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第8話
暗い水底から浮上するように目を開けると、天井がやけに遠い。
距離を測るように手を伸ばす。来てほしくなかった朝を迎えていることに、少し絶望した。
息を一つ吐き、キッチンへ向かうとカップの触れ合う音、低い笑い声が重なる。
サンダルウッドに寄り添うようなシロツメクサの匂い。開いた窓からの風で、溶け合うようにひとつの匂いになっていく。
「蓮、パンが焼けているよ」
冬真さんの声が背中を通り過ぎる。
答えずに牛乳だけを流し込むと、晴臣さんがこちらを見て肩をすくめた。
「そういう態度は気に入らないなぁ」
「すみません、なんか食欲がなくて」
「大丈夫?」
伸びてきた冬真さんの手に、思わず身を引くと彼の指先が空を切った。
「え?」
「……大丈夫です。すみません」
自分でも驚くくらい早い反応に、思わず上ずった声があがる。
「食欲がないなら仕方ねぇよ。蓮、学校も無理すんなよ」
晴臣さんがカップに口をつけながら言ってくれる。
冬真さんの傷ついたような顔が、胸に小さな傷をつけていく。
「冬真も、いちいち蓮の行動に一喜一憂すんな。いい加減、子離れしろ」
晴臣さんが新聞に視線を移しながら言うと、冬真さんは小さく頷く。
それでも二人の間には会話が流れていて、俺が入る余地が見当たらない。
身支度を整え、玄関のドアを開けると、ひんやりした風が頬を撫でた。
家を出た瞬間、ポケットの中でスマホがわずかに震える。
――おはよう
画面にたった四文字が浮かぶ。
指先が勝手に反応し、打っては消し、また打って……繰り返して残ったのは、一行だけだった。
――おはよう。あとで、話せるか?
送信ボタンを押し、スマホをしまう。既読を見届けるのが怖い。
鼻の奥に残った混じり香を、街の空気が少しずつ剥がしていく。
スマホが震えた。
――放課後、一緒に帰ろう
すぐに「分かった」と返信を打つ。
短いやりとりを交わすうちに、匂いがさらに薄れていくのが分かった。
それだけで心が軽くなり、鬱々とした気配を払うように顔を上げ、学校へ向かった。
いつもの道を歩いていけば、校門が見えてくる。
人波の向こうに湊の姿が見え、心臓がひやりとして冷たい汗が出てくる。クラスメートと話しながら歩く彼の周りだけ、空気が澄んでいるように感じた。
あの檻から唯一出られる場所だと、心のどこかで理解した。
その瞬間、目が合った。
「……おはよう」
湊の視線が一瞬揺れる。
「おう、おはよう」
それだけ。近すぎない距離で、同じ高さに視線を置く。
「放課後に、校門で待ってるから」
「ああ、分かった」
湊はそれ以上、何も言わないし、俺も言わない。
長いようで短いやり取りをしていると、チャイムが鳴る。
湊が軽く顎を引き、先に教室へ向かう。
その背中を追うように、俺も教室へ行き、席に座って息を吐いた。
思ったより緊張していたらしく、手が微かに震えていた。
今日は逃げない。言い聞かせるように手を握りしめた。
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