と思って用意してきた現金をカバンから取り出そうとした。とにかくお金を渡せばこの場は穏便に解決するはずだ。このままじゃ、アレックスさんは彼らから暴力を振るわれ、刺されたっておかしくない状況だ。  崇人のその様子を見逃さなかった遊羽人は、声を張り上げ嬉々として叫んだ。   「何だ。300万、ちゃんと用意してあるじゃん。本田先生がモタモタしてるから、嫌な思いさせられたわ。ほら、早く出して」    崇人へ詰め寄って遊羽人が前に出た瞬間、アレックスが素早く割って入って制止した。その行動に、遊羽人はみるみる内に額に青筋を立てて、キレながら大声で喚きだした。身長差のあるアレックスに対して、臆する事なく胸ぐらを掴み掛かり、顔を近づけて攻め寄った。   「さっきから何なんだよテメェはよ!雑魚は引っ込んでろ!そんなに死にてぇのか」   「死にたがりはお前だろう」    アレックスは眼光鋭くギロリと睨んだ。途端にその迫力に気押されて、遊羽人は心臓が鷲掴みにされたように苦しくなった。彼から感じる異様な圧力に、思わず胸ぐらを掴んだ手が震え出して足がすくんだ。逃げ場がない。  胸ぐらを掴んできた遊羽人の腕にアレックスは手を伸ばして、彼の手首を左手でガシッと上から被せて掴んだ。細いとはいえ、男の骨ばった腕を片手で易々と折ってしまうのではないかと思うほどの力強い握力だった。ミシッと小さく、腕を握りつぶす圧の音がした。  そのやり取りを黙って注視していた男は、何かに気づいた。掴み合う二人の方へ、のらりくらりと煙草をふかしながらゆっくりと近づいてきた。交差する腕の前で立ち止まると、遊羽人の手首を掴むアレックスの腕の袖口へ手を伸ばした。ジャケットの袖ボタンの隙間に指を2本引っ掛かけると、勢いよく下へ向かって引き裂いた。嵌めている男の指輪には刃物が仕込まれていたらしく、袖が肘の近くまで破れてしまった。  アレックスの腕が全面的に露出されると、リョウと崇人は目を見張った。龍の頭に蛇の体をした生き物の刺青が、手首から肘関節の内側にまで、色鮮やかにびっしりと彫られていた。   「トン・ショー・・・」 (※騰蛇(とうだ) 中国の伝説の神獣のこと)    男は刺青を目にして一言そう呟くと、片眉を吊り上げて再び煙草を咥えた。それから掴み掛かっている遊羽人の肩をぽんと叩くと、「帰るぞ」と一言だけ口にした。  急に意味がわからないと怪訝な顔をして、「は?」と苛立った声を出しながら遊羽人は男の顔を見た。   「もうすぐ旧正月だ。このタイミングで揉めるのは御法度だ。今こいつらと問題起こしたら、『親父』に殺されるだけじゃすまねぇぞ」    アレックスはただ黙って静かに話を聞いていた。  男の口から出てきた『親父』の単語に、遊羽人は顔を引き攣らせて眉間に皺を寄せた。悔しそうにしながら、胸元を掴んだ手を緩めた。同時にアレックスも彼の手首から手を離すと、切られたジャケットの袖を更に捲り上げながら微笑を浮かべた。   「I appriciate it. ハリモト(感謝するよ、張本)  僕はアレックス・タオ。東新宿のNビルにオフィスを構えているよ。覚えていて」    さようならの挨拶代わりに、袖を捲った左腕の手のひらをヒラヒラと振った。牽制するかのように、張本と呼んだ男と遊羽人へ腕の刺青をまざまざと見せつけた。チッと再び小さく舌打ちすると、男は踵を返してさっさとその場を離れていってしまった。遊羽人が必死に後を追った。  残されたリョウと崇人は唖然としていた。  今さっき揉めていたのがまるで嘘のようだった。遠のいてゆく彼らは、リョウと崇人の存在を瞬時に忘れてしまったようで、こちらの方へ振り返る事は二度となかった。   「もう大丈夫。あの人たちはタカヒトさんへ今後一切、接触して来ない。安心していつも通りの生活に戻って下さい」    取って付けたような完璧な笑顔でアレックスはそう伝えた。それから、呆然と立ち尽くす二人へ畳み掛けるように話しだした。   「リョウさん。フゥをよろしくお願いしますね。皆さんがもう二度と・・・僕と会う事が無いよう願っています」    あまりに話が飛躍しすぎていて、二人は考えが追いつかない。アレックスの突拍子もない発言に、崇人は困惑しながら口を開いた。   「え?ちょ、ちょっと待って下さい。一体どういう――」    アレックスは崇人の話を途中で遮って、『もう何も言わないで』と人差し指を口元に当ててみせた。それから二人それぞれに固い握手を求めた後、何ら変わらぬ様子で「サヨナラ」とただ一言だけ告げると、颯爽とその場から立ち去って行ってしまった。   「リョウ・・・」    崇人は何とも言えない不可解な表情を浮かべて、同じ様に隣に立ちすくむリョウの顔を見上げた。 リョウも同じ気持ちだった。全く意味が分からないし、どういう意図で彼はこの場所に来たんだろう。何故こんなにも短時間ですんなり解決したのか。 アレックスの腕に彫られた刺青。最後に両手で掴まれて、握手された時に間近で見て思った。ただの刺青じゃない。蛇のような不思議な生き物の瞳には、生々しく反射する黄金色に輝く目玉が入っていた。  アレックスは遊羽人と一緒に居たあの男の名前を何故か知っていた。それに、張本と呼ばれた男が口にした中国語。リョウの中でアレックスへの疑惑が強まる。    (まさか、チャイニーズ・マフィアなのか・・・?)   二度と会う事がないと願っているって、一体どういうことだ? フゥは大丈夫なのか―― リョウの頭に、恋に浮かれたフゥの姿が瞬時に浮かんだ。まさか、あいつに限って何かまずい事になってたりしないよな・・・  アレックスが居なくなった事で急に不安に駆られた二人は、急いでフゥの店へと向かった。  ***   「昴!ねぇ、待ってよ。昴!」    一向に歩みを止めない張本を追いかけながら、遊羽人が後ろから名を呼んだ。一度も振り返る事なく歩き続けるその姿に、いつもと違った苛立ちと不安を覚えた遊羽人は「シュンユー」と別の名前で彼を呼んだ。外では決して口に出してはいけない名だ。  新宿御苑の街路樹脇をしばらく歩いた所で、張本昴は立ち止まってようやく遊羽人の方を振り返った。   「あいつらから金を巻き上げようとするのはもう諦めろ。あの男はチャイニーズ・マフィアの人間だ。俺たちが直接関わっていい野郎じゃねぇ。あの独特な刺青。恐らく奴は李光(リー・グアン)の側近だ」    何かを考えながら歩いていたようで、張本は自分が『シュンユー』とその名で呼ばれた事に気付いていない様だった。 「チャイニーズ・マフィア?あの男が?いや、おかしいでしょ。何で高校の教師やってる人間がそんな奴と知り合いなんだよ」   「さあな。誰も奴の正体なんか知らなかったんだろ。上流階級の人間やそれ相当の一般人を装うのは、の得意とするところだ。それにしてもあの野郎、わざと俺に刺青を見せやがった」   「俺らを脅そうとでもしたって訳?舐めやがって!」    ついさっきの状況が頭の中にまざまざと思い出されてきて、遊羽人は再び眉間に皺を寄せ、怒りを込めて悪態をついた。   「――いや、あえて見せてきた。俺から『親父』へあいつの居場所を知らせる様に仕向けられた。俺の名前を知っていたし、あの刺青は奴らにとっちゃそう易々と他人に見せる代物じゃねぇ。あの教師から手を引くのを条件に、奴は自分を差し出したんだ」    してやられた。急に現れた得体の知れない輩が描いた絵図に、まんまと嵌められた。奴の正体がわかってしまった以上、こちらとしても親父に報告をしない訳にはいかない。  傷のある張本の瞼がピクピクと動いた。これは最悪に機嫌が悪くなる予兆だ。これから俺は、昴の溜まりに溜まった怒りの感情の捌け口にされる。そう確信して、遊羽人は全身総毛だった。二人の間に流れる空気が揺れてピリつく。  小刻みに体が震えるのは、これから受ける恐怖に慄いているせいなのか。それとも、暴力の中に潜む、言葉にならない彼の隠された深層心理を垣間見える事への期待に昂っているからなのか。  遊羽人の口元は、自然にほくそ笑んでいた。  俺がどんな感情を持とうが関係ない。昴は、昴の好きな様にすれば良い――  苛立ちを少しでも諌めようと、張本は何本も続けて煙草を吸い出した。遊羽人は彼の隣に並ぶと、彼が吸い終わるのを無言でじっと待っていた。  さっきまで不機嫌この上ない面構えだった張本は、暫くするといつも通りの顔つきに戻っていた。また再び歩き出す。側に寄り添っていた遊羽人の事を、完全に無視して気にも止めずに歩みを進める。存在自体、まるで目に入らないようだった。  無言のまま遊羽人は彼の後ろに続いた。それはまるで、捨てられた子犬が、飼い主に縋るように追いかけているように見えた。  二人の後ろ姿は絶望的で、哀しさに溢れていた。彼らだけ街の風景から切り取られたように浮いていて、誰も知らない別世界へと、そのまま向かって消え去って行ってしまいそうだった。                          

ともだちにシェアしよう!