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第15話

 椅子の軋む小さな音がした。  湊がゆっくりと立ち上がる。  膝がわずかに揺れたが、本人は気付いていないように、そのまま体勢を整えた。 「今日は、これで失礼します」  形式ばった言い方だった。  さっきまでの会話と同じ部屋で発されたものとは思えないほど、よそよそしく冷たい。 「湊」  思わず名前を呼ぶと、湊の肩が少しだけ止まる。  振り返りはしない。   「……何かを言われても、今の僕には、上手く受け止められないと思います」  静かな声だった。  責めるでも、許すでもない、感情がないただの報告。 「なので、今日はこのまま帰ります」  冬真は短く息を吸った。  喉の奥に引っ掛かっているものは、まだ取れない。 「……分かった」  かろうじて、それだけを返す。  湊は小さく頷いた気配だけを残し、玄関の方へ歩き出した。  足音は静かで、一歩ごとに距離が、やけにはっきりと分かった。  扉が開く音。  冷たい空気が一瞬流れ込み、すぐに断ち切られる。  鼻を掠めたのはサンダルウッドの香りだった。  ここにいないはずの晴臣の気配をわずかに感じた。  閉まった扉の音は、驚くほど小さかった。  部屋に残されたのは、時計の針の音と、自分の呼吸だけだった。  それすらも、どこか他人のものみたいに遠くに聞こえた。  扉が閉まってから、どのくらいの時間が経ったのか分からなかった。  向かいの椅子には誰も座っていない。  冬真は、その光景をぼんやりと眺めていた。  視界ははっきりしているのに、頭の中だけが妙に霞がかっていて現実として受け入れることが出来ない。  ――蓮は、あなたのことが好きなんですよ  湊の声が、脳裏に響いた。  その言葉だけが、何度も反響する。  さっきまで湊が座っていた椅子に、視線が吸い寄せられる。  あの場所から、あの子になにを見られていたのか。  ――僕は蓮が好きだということを、ちゃんと言ったんです。  うっすらと水の膜の張った瞳で真っ直ぐ自分を見ていた湊。  それを受けてもなお「大人」としての顔を手放せなかった自分。  保護者として、家族として、という言葉に、しがみついていた自分がいた。 「分かっていたよ」  自分でも驚くほど低い声が出た。  蓮の視線の意味も。  抱きついてくる腕の力も。  湊が、それを少し離れた場所から見ていたことも。  全部、分かっていた。  分かっていて、気付かないふりをしていただけだ。 「気付いていなかった、なんて……」  そこまで言って、言葉は続かなくなる。  喉が焼け付くように熱く、目の奥がじん、と痛む。  背もたれに体重を預けることもできず、肘を膝に乗せ、両手で顔を覆った。  顔を覆っても暗闇は増えない。  それでも、自分を何かから隠したくて、指先に力をこめる。  ――今は、それだけ聞ければいいです。  湊の最後の言葉が、耳の奥で反芻される。 「……聞かれたくなかった」  掠れた独り言が、手のひらの中で零れる。  ここまで見透かされる前に。  ここまで言わせてしまう前に。  自分から何か言うことはいくらでもあったはずだ。  ――蓮と連絡が取れなくなって、今日で数週間になります。  あの子にとってのこの数週間は耐え難いものだったのだろう。  指折り数え、鳴らないスマホを見つめ、それでもなお、蓮を探していた。  ならば、自分にとってのこの数週間はなんだったのか?  仕事に行き、帰宅し、食事をして、眠って。  いつも通り過ごしていた『つもり』だった。  蓮からの連絡が減ったことも「晴臣が一緒にいるから大丈夫だろう」と片付けていた。  ポケットの中の重みを思い出し、スマホを取り出した。  画面を点けると、明かりに照らされた自分の顔が疲れた顔をしていることに、気付いた。  メッセージ一覧から「蓮」の名前を探し当てる。  あの子からの受信に対して、返信を送っているだけの履歴が、画面に映しだされていた。  ――体調に気を付けてね  ――晴臣の言うことをちゃんと聞いて  ――なにかあったら晴臣に相談するんだよ  そんなメッセージ達が並んでいて、  ――大丈夫です、冬真さん  毎回、そんな返信だった。  知らず知らずのうちにあの子を遠ざけていたのは、自分の方だったのだと気付いて、思わず苦笑が漏れた。  あの子の気持ちに気付いていて、それでも分からないふりをしていた状況が、この画面に凝縮されているようだった。  ――晴臣が一緒だから、大丈夫  この考えが全てだった。  だから「放っておいても大丈夫だ」と決めつけていた。 「そうか」  渇いた笑いが、喉の奥で空回りする音が響いた。  湊は、通知音に縋りつく数週間を過ごした。  自分はそれを知らないまま、同じ数週間を「いつも通り」と過ごした。  端的なやりとりのメッセージ画面を見る。  自分に対してのメッセージなのに、晴臣を頼るようなメッセージを送っている。 「……最悪だな」  小さく呟いて、スマホをテーブルの上に置く。  画面が、音もなく暗くなった。 「……ごめんね」  誰に向けられたものなのか、自分でも分からなかった。  蓮にか。  湊にか。  どれにも当てはまって、どれにも当てはまらないような気がした。  ぼたり、と何かが落ちる。  頬を触る濡れた感触がして、自分が泣いているのだと知る。  泣きたかったわけじゃない。  泣いて許される立場でもない。  それでも、一度溢れたものは、もう止められなかった。  時計の針は進み続ける。  その音を聞きながら、冬真は、ようやく湊の言う『罪』を自覚した。

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